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●国難に逃亡を決め込む?
 
 ●国難 来たり!


 新年や勲章叙勲時には、今年も ありがたき「聖上」のお言葉をいただけた。


 それが、 未曽有の 国難 のときに「沈黙」とは?


 そんな 馬鹿な!

 
 アンビリーバボー~~


 ご健康が 心配だ!


 きっと 日本国の 安泰を 祈られているのだろう?


 *********


 さて、逃亡も移動もできぬわたしはどうしよう?


 じたばたせずに、「沈思黙考」だ!


 何の何某が


 いつどこで


 何をしていたのか・・・


 胸に刻み込みながら。

  


 

 
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●大逆事件
      [高画質で再生]

埋もれた声 大逆事件から100年-ETV [ブログ]







 

●『ユダヤは日本に何をしたか』新版
                     ユダヤは日本に何をしたか 新版

 
 ●中野正剛と甘粕正彦について、参考となる論考をアップしておきます。

 当ブログ(主に落合氏の論考)の関連記事は、左下の検索に「中野正剛」と入力していただければ、出てきます。 

 
 ⇒ ★関連記事

 
 ************* 

 
 ●『ユダヤは日本に何をしたか』新版   渡部悌治  成甲書房 2009年刊 

 
 ★大川に接近した甘粕正彦の真意  p156~

 
 満州の赤化が満鉄の調査局を中核としてようやくその激しさを増してきた頃、時の満鉄副総裁・八田嘉明は、赤化防止の方策を立て、安田生命問題のとき、北一輝とともに大川と袂を分かった島野三郎氏を東亜経済調査局長の椅子に据えようとしていた。このポストを狙っていた大川周明が、河本大作を操って自分が局長になる工作をし、それが実現して大川の局長就任となったのである。だが、それによって満鉄内には赤色勢力が滔々として流れ入り、防共の策も立たぬほどになったのである。このあたりの経緯については、戦時中、成城の島野氏の自宅を訪ねて詳しく聞いたところである。後になってから大川周三氏(周明実弟)に確かめたが前述のとおりの経緯ということであった。

 満鉄を赤の巣窟にし、大川に甘粕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を作り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とソルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核とした一連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。

 それゆえにこそ尾崎秀実は獄中にあって、「日本の革命準備は、九分どおり成れり」とうそぶいていたのではなかったのか。

 大杉栄殺害に関係した甘粕が、満州に渡る機会を得たのは参謀本部の人選による。甘粕が大川に師の礼をとり、大川の周辺に身をおこうとした真意が何であったかは不明だ。

 甘粕が金を出し、大川が人選にあたるということで、私の友人・香川文雄君が偶然にも選ばれてドイツに留学することになったことがある。満州からわざわざ東京・渋谷の私の下宿まで、渡独留学のことについて相談に来たのであったが、今さらドイツにまで出かけて勉強でもあるまい。ドイツで出来る勉強なら日本でも出来る。つまらぬ真似はしないことだということになって、留学の件を甘粕に返上した。だが、機縁というのは不思議なもので、香川君の代わりに選ばれたのが、やはり知人であり、同郷の★斉藤信治氏であった。留学先はカイロであった。日独交換学生を望んでいたのだが、同輩に出し抜かれて失意のうちにあったときの朗報であった。東北大学の小山教授の人選で、大川が甘粕に推薦したのである。★留学の目的は回教研究ということであった。もちろんこれは甘粕の特務機関用務であったと思われる。

 大川の弟の周三が、特務関係の仕事で南方に行けるつもりでいたところ、それが沙汰止みとなり、東京の近親のもとに身を寄せていた頃、その南方行きの沙汰止みは単なる甘粕の邪魔くらいにしか考えていなかったが、それは周明の行動に疑いの持たれるふしがあって、達識の士が周明の行動を調査させていたからであった。

 この調査にあたった者たちは中野学校系であった。行動に移る前の事前説明において、その説明にあたった人物が甘粕正彦その人だったのである。甘粕はその説明のなかで、大川がユダヤ財閥と特殊な関係を持って行動していることを明確に指摘したというのである。


 鮎川義介、大川周明、石原莞爾らが、ユダヤ利用論者であったことは周知の事実であった。甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその一連の者として厳重に監視するよう指示したことは、一体どう解釈したらよいのか。表面は大川の指示によって動いていたように見せて、裏では大川の動きを封ずる策に出ていたとみるべきであったであろうか。

 石原莞爾が戦後、郷里の山形に仮寓していたとき、私の友人でかつて石原の秘書であった桐谷誠君を使って、石原の対ユダヤ観を徴させたことかあった。桐谷君に石原は「利用論者」と告げたということであった。これで石原将軍もユダヤ利用論者であったことが明確になったのである。

 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその手先の者として厳重に監視するように指示したのは、いったいどう解釈したらよいのか。表面は大川の指示で動いているように見せて、実は大川の動きを封じる策に出ていたとみるべきであろうか。甘粕は「南方に出張しました」と言っては大川宅に立ち寄り、妻女にワニ革のバッグなどを土産として持参していた。

 
 ★大杉栄殺害の裏にユダヤ禍 

  
 北一輝が刑死して、その遺骸が北家に送り届けられたとき、焼香に来た大川を北夫人が拒絶した話が伝えられていた。その大川は機会をとらえて、北と自分の関係が最後までうまくいっていたように見せようとしていた。自分が北に信じられていたということを、ことさらに印象づけようとして、極端に作為したのはどうしたことか。それは遠藤無水氏や横山雪堂和尚に尋ねる必要もなかった。愛国陣営の大川に対する不信を糊塗するための作為にすぎなかったのである。

 革命者として一家を成した北一輝が、単にその場その場だけの気分に駆り立てられる煽動屋にすぎなかった大川を、どの程度相手にしていたかは、北の腹のうちにあったことであり、私の想像は許されない。

 猶存社に堀やす子(*堀保子。堺利彦の義妹で大杉栄夫人)がおり、北の弟(*吉)が大杉栄からフランス語を学んでいたりしたためか、甘粕が大杉らに手をかけたことを知ったとき、北は激怒したという。その北一輝がヨッフェ問題では、その来朝を願っていたところの大川や満川亀太郎らとは反対の行動をとり、これが原因で北が大川や満川らと訣別するにいたった、と言われるほどの態度に出たのは何ゆえか。
 *北一輝『ヨッフェ君に訓(おし)ふる公開状』は、大正12年5月9日付で約3万部が全国に配布されたという。

 ヨッフェの来朝の工作をしたのは藤田勇だともいわれ、あるいはその以前に、大杉栄が後藤新平の内意を受けて北京に潜行し、事前の工作をしていたのだとも言われていた。その大杉を死なせた甘粕が、出獄してから川渡(かわたび)温泉に身を潜めていた理由は何か。単なる静養のためではなかったはずである。
     
 朝日新聞の国見特派員が甘粕を川渡温泉の高友旅館に探しあてる前に、既に渥美先生の懐刀の熊谷甚平(寂)先生が甘粕を訪ねている。そのとき甘粕は身辺に危険を感じ、身を潜めていたという。

 甘粕が出獄後、身辺に危険を感じなければならなかった理由として熊谷先生から説明をうけたが、大杉は愛国陣営から好感を持たれていたからだったという。大杉たちが憲兵隊員に連行されたときも、淀橋署員が尾行していたし、検束されたことが直ちに警視庁に通報されたのも、大杉に対する警察当局の特別の慮りからだったと当時の愛国陣営では考えていたようである。またある者は、大杉は警視庁の特命を帯びて危険思想の陣営に入りこんでいたものだとも想像していた。

 この大杉の★警視庁密偵説の真偽を確かめるため、私が私設秘書をしていた貴族院議員で元警視総監の赤池濃氏に尋ねたことがあったが、氏は言下に否定された。ちょうど会話が大和の水平社や朝鮮人の頭目の鄭寅学のことにふれていたときであった。「私が警保の当路にあたったときのことであり、間違いない」とのことであり、故意に事実を蔽うふうでもなかった。生前の赤池氏からは、大杉栄と後藤新平との接触のこととか、ヨッフェ来朝の真意などについても聞いておくべきことが多くあったが、空襲を受けて話も中断し残念なことをした。その後間もなく大阪駅で暗殺の厄にあわれ、まったく心残りであった。

 大杉栄の警視庁密偵説を赤池濃氏にただしたことには付記することがある。甘粕が大杉を殺さなければならなかった理由を、甘粕自身の口から聞くこととする。

 ―上海のガーデンブリッジを渡り、一つ目の四つ角を右に入ったところに、酒池肉林の地下室を持つキャバレーがあり、その奥の部屋に、長身で黒眼鏡に鳥打帽の男が入っては消えてゆき、数日間は出て来ない男といえば、それは上海においての大川周明のことであった。大川は上海に現われると、その宿舎とされていたホテルやビルには入らずに、大抵は、まずこのキャバレーを通路としていずこへか消え、上海に出先機関を有するユダヤ財閥と連絡を保っていた。

 その大川の動静を探らせるための機関員に対して、予備知識を与えるために大川を解剖した甘粕の説明のなかに、甘粕の渡満のきっかけとなった大杉栄事件があった。甘粕の言うところによれば、大杉は★後藤新平の内意を受けて、ヨッフェ来朝に使いし、それが成功したので、いよいよ名声を博するようになった。甘粕がその大杉を抹殺しなければならなくなった理由は、★大杉がユダヤ財閥と深い関係を持っていたからであり、その殺害は、ユダヤと大杉との関係を絶つためであったという。警視庁は、親英米派である重臣どもの息がかかっていて実行できないから、憲兵隊でこれを始末するしかなかったというのであった。

 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜となっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は絶ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川や石原らの主張に反駁するに足る証左といえよう。 

 
 ★頭山翁に問うた中野正剛自刃の原因 

 
 確かな人から確かなことを聞いておきたいと思い、私か確かめに訪れていった人物に頭山満がいる。それは中野正剛の死について真相を知りたいと思い、末永節翁と中野佐柿(さかき)先生に相談したところ、中野の遺書は頭山翁に宛てたものだけだから、東京・渋谷の常盤松に翁を訪ねてみたらどうかとの指示によったものである。

 古い話だが、小泉輝三朗の『大正犯罪史正談』が出版されたとき、赤松克麿や三田村武夫らにひどく叩かれたものだが、私は特に、《中野正剛の謎の項》に深い興味を覚えていた。

 ユダヤに日本を売り渡した者たちによって招来された敗戦後の今日では、外国から金をもらってその手先になっても、節を売ったとして自らを恥じることもなく、他もまたこれを売国奴として難ずることもなくなったが、昔はそうではなかった。張学良経由の米国からの対日謀略資金を、キリスト教婦人運動家たちの手を経て受け取っていた者や、労働者が残業までして最高一ヵ月に十円程度だった頃、日本共産党に巣喰った煽動屋たちはソ連から月二百円ずつの支給を受け取っていたものであった。

 中野正剛がきわめて勢い盛んであった頃のことであったが、私たちは中野が右翼ではあっても、真に愛国陣営に属する者であるかとうかということを疑っていた。それで中野が死んだということを聞き、その死がわれわれの疑念をはらしてくれる何かを持っているのではないかと期待したのである。そこで私は中野の死の直後、先輩を訪ねて中野が死ななければならなかった理由を問うたことがあった。先輩は即座に答えて、それは中野がロシアからもらった金を苦にしたからだと言うのであった。

 正剛の死はきわめて立派なものだったと言われていた。その模様については頭山翁からも築地の高乃屋の女主人からも聞かされた。それほどまでして死んだ中野の死が、単に東条の弾圧の結果だという風評は、にわかには信じえなかった。東条の圧迫といわれていた政治管制は、なにも東方会に限ってなされたものではなかったからだ。

 これでは説明にならないので、今度は、中野の取調べが進められると、累が宮様に及ぶことになるから、中野は責めを一身に負って、事実が明るみに出るのを防いだのだという解釈が出た。一身に負うなら負えばよろしいので、死ねば負えないことになる。説明にはならない。

 私自身もその渦中にあったからふれておくが、当時、宮様担ぎ出しには二つの流れがあった。中野がそのどちらかに加わっていたということは、当時は聞かなかった。近衛は東条内閣の末期、弟を使って、次期政権への野心を重慶に表明していたが、既に重慶の軍令部には、東条の次には東久邇宮の内閣という情報が入っていた。もちろん、この情報も黒田善治の判断によって修正され、日本の重大危機にあたって、皇族が内閣の首班になるなどということはありえないという見方に変わったのであるが、宮様担ぎ出し工作は実際あったのである。東亜連盟、ゾルゲ関連系統による東久邇宮、私たちによる高松宮様内閣構想であった。東久邇宮様担ぎ出しは、最後の狙いを赤色政治犯の釈放におき、終戦への早期借置を急務とし、ソ連の対日参戦をも計算の上で、対英・米工作にソ連を仲介させ、次に重慶を足がかりにした対米和平工作をするという東条抹殺の運動であった。

 これに対し私たちのものは、敵国と通ずる君側の奸を除き、一挙に宮様内閣を樹立し、必戦の態勢を打ち立てようとしたものである。しかし、この頃には陛下の大綱も既にソ連仲介、対連合国和平交渉に傾かれており、時機は既に去ったとの感が深かった。

 それで、中野がそのどちらかに加わっていたということは聞いていなかったので、中野取調べの進むにつれ、彼がのっぴきならぬ立場に追い込まれることになるのだとすれば、その理由はやはり純正愛国陣営が言っていたごとく、ロシア系の資金を受け取っていた事実が明るみに出されることを苦慮したからのものと考えられたのである。

 中野への工作費が、ロシアから渡されたものであることがはっきりすれば、日本の右翼も左翼も、ともに同じくユダヤに踊らされてその資金と指令とを受けて操られていたことの立証がなされる。そのため、私はこの中野の死の原因を徹底的に洗い出す必要を感じていたのであった。

 私が中野正剛の死の理由を知るために、渋谷の常盤松に頭山満翁を訪ねた日、翁は病臥しておられた。枕元でゆっくり話すつもりであったところ、起き直られて丹前を羽織られ、私はその横に坐して、耳近く話すことにした。病中のことであり、三点にしぼってご教示を願った。それは次の点についてであった。

 一、中野は右翼といわれながら、ロシアの《赤い金》、背後関係のある第三国の資金を受けたといわれるが、赤色革命関係の金を実際に受け取ったことがあるのか。中野の死は、それを苦にしたものか。
 二、日支事変は日支闘争計画によって起こされたものであり、日本の敗戦と革命とを招き、支那を米・英・ソと連合させて、日支戦争を世界戦争に発展させたのだから、翁が蒋介石は話せばわかるといって事を進めても、いたずらに敵側に乗ぜられるばかりだと思うがどうか。
 三、大川周明と米国ユダヤとの資金関係、及び二・二六事件のとき、岡田首相は官邸にいなかったのだということ。その真偽。

 以上三項目のうち、第三項の大川と米国ユダヤとの交渉に関するものは知らぬとのことであった。岡田啓介が二・二六事件の起きた日に官邸にはいなかったことについては、世間ではどう言っているかとの問い返しであった。岡田はあの夜は赤坂の料亭で、頭山翁その他と会っていたのだと言い、岡田の弟の松尾大佐はぜひ岡田に会って話す必要があったので、戻らぬ兄を待って一泊したために兄啓介と間違われて殺されたのだと言われている。岡田の天機奉伺が遅れ、後藤文夫が臨時首相代理となった理由もそこにあった。もしそれが本当ならば、岡田を官邸から助け出したという★迫水久常の正体を明かす必要がでてきますと話したところ、いちいち頷かれていたが寡黙、ついに語るところがなかった。

 蒋介石とはよく話しさえすればわかってくれるのだということについては、翁が日ごろ考えておられた構想をいろいろ話されたが、やはり蒋を昔日の彼と同一視しておられ、彼がユダヤーフリーメイソンの指令によって動き、ユダヤのサッスーン財閥と結託して、支那の金銀をユダヤに提供して、紙幣という紙屑と取り換える制度を立て、己れの利得は外国のユダヤ銀行に預託して、中国をユダヤに売り渡したのですよと話し、米英の援助で対日戦を継続しているので、和平の心などありませんと説明しても、翁の理解を得ることは既に遅すぎていた。

 第一の主題の中野正剛に死を覚悟させた理由について、東条の退陣工作に宮様を関係させたことで、累の皇族に及ぶことを恐れたからだという憶測もあるが、以前ロシアから赤い工作資金を受け取ったことが明るみに出ることを慮ったためというのが正しい見方ではないですかと尋ねたところ、巷間の噂や、赤色資金の情報の出どころなどを聞かれたのでお答えしたのだが、ロシアからの赤い金のことについては、一言もそれを否定する言辞はなかったのである。私はこれによって、中野の死の理由は、検察の調べがその赤い金に関したことであったと理解し、右翼に身を置きながら、左翼の金を受け取っていた汚点ゆえに身を潔くするための自刃と確信したのであった。

 翁の語るところは、故人にきわめて同情的であり、愛弟子を追憶して悼む心情に切なるものがあった。ことに中野の後半生における生活態度の立派さを褒めてやまなかった。その語るところを略述すれば、

 ― 中野も若い頃には数多く馬鹿げたことをしたものだ。しかし一切を清算してしまった今は、それは許してやれ。後半生における彼の精進ぶりは、立派に昔の愚行を償ってあまりあるものであり、ことに彼が妻に死なれた後の生活やその心境は、まさに透徹した清らかさを持っていた。まことに見上げた神韻の域に心身を置いたというべきで、遠く余人の及ふところではなかった。ようやくあの男もものになると思っていたところ、今度のようなことになってしまい、まことにかわいそうなことをした。中野の若い頃の愚行は責めてはいけないよ。

 ― というものであった。
 それで、頭山翁の以上の言辞から、中野がまだ血気さかんであった頃、いわゆるロシアからの資金と関係があったということを理解し、小泉輝三朗著するところのものによって、その証左を得たとしたのである。

 小泉氏は、東方同志会系の人たちからいろいろと反駁を受けたが、中野自らが師事していた頭山翁の私に語られた口吻を跳ね返すに足る中野側の論拠に接したことはない。

 ************* 

 

 

●『大逆事件 死と生の群像』
 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 第十章 社会を動かす仏教一内山愚童・高木顕明
 
 四 内山愚童の「天皇と仏教」批判  

 
 高木顕明が大逆事件そのものとしてみるときは周辺に位置したのに対して、内山愚童はかなり中核的な役割を果たした。内山自身は直接テロに関わったわけではないが、自ら地下出版した『無政府共産』では、はっきりと天皇を批判しており、宮下太吉がテロを志したのにも影響を与えた。

 内山は明治7年(1874)新潟県の小千谷に生まれた。幼名・慶吉。父・直吉は和菓子の木型を作る職人で、慶吉は小学校を卒業すると父の見習いをしていた。17歳のとき父が事故で亡くなり、家長となったが、20歳のときに上京して、井上円了の家の書生または家庭教師になったという。明治30年(1897)、叔父の青柳憲道(曹洞宗の僧)の縁で神奈川県愛甲郡宝蔵寺、坂詰孝童について得度し、天室愚童と称した。この後、参禅修行を重ね、明治34年には神奈川県足柄下郡温泉村(現箱根町)大平台の林泉寺住職・宮城実苗の法を嗣いだ。同36年林泉寺に入り、翌年住職となった。大平台は貧しい土地で、内山はここで住職を続けるうちに社会主義に関心を深め、『平民新聞』の創刊(明治36)以来の読者であった。

 その後、平民社の社会主義者と交流して名を知られるようになり、伊藤證信の無我苑の運動にも共鳴し、交流を持っている。『平民新聞』廃刊(明治40年)以後、社会主義運動が穏健派の議会政策派と強硬派の直接行動派に別れた中で、内山は直接行動派に近づき、「革命は近づけり」という意識を持つようになった。明治41年、社会主義者たちが赤旗を持って街頭行進をしたところ、有力な指導者たちが逮捕され有罪となった赤旗事件があり、社会主義運動は壊滅の危機に瀕した。その状況に危機感を募らせた内山は秘密出版を志し、自ら執筆したパンフレット『無政府共産』を各地の社会主義者に送り、その後も二冊刊行した。明治42年、その件に関する出版法違反で逮捕され、家宅捜査で見つかったダイナマイトの不法所持と併せて同43年有罪判決を受けたが、獄中で大逆事件について再起訴された。こうして同44年1月18日に死刑判決を受け、24日に処刑された。明治42年に逮捕されたとき住職を退き、同43年有罪判決で曹洞宗から攬斥処分を受けた。曹洞宗が攬斥処分を取り消したのは、1993年であった。

 高木顕明がきわめてはっきりと仏教の立場を表明しているのに対して、内山は必ずしもその点が明瞭でない。確かに、『平民新聞』第10号(明治37年)には、「予は如何にして社会主義者となりし乎」という問いに対して、「予は仏教の伝導者にして曰く一切衆生悉有仏性、曰く此法平等無高下、曰く一切衆生的是吾子、これ余が信仰の立脚地とする金言なるが余は社会主義の言ふ所の右の金言と全然一致するを発見して遂に社会主義の信者となりしものなり」と答えている。それぞれ『涅槃経』『金剛般若経』『法華経』の文句に基づいており、これによるならば、仏教の信仰に合致するから社会主義に入ったということになるが、後述のように、必ずしもそうした理論的な理由によるものとは思われない。

 しかし、石川三四郎ら、林泉寺を訪れた社会主義者たちに座禅を勧めたり、伊藤證信に対して、「折角因縁あって住職した今の地が、三百年来、曹洞宗の信仰の下にあり乍ら、高祖道元の性格は勿論、其名も知らぬといよ気の毒な人ばかりであるから、之を見捨てて去る時は、千万劫此地に仏種を植ゆる事は出来ぬ」(明治38年11月初句頃。柏木隆法『大逆事件と内山愚童』所収) と書いているように、一時期は宗門人として生きる覚悟を強く示している。同じ書簡には、「何人も今の世に在って、真面目に道の為に働かんとする者は、魔窟より発する本山の偽法には堪えられません」と書いて、本山のやり方に義憤を露わにしている。そうした正義感が、貧しい大平台の人々の生活に触れる中で、その社会主義を深めていくことになったのであろう。

 内山の著作としては、地下出版した『無政府共産』と、獄中で書いたとされる草稿「平凡の自覚」が知られている。ただ、いずれにおいても直接仏教に関わるような思想や用語は用いておらず、仏教との関係ははっきりせず、その点が問題となる。「平凡の自覚」に関しては、獄中の執筆ではなく、もっと早い時期に書かれたものではないかという説もある(森長英三郎『内山愚童』)。大逆事件の被告が獄中で書いたものは、秘密保持のために遺族に渡されなかったはずにもかかわらず、この手記は遺族に渡されており、獄中の手記としては疑問があるからである。この点に関しては私には何とも言えないが、後述のように、獄中で書いたことがはっきりしている「獄中にての感想」と似た書き方のところもある。「平凡の自覚」は『無政府共産』に較べれば穏健であり、個人の自覚による社会改良という方向を示している。そこでは、資本家を倒すことではなく、「自覚セル資本家」のあり方をも説いており、社会協調主義的な面が見られる。

 「平凡の自覚」(諸書に収録されているが、ここでは神崎清編『新編獄中手記』による)は、現存の原稿は途中で切れており、最後のほうが散逸している。前書きに続いて、最初の目録では、個人ノ自覚・家庭ノ自覚・市町村ノ自覚・国家ノ自覚・世界ノ自覚・工場ノ自覚とあるが、実際には個人ノ自覚・家庭ノ自覚・村民ノ自覚・市町村ノ自覚・工業界ノ自覚・農業界ノ自覚と進んで、その中途まで現存する。

 その原稿では、まず「自覚」について説明する。「他カラ教ハツタ者デモ、自分が発見シタモノデモ、ソレニハ関係ナシニ、自心二深ク消化セラレテ吾物ニナツタ処ヲ自覚ト云フノデアル」。その自覚は、宗教家・政治家・哲学者などでいろいろ異なっているが、ここでは、「学者モ無学者モ貴キモ賤キモ富メルモ貧シキモ、共力(協力)シテ自覚セネバナラヌ者ガ、ナケレバナラヌ」と、すべての人に共通する自覚をあげている。これを内山は「平凡ノ自覚」と呼ぶ。

 その具体的なところを、「自覚的行動」という項目に記す。そこでは、「一個人ノ発達モ国体トシテノ発達モ同ジイ者」とする。「一個人ノ幼少ノ時代ニハ凡テノ利害が父兄・長者ノ意ノママデアルケレドモ、成長シテカラハ、自己ノ意二逆フテ父兄二盲従スル事ナク、即チ自覚的ニ行動スル」。それと同様に、国体も幼稚な頃は強い人に服従しているが、「事由ノ力量ヲ自覚スル迄二進ンデ来ルト、・・・各個人が参与スル事ニナリマス」。こうして、民本主義、民主主義になるというのである。このように、自覚の問題は、個人だけでなく、同時に政治の問題に関わってくるところに、社会主義者としての内山の面目がある。

 もう一点注目されるのは、続いて、「宗教家ノ自覚、学者ノ自覚ハ、ドウデアリマスカ知リマセンケレドモ、私共平凡ノ自覚二満足シテ居ル者ハ、人民各自ガココ迄、自覚シテクレバ充分デアルト思フノデアリマス」とあるところである。このように、ここでは★「平凡ノ自覚」が「宗教家ノ自覚」と異なるとされている。そのことは、すでに冒頭部分でも言われており、かなり強調されている。先にも触れたように、内山の著述には仏教的な用語や概念がまったくなく、そればかりか、このように宗教との相違が強調される。

 それならば、彼の「平凡ノ自覚」は仏教と無関係なものであろうか。簡単にそうも言えない。このように区別が強調されるところに、逆説的に宗教が強く意識されていると考えられるからである。高木が素直に信仰の立場に立つのに較べて、内山には宗教に対する屈折した思いがある。それは先に触れたように、内山が宗門の現状に対して厳しい批判的な見方をしていたからである。処刑のとき、教誨師から念珠を掛けるように勧められて拒否したというが、そこにも、形式化した仏教に対する批判の意が籠められていたと思われる。少なくともある時期からは、既存の宗派仏教には絶望していたのではあるまいか。

 確かに社会の問題を「自覚」というところから捉えようというのは、社会思想のレベルだけでは考えられず、禅の影響があるかもしれない。また、「平凡」を強調するところには、内山自身がかつて自ら挙げたように、「一切衆生悉有仏性」の発想があるかもしれない。社会問題を「自覚」に還元することは、社会主義の本流から言えば、真の問題を隠蔽するものとも言えるかもしれない。

 しかし、別の観点から見れば、個人の自覚の上に社会問題を考えていこうという姿勢は、思想史的にきわめて重要な意義のあることともいえる。これまで指摘してきたように、日清・日露戦争間に、日本の思想界ははじめて本格的に個の自覚の問題とぶつからなければならなかった。しかし、必ずしもそこでの個の確立は十分に成しえなかった。その中で、「自由・平等・博愛」「独立独歩・自治自適・自由自在」に目覚めた平凡な個人から社会問題へと出発しようという内山の構想は、まさにあるべき個のあり方を提示するものとして注目される。

 「平凡の自覚」についてこれ以上立ち入ることは略し、「獄中にての感想」(吉田久一 「内山愚童と高木顕明の著述」、『日本歴史』131、所収)について触れておこう。「獄中」とはいっても、出版法違反で逮捕された明治42年(1909)10月26日付のもので、大逆事件起訴以前である。はじめのほうが散逸しており、途中からしか残っていない。表題は仮のもので、実際には個人的な感慨を記したものではなく、理性的に行動すべきことを説いた論である。

 ここでも、学者などでなく、「一般の無学者にも、それ相応に理性に従って後悔なきの行動をとることができる」と、「平凡の自覚」と同じような論調で論じられている。ただ、「其理性に従って行動した為に、断頭台上の露となっても、十字架上の辱かしめを受けても、寒風骨を刺す北海の地下獄に半生を終るとも、泰然自若たることが出来る。これが人生の幸福と云ふものである」と、厳しい刑罰を予想して、それに動じない信念の確立を説くところに、獄中での切迫した状況がうかがわれる。

 最後に、『無政府共産』について見ることにしよう。本書は諸書に収録されているが、柏木隆法『内山愚童と大逆事件』所収本による。本書は前述のように、赤旗事件の後、社会主義壊滅の危機感の中で、地下出版の第一号として出されたパンフレットである。旧式の印刷機を林泉寺の本尊の須弥壇の袋戸棚に隠し、自ら活字を拾って作り上げた。表紙には「入獄紀念無政府共産」とあるが、「入獄紀念」は赤旗事件の入獄者を記念するということである。地下出版はその後、『帝国軍人座右之銘』(大杉栄の訳文の改変)、『無政府主義・道徳非認論』(バシンスキー、大石誠之助訳)の二冊を出している。

 本書は「小作人ハナゼ苦シイカ」として、もっぱら小作人に訴える形で進んでいく。そのポイントは、「なぜにおまいは、貧乏する。ワケをしらずば、きかせうか。天子、金もち、大地主、人の血を吸ふダニが居る」と歌われている。これは『日本平民新聞』第一四号付録『労働者』に載った「社会主義ラッパ節」の替え歌であるが(柏木隆法『内山愚童と大逆事件』、101頁)、その際、元歌の「華族」を「天子」に替えたところに、本書の主張がある。金持ちや大地主を攻撃するだけならば、社会主義に共通することであり、危険思想とされても、合法的な出版が不可能ではなかったであろう。しかし、その批判が直接「天子」に向かうことにより、その出版は敢然として「不敬」に挑むことになった。


 今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、すると云ふことがナゼ、むほんにんの、することでなく、正義を おもんずる勇士の、することで あるかと云ふに。今の政フや親玉たる天子といふのは諸君が、小学校の教帥(ママ)などより、ダマサレテ、おるような、神の子でも何でもないのである、今の天子の祖先は、九州の スミから出て、人殺しや、ごう盗をして、同じ泥坊なかまの。ナガスネヒコ などを亡ぼした、いはば熊ざか長範や大え山の酒呑童子の、成功したのである、神様でも何でもないことは、スコシ考へて見れば、スグ しれる。


 天子を正面から批判し、「今の政府を亡ぼして、天子のなき自由国に、する」ことを訴える論調は、もはや完全に非合法な活動へと踏み込むものである。「何事も犠牲なくして、出来るものではない。吾と思わん者は、此正義の為に、いのちがけの、運動をせよ」、あるいは、「無政府共産と云ふ事が意得せられて、ダイナマイトを投ずる事をも辞せぬと云ふ人は、一人も多くに伝道して願ひたい」と、実行を迫ることになる。

 この内山の呼びかけは、あまりに過激として同志たちに無視された中で、正面から応じたのが宮下太吉であった。宮下は、・・・(既述の経歴なので)中略・・・

 そこで問題は、この『無政府共産』が仏教と関係するか、ということである。本書は最初に、小作人がなぜ一生懸命働きながら苦しいか、という問いに、「そは仏者の云よ、前世からの悪報であらふか、併し諸君、二十世紀といふ世界てきの今日では、そんな迷信にだまされておっては、末には牛や馬のやうにならねばならぬ、諸君はそれをウレシイト思うか」と、仏教の業説が「迷信」として批判の対象とされている。

 この場合も、仏教が意識されていることは確かであるが、「平凡の自覚」以上に、仏教との直接の関係は見がたい。「平凡の自覚」の場合は、そこに屈折した禅的な発想を見ることが不可能ではないが、『無政府共産』の場合は、そこに仏教を見ようとするのはかなり無理があろう。むしろ最初に仏教の業説示否定されているところに、因襲的な仏教に対して批判的になっている姿勢が見られる。

 内山が三番目に地下出版したバシンスキー『道徳非認論』は、大石誠之助の訳と考えられているが、平民の自覚を防ぐために、「これまでは宗教が其ノ道ぐ・具として甚だ有力なものであったが今日では最早昔日における程の効能がなくなった」として、宗教に対して否定的な見方を示している。その表紙には、「道徳と宗教とは、泥坊の為に番頭の役を勤むる者なり」と、明確に規定されている。

 内山が仏教を捨てたとは単純には言えないであろうが、内山においては仏教と仏教批判、そして仏教離れが屈折したかたちで深く関連している。批判という形で宗教、仏教に投げかけた問題を見るべきであろう。

 
 ★五 土着思想の可能性 

 
 大逆事件と仏教という問題は、大逆事件で刑に服した三人の僧侶の問題に限られるものではない。何よりも三人を出した宗派の問題であった。三人を出した曹洞宗・浄土真宗大谷派・臨済宗妙心寺派は、それぞれ慌てて三人を攬斥処分にするとともに、宗門寺院に諭達を発し、曹洞宗・臨済宗妙心寺派では宮内省などにおうかがいを立てたり、陳謝したりした。時代の制約とはいえ、★「尊皇護国ヲ以テ立教ノ本義トシテ此ノ宗門ヲ開創セラレ」「天恩二感激シ奉り日夜孜々トシテ報効ノ実蹟ヲ奏センコトヲ熱衷スル」(曹洞宗の諭達、吉田久一 『日本近代仏教史研究』、481頁)と何の躊躇もなく言い切る宗門に内山が絶望しきっていたとしても、それをとがめることはできないであろう。

 大逆事件によって逆説的に明らかにされた当時の社会主義者たちのネットワークは、上からの宗教利用と異なり、草の根レベルでのキリスト教と仏教、社会主義、部落解放運動、非戦思想などの交渉と習合、協力の関係を明らかにする。それは、先の大沢正道の批判とは逆に、純粋純血の輸入思想と正反対であるからこそ、土に根ざした思想の定着の可能性を明らかにしてくれる。

 彼らの復権は1990年代になってからであり、彼らが時代にあまりに先走って開いた可能性は、いまだに十分に受け止められていない。明治の仏教が垣間見せたわずかな可能性をどのように切り開いていけるかは、なお今後に残された課題である。

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 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ 
<了>。
 

 

●『大逆事件 死と生の群像』
 
 ●『明治思想家論』 近代日本の思想・再考Ⅰ  
  末木文美士(すえき ふみひこ) トランスビュー2004年6月 

 
 第十章 社会を動かす仏教-内山愚童・高木顕明 
 三 高木顕明の社会主義 

 
 249p~
 内山がかなり強いアナーキズムの思想を抱き、直接行動に踏み込もうとしていたのに対し、ともに紀州新宮の大石誠之助(1867~1911)このグループに属する高木や峯尾は、はるかに穏健であった。大石はアメリカ留学帰りの医師として財力もあり、地元の名士として人望も厚かったが、持ち前の正義感から社会主義へと入っていった人である。幸徳秋水とも親交があり、そこから共同謀議の濡れ衣を着せられることになり、そのグループのメンバーとともに一網打尽に逮捕されることとなった。その中でも高木は、逮捕されたとき46歳と、逮捕者の中でも年長であり、それまで新宮の浄泉寺住職として、地道な実践を重ねてきていた。それだけに、その社会主義も深い信仰と実践に裏打ちされたものを持っていた。

 高木は元治元年(1864)愛知県西春日井郡に生まれた。17歳頃までに出家して、尾張国小教校に学んだ。もともと山田姓であったが、30歳のとき道仁寺の高き義答の養子となり、高木姓を名乗るようになった。その頃から新宮を中心に布教活動に従うようになり、明治32年(1899)36歳のときに正式に浄泉寺の住職となった。浄泉寺はその檀家に多数の被差別部落があり、そこから差別問題に関する認識を深め、同時に、日露戦争に対しては非戦論を唱え、また、公娼制度に反対するなどの活動の中から、社会主義に接近した。
「余が社会主義」(1904*浄泉寺HPで読める。)は、このような中で書かれた彼の社会主義宣言である。

 その後も、「虚心会」を開いて部落改善運動に取り組んだり、新宮の社会主義の中心人物であった大石誠之助のグループと交わり、幸徳秋水の談話会を浄泉寺で開催したこともあった。こうしたことが大逆事件連座につながることとなった。明治43年(1910)逮捕され、翌年死刑判決後に無期懲役に減刑され、秋田刑務所に服役中の大正3年(1914)に自殺を遂げた。起訴されたとき、住職を差免され、判決時に大谷派から排斥されていたが、1996年ようやく処分が取り消されて名誉を回復し、今日その活動が評価されつつある。

 高木の社会主義思想は「余が社会主義」に述べられている。短い文章であるが、論旨が明瞭で、その思想をよくうかがうことができる。その緒言には次のように言う(以下、「余が社会主義」の引用は、真宗ブックレット『高木顕明』所収のものによる)。

 余が社会主義とはカールマルクスの社会主義を稟けたのでない。又トルストイの非戦論に服従したのでもない。片山君や枯川君(堺利彦)や秋水君の様に科学的に解釈を与へて天下二鼓吹すると云ふ見識もない。けれども余は余丈けの信仰が有りて、実践して行く考へであるから夫れを書いて見たのである。何れ読者諸君の反対もあり御笑ひを受ける事であろー。しかし之は余の大イニ決心のある所である。

 この箇所には高木の大きな自負が寵められている。緒言の前半は謙遜のように見えながら、じつは後半の揺るぎない自負と自信を導くための導入である。高きの社会主義はどこまでも自らの信仰に立ち、その実践の中から育ったものであり、決して頭だけの理論で生まれたものではない。頭だけの知識人がどれほど笑おうと、信仰と実践に立つ自分の信念は誰にも負けないという覚悟のほどが示されている。あえて片山(潜)、(堺)枯川(利彦)、(幸徳)秋水の名を挙げたのは、一面では彼らへのコンプレックスであるとともに、他面では彼らに負けないという自負でもある。

 大沢は、高木らの社会主義が「仏教思想そのもののなかから内発的に創りだされていったものではなく」と否定的に見ているが、少なくとも高木としては、それを仏教自体から出てくるものと考えている。そして、本論において、平民社をも含めて、外から持ち込んできた社会主義をしばしば批判の対象としている。身についた仏教の中から出てくるものこそ本物であり、外から持ち込んできたものは借り物にすぎないというのである。

 頭で考えられた社会主義ではなく、信仰と実践から出てきたものだという自負は、本論のはじめに、「社会主義とは議論ではないと思う。一種の実践法である。或人は社会改良の預言ぢゃと云ふて居るが余は其の第一着手ぢゃと思ふ」といっているところにも示される。「余は社会主義は政治より宗教に関係が深いと考へる」というのも、決して無理やり社会主義を仏教と結びつけたというわけではなく、以下を読んでいけば、きわめて自然な発想として彼の信仰から生まれていることが知られる。

 社会主義を政治の問題でなく、信仰の問題とするのは、一方にキリスト教社会主義があることを見ても、必ずしも不自然なことではない。仏教を地盤とした社会主義の構築は十分に可能であるが、成功した例は必ずしも多くはない。その中で、高木の実践に鍛えられた思想は一つの手がかりを提供しているように思われる。

 本論は、社会主義を信仰の対象と信仰の内容という二面から考察する。信仰の対象はまた、教義・人師・社会の三つがある。教義は南無阿弥陀仏であり、人師は彼の理想とする人で、釈迦やその他の仏教者、とりわけ親鸞を挙げる。社会は極楽という理想世界である。ここで注目される点を挙げてみると、第一に「南無阿弥陀仏」に平等を見ている点である。「詮ずる処余ハ南無阿弥陀仏には、平等の救済や平等の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ」と述べている。これは必ずしも無理な解釈ではない。法然の『選択本願念仏集』では、阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」という名号を選んで衆生に与えた理由として、誰にでもできる易行であるということを挙げ、阿弥陀仏の「平等の慈悲」を強調している。もちろん親鸞も基本的に法然を受けている。

 ただ、法然にあっては、その平等性は宗教的な観点に関してのみ言われるもので、現実の社会の変革は当然ながら意図されていない。しかし、高木は極楽を理想世界と見て、必ずしもそれを来世のこととは見なかった。「真二極楽土とは社会主義が実行せられてある」といわれるように、それは理想の社会主義の実現を我々に示してくれる模範だというのである。極楽を手本として、現世にその平等の社会主義の社会を実現しなければならない。

 高木は、こうして浄土教の教義に社会主義を読み込む。釈尊は「霊界の偉大なる社会主義者」であり、親鸞もまた、「心霊界の平等生活を成したる社会主義者」であるという。戦後、服部之總らマルクス主義者によって親鸞の再発見がなされるが、高木の親鸞並びに浄土教解釈はそれを先取りするものである。しかも、高木は釈尊や親鸞の社会主義を「現今の社会主義者とは議論は違ふ」として、単純に当時の社会主義と一括されることを拒否している。高木の浄土教的社会主義は、十分に浄土教の近代的解釈の範囲内で出てきうるものであり、それほど無理のあるものではない。

 もう一つ注目されるのは、
「此の南無阿弥陀仏に仇敵を降伏するという意義の発見せらるゝであろーか」と、念仏者が日露戦争に対して開戦論を主張していることを批判していることである。「余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人の成す事で無いと思ふて居る」とはっきり言明し、念仏者でありながら戦争を主張する南条(文雄)や比較的身近にいた開戦論者の仏教者・毛利柴庵(牟婁新報)の名を挙げて批判している。後のほうでも、繰り返し非戦論を主張している。日露戦争時にはキリスト教徒の非戦論が名高く、仏教者の非戦論はないわけではないものの、これほどきっぱりと表明されたものは他には見られない。高木の態度は高く評価されなければならない。

 次に、信仰の内容としては、第一に「思想の回転」を挙げる。これは回心とも言うべきもので、「一念皈命(きみょう)とか、行者の能信」とかいうことであるが、それも単純な信仰世界の問題にとどまらない。一部の特権者のために「一般の平民が犠牲となる国二棲息して居る」のであるから、「実に濁世である。苦界である。闇夜である。悪魔の為めに人間の本性を殺戮せられて居るのである」。その中で、御仏の声を聞き、光明を見つけて、「真二平和と幸福を得た」のであるから、いまや「御仏の成さしめ給ふ事を成し御仏の行ぜしめ給ふ事を行じ御仏の心を以て心とせん」ということになる。ここには、精神主義に見られた受け身一方の阿弥陀仏信仰ではなく、積極的に御仏の行を自ら果たしていこうという実践的姿勢が見られる。

 それゆえ、信仰の内容の第二は「実践行為」である。我々は「大爵位とか将軍とか華族とか云ふ者に成りたいと云よ望みはない。・・・生産の為めに労働し、得道の為に修養するのである」。こうして「念仏に意義のあらん限り心霊上より進で社会制度を根本的に一変するのが余が確信したる社会主義である」。

 以上、「余が社会主義」を検討してみた。そこでは、浄土真宗の立場に立ちながら、そこからどのようにして社会主義が可能であるか、その可能性を切り開こうとしている。それは決して無理な理論づけではなく、高木自身の仏教者としての実践の中から生まれてきたものとして説得力を持つ。また、ともすれば受け身一方になりがちな浄土教の立場に立ちながら、あくまで積極的な努力を求める点でも、新しい方向を開くものである。「余が社会主義」に見る高木の社会主義は、暴力革命やテロに結びつく要素は少ない。その後も一貫して社会主義を主張したが、その基本的な方針を変更したようには見えない。

 高木は1994年に処分が取り消されて名誉が回復され、被差別部落解放や非戦論の実践を伴うその社会主義に対する再評価が進みつつある。ただ、今のところそれが浄土真宗という宗門内の問題にとどまっているところが大きく、その枠をどのように乗り越えられるかが一つの課題であろう。それには、大石誠之助を中心として地方に根ざした活動を進めた新宮グループの社会主義全体から見直してゆくことが必要と思われる。そのグループの中では、キリスト教徒で連座を免れ、一生小説などによって事件の真相を訴え続けた沖野岩三郎(1876~1956)も注目される存在である。与謝野鉄幹を通して、大逆事件の弁護士として名高い平出修を被告たちに紹介したのも沖野である。

 その新宮グループのもう一人の仏教僧、臨済宗の僧・峯尾節堂1885~1919)について
もここで触れておこう。峯尾はもともと新宮の出身で、幼時に父と死別して、寺に入り、妙心寺で修行した。しかし、僧としての生き方に疑問を持ち、大石誠之助のグループに加わったが、社会主義にも完全には共感できず、大逆事件の頃には大石とも離れていた。したがって、高木以上に事件のとばっちりを受けた冤罪性が強い。死刑判決後、無期懲役に減刑され、千葉監獄に服役中、流行性感冒で亡くなった。

 峯尾の著述としては、服役中に書いた「我懺悔の一節―我が大逆事件観」(神崎清編『新編獄中手記』所収)が残されている。回心して「陛下は私の生命の親様であります」という天皇主義の立場に立って、大逆事件を振り返ったものであり、その限界はあるが、事件の当事者による証言として重視されている。

 思想的には、「あゝ恐るべきは科学一方で即ち唯物論的見地に立って世を解釈し人を救ふとするの人である。私の失敗・堕落も、元はと云へば如来を信じ乃至天地間に厳たる因果律の存在するといふやうな天地的洪大な東洋思想が欠如して、唯々物慾にかられて其の日を空しく消費してゐた不敬虔な精神に胚胎してゐる」というところに尽きるであろう。社会主義者が転向して東洋思想を賛美するようになることは、大沢正道の指摘するように、この後パターン化するが、その原型ともなるものである。僧であったことはこの文中には出てこないが、もともと僧であっただけに、その方向へ向かいやすかったであろう。獄中では、禅よりも親鸞の他力思想に接近した。逮捕後、臨済宗妙心寺派より擯斥処分に処せられたが、1996年に処分を取り消された。

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    続く。
 





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