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●「惨事」の周辺 (2) 対談― 日本の貧困を考える
 ●『週刊読書人』 湯浅誠・堤未果 対談

 日本の貧困を考える。
   

●『週刊読書人』 (6月13日 第2742号)の巻頭は、湯浅誠・堤未果両氏の熱のこもった対談である。

前者は、『反貧困』他の著書と実践で知られ、後者はベストセラーとなり今も読者を獲得する、『ルポ 貧困大国アメリカ』で知られる。

その二人の対談(適宜略しながら)を紹介していきます。


 ***************

★ 社会のシステムの問題 ―  根本から考えていくべきこと

堤: 湯浅さんの『反貧困』、すごく面白く拝読させていただきました。・・・
湯浅さんの本を読んで、改めて日本もかなり大変な状況だなと思いました。そう思う一方で、変化を求める連隊のエネルギーみたなものも強く感じられ、・・・こういう本の売れ行きもいいというのは、日本もまだ捨てたものではないですね。

湯浅: おそらく小泉改革で行き過ぎてしまった部分があると思うんですよ。・・・
 そのことはみんな、さすがにわかっていて、なんとかしなきゃいけないと思っている。
 ・・・大多数の人が、一度ブレーキをかけなければいけないと思っている。
 その背景には多分、日本もアメリカほどひどい状況になってはいけないという気持があるんじゃないか。
 堤さんの『ルポ 貧困大国アメリカ』はある意味で、今の日本の進む先にある不安を
具体化された。・・・私の本について言えば、すでに日本もここまできてしまったのかという現状を書いた。・・・

堤: ・・・湯浅さんの本がいいと思うのは、まず、貧困を単に一過性の問題として扱っていないことです。・・・現状のルポを書きながら、その根本にある社会のシステムの問題をきちんと抑えられている。・・・
話は変わりますがこの前「朝まで生テレビ」に出られたんですよね。

湯浅: 正直なところ、ひどい内容だった。・・・経営サイドで出ている人、自民党の議員、司会者も含めて、基本的に貧困問題に関心がない。
結局、繰り返して言うことは、経済が成長すればなんとか解決できるというわけです。

堤: まだそんなこと言ってる人がいるんですか?

湯浅: それも本気で言ってるんです。いい加減、あきれ果てました。・・・
 わたしの考えは甘すぎました。経済の成長によって貧困問題は解決するという彼ら(自民党代議士や経営者達)の考えはまったく揺らいでいない。だからこちらの意見をきちんと話すチャンスもなかった。・・・
 貧困層の人はかわいそうだけれど、処方箋は、企業が成長していくしかない、という結論になる。
 ・・・結局、直接対話で考えを変えてもらうなんていうのは無理なんですね。

堤: それは日々感じることです。・・・
 年配の人と話をしていると、根本的に、今何が一番問題になっているのかを知らない人が多いですよね。・・・
 私も、わからない人を説得している時間はないから、ピンとくる人をできるだけ集めて、動いたほうが早いと思っています。・・・
 湯浅さんが事務局長をされている「反貧困ネットワーク」の人たちと繋がったりしながら、速やかに行動した方がいいと思う。おそらく今自分とは関係ない世界の話だと思っている人たちも、後になって、決してそうではなかったことを、嫌というほど思い知ると思いますね。

湯浅: そうですね。それは最初に話しをした。アメリカにおける中流の崩壊みたいな話しに繋がってくることで、日本も段々人ごとではなくなってきているわけですよね。

堤: 日本の中間管理職の人たちも結構悲惨な状況に置かれていますからね。

湯浅: 中流の崩壊と貧困の問題が結びつけて考えられていないこと自体がまた別の大きな問題ですよ。格差を話題にする時も、正規雇用者が勝ち組で、非正規雇用者が負け組という対立にさせられるんですが、あれも根本的におかしい。今やそういう対立軸では考えられないわけです。・・・
 アメリカではどうですか?・・・

堤: ・・・中流の人たちと言っても、アメリカの医者はものすごく厳しいんです。病院もどんどん株式会社されているから、利潤を追求していて、そこで働く医師たちは過労を強いられる。医療訴訟問題も大きくて、(訴訟対策用の)保険にかけるお金が年間18万ドルですよ。20万ドル稼いでも、2万ドルしか残らなかったら完全にワーキングプアです。・・・
 身近な例では、日本に住む私の周りにいる30代の働く人たちに目を向けてみても、職場などでかなり追い込まれている人が多いと思うんですよ。

湯浅: 全体的に余裕のない人が増えてはいますよ。

堤: 余裕がないし、すべてに競争が入ってくるから、連帯もできない。・・・
 そうやって、中流の人たちが落ちていく(教師の登校拒否、「鬱」~精神安定剤に頼るなど)ということは、みんなが瓦解するっていうことですよ。

湯浅: ・・・今回アメリカに行って、感銘をうけたこともあるんです。国はひどいんですが(笑)、活動が非常に元気だということです。・・・(移民を中心とした新しい形の労働運動など)どこも、いろいろ工夫しながら活動している。
 考えてみれば、アメリカの労働運動における移民というのは、位置づけとしては、日本における非正規雇用の人たちみたいなものだったと思うんです。その人たちと一緒に活動していくという流れが、90年代からは当たり前になってきている。特にロサンジェルスは先進地域だと言っていましたが、メキシコやペルーからの移民たちが、日常的なスタッフとして一緒に働いている。あれには、ひとつの可能性が見えました。
 日本の労働運動も、非正規雇用の人たちが三分の一ぐらいになると言われているわけだから、その人たちと一緒にやるようにしないと、このワーキング・プア化、切り下げられていく状況には歯止めをかけることはできない。・・・
 自民党の中にだって、新自由主義政策に疑問を抱いている人たちがいて、彼らと一緒にやっていけるべースを作らないといけない。

 ★ 新しい労働運動の形 ― ひとつの可能性として

堤: 湯浅さんがおっしゃったように、アメリカの場合、新しい形で運動を実践している人たちがたくさんいます。・・・
では(そういう文化のない)日本の場合、どうすればいいのか。メディアが悪いとか、自民党が悪いとか言っているだけでなく、少しでも話がわかる人と、とにかく手をつないで行く。メディアだって、育てなおすのは充分可能なわけだから。大手新聞社の記者の人たちでも、ひとりひとり話をすると、志の高い人がいる。
 そういう人たちと手をつないで、一緒にやっていく。表面上その人たちが物を言えないなら、言えるようにするために、企業のやりかたのおかしさについて、私たちが声を上げていく。アメリカでは、政府や大企業に向かってどうやって声を上げていくのか。大企業であれば、消費者としてこっちが優位に立てる。政府であれば、有権者として優位に立てる。その武器を使わずに、批判するというだけでは、60年代はよかったのかもしれないけれど、今はだめだと思いますね。問題のある企業がメディアを支配して、政府と癒着しているのなら、私たちが育て直さなければいけない。企業がおかしいと思ったら、企業の資金力だけを見て諦めてはいけない。具体的には、ある企業の製品を消費しないという方法もある。逆算して考えていけば、必ずやり方は見つかると思うんです。ただ、そうやっていくと、消費市場の中で、便利さや快適さを追求してきた生活スタイルについても、見つめ直さなければいけなくなりますよね。最終的な責任は自分に向かってくるわけです。

 ★消費者運動の建て直し  企業といかに闘っていくか

湯浅: 日本から見ていると、アメリカは消費者運動が盛んですよね。ラルフ・ネーダーが、15万人を超える大規模の「パブリック・シチズン」を作ったり、消費者の権利行使がきちんとなされている。その点は、日本がとても弱いところです。ボイコット運動もうまくいっていない。日本の場合、ボイコット運動は、すごく自然発生的に起こるわけです。毒入り餃子事件の時がそうですが、みんなが 一斉に買い控える。遺伝子組み換え大豆についても同じです。組み換え大豆を使用した納豆を買わないというのは、どこかで誰かが声を上げて運動を作ったのではない。消費者が自然に拒否した。それはボイコット運動ではなく、単に自分の体に入るものだから嫌だっていうことから来ている。
 
堤: 非常に皮膚感覚的ですよね。

湯浅: そうです。生活保守主義的なんです。別にそれ自体、悪いことではないけれど、日本の消費者運動とアメリカのボイコット運動の違いを考えると、こういうことがあると思います。遺伝子組み換え問題の場合、日本は、人体への影響面にしか目が向かない。アメリカの場合、もうひとつセットになっていて、結果として、第三世界の途上国の農業を破壊することになるのではないかと、社会的な問題が必ず語られます。日本の自然発生的な買い控えには、その面がない。だから食品については敏感に反応するけれど、自分の服がどこで作られているかには、ほとんど関心がない。
それが日本でボイコット運動が大きく巻き起こっていかない理由なんじゃないか。たとえば、大きな社会問題になりましたが、キヤノンが偽装請負をやっていることがわかっても、キャノン製品の不買運動には繋がっていかないわけですね。それは我々の力不足でもあり、日本の消費者運動の弱さだと思っていて、企業がフリーハンドに好き勝手にできる、ひとつの要因としてあると思います。日本は労働運動も元気にならなければいけないけれど、消費者運動の建て直しも課題になっている。私は貧困ビジネスについての批判もしていますが、その問題は、ある面で、消費者運動として立てていきたいと思っているんですよ。日本の消費者運動は貧困ビジネスの問題を取り扱ってこなかったから、そこを繋げる形でやっていきたい。

堤: それはすごくいい考えですね。本にも書きましたが、アメリカで不買運動をやっている牧師さんと話をしたことがあって、彼がこう言ったんですよ。アメリカ人は権利の部分に敏感であるけれど、日本人はそうではない。だから企業がどういうことをして消費者の権利を侵しているのかにも敏感ではない。あるいは逆に、自分が他の人の権利を、海の向こうで奪っているかもしれないという認識も弱いんじゃないかと。少し関連した話をすれば、この前、労働相談センターの人と話をしたんですよ。その人が言うには、相談の電話をしてくる人で、残業代の請求をすることが自分の権利なのかどうか、わかっている人が少ない。何時間以上の労働は国際法違反になるということを認識している人も、ほとんどいないということなんです。

湯浅: それは、生活に困窮して、「もやい」に来る人たちと同じですね。生活がどうにもならなくて、なんとかならないだろうかと相談される。でも、生活保護を申請する権利があることを最初から認識している人は、ほぼ皆無です。もちろん、労働に関することに比べれば、はるかに権利意識を持ちにくいとは思いますが。

堤: 残業代なんて出ないという話も、昔は当たり前だったと言う人もいますけど、それでもきちんと生活はできた。今だと餓死する可能性だってありますよ。そこが理解されずに、生活はできるだろうと思われている。

湯浅: 「昔はみんな貧乏だった」とか、団塊の世代の人たちがよく言うんですよね。「若い時は、貧乏でいいんだ」と言うわけです。でも、彼らは、そういう暮しをしながらも、段々と生活がよくなっていく経験もしていますから。我慢しながらこつこつ頑張ってやっていけば、そのうちよくなるという思いが、彼らの頭の中にはある。

堤: 未来は明るかったわけですからね。

 ★「恐怖心」を越えて ― 真実だけを相手に手渡す

湯浅: 今の若い人たちは、この貧乏な状況が、この先もずっとつづくんじゃいかと思うからこそ悩んいる。実際、今後、上がっていく保証は何一つない。現実的に、国会議員たちも、昔みたいな右肩上がりの成長はないと言う。だから大盤振る舞いもできないので、社会保障は抑えなければいけないと言っている。一方で成長を期待し、一方でそうではないと言う。そういう使い分けがさているわけです。そんな
彼らに理解を求めても無理なのかな。

堤: 湯浅さんたち30代で、きちんと現実をわかっている人がもっと前面にオピニオン・リーダーとして出て行って、メディアもそれを大きく取り上げるようにならないといけないのかもしれませんね。・・・

湯浅: 2月から、人事院が官僚を集めて開く研修に呼ばれるようになったんです。今月も官庁に入りたての1年生たちに、初任者研修をすることになっている。彼らにも真剣に考えてもらいたいですね。

堤: そう思います。本当に官僚の意識を変えていかないと、この国を変えることはできない。・・・
 湯浅さんが、官僚に対して研修するなんて最高ですよ。是非厳しく(笑)

湯浅: 厚生労働省と団交でやり合う時よりもはるかにやさしく話しています(笑)。研修の場ではけんかにならないから。

堤: 対立するというより、彼らを育てていくという考え方がいいのかもしれませんね。アメリカで運動している人たちの話を聞いていても、「対立するな」「育ててやれ」という話をよく聞きます。そこが60年代と1番変わったところだと思いますよね。それは決して相手を洗脳するということではない。人間は真実を手渡せば、必ず善きものを求めて立ち上がる本能を持っている。では、その時に、何が1番障害になるのか。アメリカ人に聞いたことがあるんです。その人はこう言いました。「恐怖心」だと。
 現状がこれだけひどいから、社会を変えたいという気持ちが強くなり過ぎると、こういうふうにしろと結論まで押し付けるようになってしまう。それは「恐怖心」からくることである。真実だけを手渡して
結論を相手にまかせるのは、すごく怖いことで、相手を信頼しなければいけないし、辛抱もいる。先ずは自分の中の恐怖心に勝たなければいけないと、アメリカ人らしくない謙虚な言い方をされました(笑)。

湯浅: なかなか深い言葉ですね。

堤: 新しい市民運動の形だと考えさせられました。やっぱり自分と向き合う方が怖いですよね。社会への怒りをエネルギー源にする方が楽なんです。運動がそういう方向に進めば、流れ自体が大きく変わるのかもしれない。

湯浅: そうですね。集会で発言する当事者たちも、こうすべきだということはあまり言わない。自分たちの実情についてぽんと投げかける。だからこそ1番訴えかける力を持つ。聞いている側も、なんとかしなければと自発的に動く。そういう意味では、我々みたいな人間が演説して、こうすべきだと言うよりも、はるかに訴えかける力は強い。堤さんが言われた言葉は当たっていると思う。そんなふうに活動をしていけたらいいですね。

堤: 自分との戦いだから最初は大変かもしれませんが、どんな人間でも信頼されると、それに応えようとする気持ちはあると思うから、そこを信じてやってきましょうよ。

  (おわり)
 
 


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●「惨事」の周辺ー(1)
             週刊読書人 日本の貧困を考える_1


                 国家論 佐藤優_1

 
 1.『柳美里不幸全記録』より。

 ************* 

 2003年4月11日 金曜 くもり

 今日から毎日幼稚園。朝7時に起床して、いつもより早く朝ごはんを食べさせる。

 ・・・略・・・

 (園の中では、「男の子はほぼ全員教室のなかで泣いていて、女の子はほぼ全員砂場遊びをして いました。 去年読んだ『男の子って、どうしてこうなの?』に<男の子は女の子よりも早く丈夫に育つが、母親から引き離されると、女の子よりも苦し>み、男の子は精神的に女の子より6ヶ月から12ヶ月ぐらい発育が遅れ、同じ歳の女の子達といっしょに学ぶと、<女の子より劣っていると感じ、早々と学ぶことをあきらめてしまう>ので、<5歳頃から幼稚園に行くべきなのはあきらか>で、<長く(場合によっては1年ほど長く)幼稚園にとどまっているべきだろう>と書いてあったことを思い出した。

 一方で、一昨年の読売新聞で、バルセロナ五輪の平泳ぎ200Mのゴールドメダリスト岩崎恭子さん(24)の「児童水泳選手における両親の養育態度」という日大文理学部の卒業論文が紹介されていて
 
 
 父親ー娘、母親ー娘、父親ー息子よりも、母親ー息子の過保護が目立つと書いてあったことを思い出した。

 柵越しに並んでいるのは(わたしを含めて)男の子の母親が多かった。
    ・・・略・・・

 **************

 2.『国家論』 佐藤優 より。

 第二章 社会への介入 (p133~134)

 ★「恐慌→不況」という地獄絵 

 ・・・要するに、技術革新が起きると、利潤率がどんどん下がってくる。資本をたくさん投入しないと利潤が得られないとなると、資本の過剰が生じてくる。そこのところから、恐慌が起きてしまう。恐慌が起きて、このままではシステムが回らないというところで、初めて技術革新が起きる。そうすると、労働者の数が少なくてもすむようになります。そこで、恐慌のあとに不況が来るわけです。

 そこでは地獄絵が出現しますが、その期間が過ぎると、また資本主義は元気になって、うまくいっているというように勘違いされる。しばらくするとまた恐慌が来て、同じプロセスが繰り返される。このような、人間をまったく無視したかたちで、資本主義はシステムとして自律して回っていく。宇野はこのことを証明しているわけです。資本主義は永続するということです。

 では、なぜ死者が発生しないのか。恐慌期から不況期にかけては、死者が発生してもおかしくはないはずです。ところが、何となく発生していない。これはなぜかというと、ギリギリのところで、救貧施設というものが出てくるからです。救貧施設というのは、刑務所よりも恐ろしいところとして、『資本論』に何度も出てきます。栄養の状態も刑務所の囚人のほうがずっといい。救貧院に入ると何かいいことがあるのではないか、働かなくとも食べさせてくれるのではないかというイメージがありますが、そんなところではありません。とんでもない強制労働とパッケージになっています。働かずに食べるのは犯罪だということで、国が人間狩りをして飯場みたいなところに連れてくる。それで監視を付けて強制労働のように働かせるというのが、『資本論』の時代の救貧施設なのです。


 日本でも不況がもう少し深刻になって、ニートが生きていけないような状況になると、ネットカフェ難民などという贅沢な存在はいなくなって、「国がちゃんと面倒をみます、仕事も斡旋します」といったかたちで、救貧院ができるかもしれません。事実、世論は今、だんだんそちらの方向に行っているように思われます。仕事に就いていない人間は不道徳、その次の段階では、貧困は犯罪だということになる。あたかも犯罪者のように、彼らを隔離して矯正しないといけないわけです。そこで、誰もやりたがらないような労働を強制的にやらせる。こういうサイクルになってくる。・・・
 
 
 ***************

 佐藤優はその前に、こうも書いている。(p123~125)
 
 
 第二章 社会への介入

 ★思想の暴力性、再考
 
  
 国家というのは、端的に言うと暴力です。私が今、強い関心をもっているのは、思想の再生です。われわれはもう一度、思想を再生しないといけない。政治的実践について考える場合、一種の暴力の存在論が必要なのです。

 人間はその本性において、暴力的な存在です。自分の意志に反することをやらされることもあれば、人の意志に反することを、力によって強要することもある。そのような暴力を、いかに剥き出しにならないようにするか。暴力をいかに制御するかということが、国家倫理においても社会倫理においても重要です。「まえがき」でも述べたように、思想というのは、暴力に作用することができる、人間の特殊な能力です。最大の暴力を発揮する思想というのは、自己犠牲の思想だと言えるでしょう。人間は個体として生き残ることを望んでいるはずなのに、その個体をより高度な理念のために、より高度な目標のために、あるいは、他者のために捨て去ることができる。自分の命を捨ててもいいという気構えができた瞬間に、他者の命を奪うことに対する抵抗感というのは、ほぼなくなるのです。

 ですから、大量殺人が行われるとき、それを行う側は、自らの命を失うことに対して比較的覚悟ができている可能性が高い。その覚悟はどこから出てくるかというと、思想からです。人間の表象能力から生じるのです。つまり、究極的に人殺しをもたらさないような思想というのは、ただの思想の抜け殻です。戦争の中には一種の思想があり、そこに文化や創造があるというのは、当時の陸軍省が作ったスローガンということを超えて、ある意味、きわめて普遍的な問題なのです。

 われわれは戦後、暴力性を極力排除していった。国家の中の暴力性を排除したら、それは左翼運動の中に出てきました。暴力性があるから、思想の問題はまだ正面からとらえられていたわけです。

 ・・・略・・・

 思想本来の暴力性が廃れると、どういうことになるのでしょうか。知的には乱暴でほとんど整理されておらず、およそ実証科学では相手にされないような、きわめて稚拙な自己啓発セミナーの「思想」であるとか、新宗教の「思想」であるとか、あるいは、一部の右派、保守陣営が唱道する「真実の日本魂」であるとか、知的な世界とは本来まったく関係のないところで、人間の生き死にの原理が構成されてしまう。それが物理的な暴力性を帯びるのです。

 人間とは物語を作る動物です。そして、物語を作るのは知識人の役割です。どんなにバカバカしくでたらめに見える運動でも、どんなに粗雑な知性のかけらもないように見える排外主義的な運動でも、その背後には必ず物語=思想の組み立てというのがあります。思想の組み立てを知識人が怠ると、その空白のところに、本来知識人の世界には入らないような人たちがもぐり込んでくる。その結果、ものすごく乱暴な思想が生まれる。ひとたびそうしたものが生まれて暴力性を孕むようになると、これを脱構築、破壊することは至難の業になるでしょう。この傾向が、過去7、8年に集積し、日本の思想を閉塞状況に追い込んだわけです,だからこそ今、復権しないといけないのが、大きな物語であり、神話なのです。それを意図的にやらないといけない。・・・

 **************
 
  
 3.藤原新也オフィシャルサイト より。 
 http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php

 2008/06/11(Wed)
 ★秋葉原事件と現政権の演繹的な関係
  
 
 四国から帰ってきて忙殺されていた7月に出る単行本がやっと手を離れつつある。
 現在は2年前に出版された「渋谷」(東京書籍)の映画がちょうど撮影されている最中だが、低予算、短期間の製作とは言え、よくこんなテーマのものに予算が下りたものだと思う。

 それにしても「渋谷」のテーマは親の過干渉によって自己を失った少女の物語だが、今回の秋葉原通り魔殺人を犯した加藤智大容疑者もまた中学生になるまで親の考えられないほどの過干渉の中に置かれていたようだ。小学校時代には絵や作文を親が描いたり手を入れたりして成績優秀に無理やり仕立てていたというからこれは過干渉を通り過ぎて、変わった種類のネグレクトと言える。
 中学になると親の介在ではおっつかなくなり、智大の成績も愕然と落ち、親は智大を見捨て、成績のよい弟の勉学に全力を尽くすことになる。
 こんな状況の中、智大という名づけも彼にはプレッシャーであっただろう。

 おそらく加藤家では大学も出ず、派遣社員として末端の労働に携わっていた智大のことは家の恥でその存在すら外にあまり知られたくなかったのではないか。今回の事件はそんな両親への復讐という伏因が臭う。親を殺さず無関係の他者を殺すことによって遠回りに親に復讐する犯罪は案外多いのだ。
 そして智大の思い通り、両親は全国民の前で謝罪会見をするという針のむしろに置かれている。

 また私は外国人労働者が日本に入って来はじめた20年前、その差別的環境からいつかこういった者の中から日本人を巻き込んだ犯罪が生まれるのではないか(当時は犯罪があっても彼ら同士の中だけだった)とエッセイに書いたことがあるが、それから7、8年後にそのことが現実のものとなり、今では当たり前のことになっている。

 その延長線上で、今日本の社会を覆っている、というより若者の生活を覆っている派遣社員、契約社員という人間をモノ化した「ピンはね使い捨てシステム」の中からなんらかの犯罪が生じるのではないかと考えたことがあったが、今回の秋葉原の事件はまさにそれを絵に描いたような出来事である。

 そういうことで加藤容疑者の犯した罪はエクスキューズ出来るものでは到底ないが、こういう若者の使い捨てシステムを容認して来た、というより作り上げた現政権の罪は重い。
 無残な形で殺された7人の殺害に演繹的に現政権が加担していることになるからである。

 ***************


 ここで、再度『国家論』 佐藤優 ー序章 にもどって、読み続けます。


 ●序章  国家と社会
 
  
 3 国家の暴走にどう対抗するか

 ★ 9・11以降の状況
 
  
 なぜ現時点で国家を扱う必要があるかという私の問題意識の稜線を明確にするために、現状認識について少し述べておきます。
この関連で、2001年9月11日に発生した米国同時多発テロ事件が大きな意味をもちます。私の理解では、9・11を契機として、状況が一変しました。9・11以前は、グローバリゼーションヘの対抗運動は、まさにアンチ・グローバリズムだった。要するに、アンチというかたちでしか規定されないような、抵抗するネットワークの主体的な形成(アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの言うところの「マルチチュード」)によって、資本に対立していた。このような運動は、ときどき資本と衝突するとはいえ、基本的には非暴力です。消費を最大の武器にした、ボイコットを通じたかたちでのシステムヘの異議申し立て運動でした。

 ところが、そのような運動とは別に発生してきた、アルカイダ型のイスラーム原理主義のテロが、9・11でシンボリックに登場したわけです。北朝鮮やイランの脅威ということならば、相手は国家という主体なので、日本なりアメリカなりが取引をして脅威を除去することができる。しかしアルカイダには、そのような司令塔がない。脅威は確かに存在するし、ネットワークも確かに存在しますが、取引すべき相手は目に見えません。
 そういった状況下では、自分の国の中にそのようなネットワークとつながりうるような人間がいないかどうか、徹底的に捜し出して、それを隔離、孤立させ、さらに除去していくことになる。要するに、公衆衛生の発想、街をきれいにしていくという発想です。では、きれいにしていく主体は何かというと、それは国家であり、それを実際に担うのは官僚です。つまり、官僚の暴力性、官僚のきれい好き、官僚の排除の論理、官僚の国民の内面への干渉―こういったものが必然的に生まれてくるのが9・11以後の世界です。

 ビラを徹いただけで人が捕まる。労働組合内のちょっとした内紛や言い争いに警察が介入してくる。自衛隊の保安隊が、問題のある市民運動はないかと、内部調査をやっていることが露見する。こういうことが起きるのも、9・11以降に国家がきれい好きになり、官僚が暴力性を高めていることと論理整合性がある。体制への異議申し立てをする有識者の側は、このあたりを論理的に分析することに成功していません。だから、有効な議論が展開できないのです。

 この論理が摑めないので、マスメディアは「人権に対する侵害だ」ととらえ、労働組合は「組合の団結権に対する侵害だ」と抗議し、ビラを撒いて捕まった人は「表現の自由に対する侵害だ」と、旧来型の主張をする。しかし、それでは世論が動かない。結果として世論が体制を支持するのは、現体制やシステムの動きに対して批判勢力が噛み合う議論を展開できていないからです。一言でいうと知的な怠慢です。きちんとした知力をもって、問題の存在をとらえようとすれば本質は見えてくるはずです。
 
  
 ★贈与の重要性
 
  
 では、国家の暴走に対抗する具体的な対案はあるのか。国家によってきれいな社会を作るのは不可能ということがポイントです。国家は社会ではなく自己保存のことしか考えていない。アルカイダ的なテロが起きたら、官僚は生き残れない。だからテロは嫌だということです。われわれもアルカイダが嫌だというならば、社会を強化しないといけない、新自由主義(市場原理主義)的な流れの中で生まれてきた、構造的に弱者となって2度と立ち上がれない地域に対して、きちんとした投資をする。搾取や収奪へのストップをかけるような、本来の相互扶助ですね。あるいは、きちんと贈与をすれば、アルカイダのようなかたちでの異議申し立て運動はおのずから治まるはずです。

 考えてみてください。かつては、コミンテルン(第三インターナショナル)や国際共産主義運動がありました。それに対して治安維持法で弾圧しても、逆に抵抗運動がどんどん出てきて、完全に抑えることはできなかった。ところが東西冷戦下の世界では、革命を阻止するために資本主義国はみな社会福祉政策を充実させる。累進課税制によって、再分配をする。教育はできるだけ無料、高等教育にもほとんどお金がかからないようにして、機会の平等を担保するかたちで、社会的な階層の流動性を高めた。その結果として、そこそこ豊かな社会が実現する。極端な金持ちもいないし、極端に貧乏な人もいない社会が実現したことで、結局は暴力的な異議申し立て運動や、革命運動は後退していった。本来、暴力革命を志向していた共産党も議会路線に転換し、揺り戻しは不可能なところまできた。

 現在のように、ムスリムを監視する部局を公安警察に作り、モスクの前には公安部の刑事がいるというようなやり方をしても、テロは増えこそすれ、減ることは絶対にありません。つまり、これは反復なのです。だからこそ贈与が重要なのです。
 
 
 ★二つの地獄絵
 
  
 では、目本の現状について考えてみましょう。現状}Oのまま放置すると、近未来に2つの地獄絵が出現することになります。

 第1は、新自由主義下の格差がもたらす地獄絵ですーこれから見ていくように、社会と資本主義の相性はきわめて良い。この「相性の良さ」を放置するとどうなるか。すでに日本では年収が200万円以下の人々が1000万人を超えています。 このような状態が続くと、低所得者はぎりぎりの生活しかできず、家庭をもち、子供を作ることすら難しくなります。また、高額所得者と低所得者の間で、「同じ日本人である」という同胞意識が薄れていきます。そうすると日本で生活することが、殺伐として、楽しくなくなってきます。

 第2は、国家の暴力がもたらす地獄絵です。それは、国家が肥大して戦争への道を突き進んでいくということだけではありません。第1の資本主義の弊害を国家によって是正しようという世論が当然起こってくるのですが、この処方箋には落とし穴があります。国家というと抽象的な存在のように聞こえますが、国家の実体は、税金をとりたてることによって生活している官僚です。前述した官僚の自己保身ゆえの「きれい好き」とも関連しますが、国家は、暴力によって担保された、本質的に自分の利益しか追求しない存在です。確かに、国家が所得の再分配や社会福祉のための機能を果たすことはありますが、それは原理的にそのような方策をとらないと、国家自体の存立根拠、すなわち官僚の存在基盤が危うくなるときに限ります。さらに、日本人としての同胞意識を高める機能を国家に期待すると、それは必ず官僚の都合の良い方向に社会が誘導されるという結果を招きます。

 結論の頭出し(先取り)をすると、社会は社会によってしか強化されません。そしてまた、国家も社会によって強化されるのです。国家は必要悪です。社会による監視を怠ると国家の悪はいくらでも拡大します。社会が強くなると国家も強くなります。そして、強い国家は悪の要素が少なくなるのです。

 それでは、続く第1章では『資本論』の論理を援用しながら、国家と社会の関係を探っていきます。このことは一見迂遠に思われても、国家の暴走にどう対峙するか、社会をどう強化するかを考えるうえで、たいへん重要なことなのです。
 
      続く。



小泉、御手洗ほかへ!「ソースライスと醤油ライス」
★昭和初年の大恐慌時代、「大学は出たけれど」が流行語になったころのメニュー?

 失業サラリーマンが街に溢れていたそのころ、

 大阪を中心に「ソースライス」なるものが流行した、という。・・・


 失業サラリーマンが町の食堂でライスだけを注文し、テーブルに備えつけのソースを

 かけて昼食をすませるといった情景が続出し、それをソースライスと呼んだ。

 阪急百貨店の大食堂では、小林一三社長の直々の指示で、

 「ライスだけ」のお客様には盛りをよくして福神漬けをたっぷりつけるようにしたという。

 当時その恩恵に与かったサラリーマンの間には、終世「阪急」以外の百貨店では

 買い物しないと、眼をうるませて思い出を語る者も少なくないという。

 この話を何処で(何を読んで)知ったのだろうか、とインターネットで「ソースライス」を

 調べてみて、「ソースライス」が今やB級(C級)グルメの雄とされているのを知り、

 驚いたのが、著者・高橋哲雄氏であった。

 以下、稿を改めて一部引用します。

 『東西食卓異聞』 14.ソースライスと醤油ライス より。

 ***************

 ・・・(続)・・・

  




『新しい階級社会と新しい階級闘争』
第七章 新しい階級闘争が始まる。 

 5。格差が拡大する社会に未来はない

 しかし、その間にも格差は拡大を続けていく。そして格差拡大は、社会にさまざまな弊害をもたらしていく。まず格差の拡大は、機会の平等を破壊する。平等を論ずる場合、機会の平等は必要だが、結果の平等は悪平等だからよくないというのが、よくある主張である。いまや、主流だといってもいいかもしれない。スタートラインは平等にしなければならないが、競争の結果として格差が生まれるのは当然だというわけだ。
 しかし現実には、機会の平等と結果の平等は分かちがたく結びついている。働いても働いても生活困難なワーキングプアには、そもそも教育を受けたり技術を身につけたりする余裕がない。だから、再チャレンジの機会があるといわれても、それを生かすすべがない。さらに貧困層の子どもたちは、十分な教育が受けられない。格差が拡大して貧困層が増えれば、そのような子どもたちはさらに増加する。

 つまり結果の不平等が拡大化することによって、機会の平等が失われるのである。機会の平等が失われると、貧困層の子どもたちの才能や能力は活用されなくなり、社会は活力を失う。だから機会の平等は確保されなければならないし、そのためにも、ある程度までの結果の平等が不可欠なのである。
 さらに格差の拡大そのものが、さまざまな社会的弊害、社会的損失を生み出す。米国で盛んに行われている社会疫学の研究によると、経済的格差が大きい地域ほど各種犯罪の発生率が高く、また心臓発作や悪性腫瘍(ガン)、殺人による死亡率、そして乳児死亡率が高い。そしてその原因について社会疫学者のイチロー・カワチとブルース・ケネディは、所得格差が拡大すると社会的信頼感が損なわれ、連帯感や社会的結束が衰退するからだと指摘している(カワチ、ケネディ『不平等が健康を損なう』)。
 また国際比較研究によると、格差が拡大するほど労働時間が長くなる傾向がある。
 なぜか。サミュエル・ボールズとパク・ヨンジンによると、それは格差の拡大にともなって消費水準に大きな違いが生まれ、このことが人々に羨望とストレスを生み、長時間労働へと駆り立てるからである(ボールズ、パク『模倣・不平等・労働時間』)。
 それだけではない。格差が大きく、しかも労働時間が長い国の代表格である米国の現状はさらに深刻だ。クリントン政権で労働長官を務めたロバート・ライシュは、労働時開か長くなった理由を「最下層に近い人たちがまともな生活をするために以前よりたくさん働かなければならなくなったということと、最上層に近い人々にとって、たくさん働かないことで失う金額がより大きくなったということの両方」によるものだと説明している(ライシュ 『勝者の代償』)。
 これは羨望やストレス以前の問題だ。つまり社会は、長時間働かないと生活できない貧しい人々と、余計に働けばそれだけ莫大な富を得ることのできる豊かな人々とに二極化されたのである。このような社会を好ましいと考える人は少ないだろう。
 さらに、より原理的な問題もある。それは、大きな格差は人々の「自尊(セルフ・レスペクト)」を破壊するということである。政治哲学者のジョン・ロールズは、すべての人々には「自尊」をもつことが保障されなければならないと指摘した(ロールズ『正義論』)。ここでいう「自尊」とは、自分の活動の意義が認められること、あるいは自分が役に立っていると感じることができるということである。
 格差拡大を擁護する人々は、能力のある人や努力した人には、それだけの高い報酬が与えられるべきだと主張する。しかし報酬を与えられるべきなのは、このような一部の人々だけではない。目立った才能や能力に恵まれなかった人々、運悪く大きな成果を上げることのできなかった人々を含めて、すべての人々には社会的な承認というものが与えられなければならない。
 この原理的な立場に立つならば、能力や努力の違いに起因するものだとしても、格差を無制限に承認するわけにはいかない。どんな下積みの単純労働に従事する人であったとしても、それだけで生活できる報酬が与えられるのでなければ、社会的に承認されたとはいえないからである。また、仕事そのものから得ることのできる満足、たとえば「やりがい」「働きがい」といったものも報酬の一種だと考えれば、最終的には労働のあり方を再編成して、極端な単純労働そのものをなくしていくことも必要だろう。
 格差によって人々の意欲を引き出し、経済効率を向上させることができるという主張もある。しかし、この主張にはあまり説得力がない。現実にこれまでの日本企業では、少なくとも男性に限れば、ほとんどの人が正社員として就職し、一定の年齢まではほぼ横並びに昇進してきた。査定によってボーナスや昇進時期などに一定の差はつくものの、さほど大きな差ではなく、たとえ平社員のままにとどまったとしても、それなりの生活ができる賃金は保障されていたのである。
 しかし、そのことによって日本の経済成長が損なわれたというわけではない。むしろ日本の企業は、社員の賃金や昇進年齢に比較的小さい差異をつけることによって、会社の一体感と矛盾しない範囲で競争を作り出し、その意欲と能力を引き出してきたのである。同じことができないとしたら、それはその会社が金銭以外の手段で人を動かすことができなくなっているということ、要するにマネジメントに欠陥があるということだ。
 事実、格差の大きい国が優れた経済競争力を示しているかといえば、そうではない。世界経済フォーラムが毎年公表している「世界競争力報告(二〇〇六年)」によると、競争力世界一となったのはスイスで、二位フィンランド、三位スウェーデン、四位デンマークと、経済格差の比較的小さい国が上位を占めている。米国は六位と前年の二位から転落し、日本は七位だった。
 格差拡大を批判すると、決まって「格差は必要だ」と反論する人が出てくる。これは、反論になっていない。私を含めて格差拡大を批判する人々は、すべての人々がまったく等しい収入を得るような、完全平等状態を求めているわけではない。人々の努力や創意、顕著な社会的貢献に対して、特別の報酬を与えることを否定する人はいないだろう。問題は、大きな格差にはさまざまな弊害があるということ、また格差が必要だとしても、それはさほど大きなものである必要はないということなのである。

 6 岐路に立つ新中間階級「二つの道」

 両極分化の進む新しい階級構造の中で、新中間階級は上と下から吸引され、引き裂かれつつあるといっていい。
成果主義の下で業績を上げ、莫大な年俸を手にしたり、ストックオプションによって資本家階級に接近する可能性は、たしかに拡大している。この意味で新中間階級の1部は、単に学歴が高かったり、終身雇用によって安定した地位を守られているといった意味での中間階級ではなく、資本家階級に接近したということができる。
 しかし逆に、成果を上げられずにリストラされたり、非正規労働への移行を余儀なくされたりする可能性も大きい。それ以前に、会社が倒産するかもしれない。失業の可能性があると感じる人は、新中間階級の14.8%に上っている。同じ調査によると、失業の可能性が「まったくない」という人は、50.7%にすぎない。過労死の可能性だってある。過労死寸前で退職を余儀なくされる可能性は、さらに大きい。ホワイトカラー・エグゼンプションが実施されれば、過労死の危険がさらに高まるだけでなく、収入は労働者階級並みの水準にまで低下するかもしれない。

 新中間階級の子どもたちもまた、転落の危機に瀕している。これまで新中間階級の子どもたちは、まあまあ収入がある高学歴の親の下で大学を卒業し、自らも新中間階級になれるという見通しをもつことができた,しかし、これはもう過去の話である。大企業の採用が増えて「超売り手市場」などと報じられているが、現実には大卒でも14.8%、8万3000人は卒業時点でフリーターまたは無業者である。就職率は67.6%で、バブル期より10%以上低い(文部科学省「学校基本調査(速報値)」2007年)。しかもこの就職率には、かなりの数の非正規労働者が含まれているとみた方がいい。さらに、就職はしたもののすぐに退職する若者も多い。

 親の立場からすれば、自分の子どもが就職に失敗し、あるいは仕事に耐えられずに退職し、フリーターや無業者(いわゆる「ニート」)になる可能性が依然として大きいということだ。とりあえずは月々の給料で、パラサイトさせてやるしかない。そしてその後は、少ない年金でパラサイトさせてやる。しかし自分が死ねばどうなるか。子どもはホームレスになるかもしれないし、生活のために犯罪に手を染めるかもしれないし、餓死するかもしれない。

 それでは、どうすればいいか。簡単なことである。格差を縮小させればいいのだ。もちろん、格差を縮小させるためには恵まれた人々、つまり搾取者である資本家階級と新中間階級の収入を引き下げる必要がある。しかし、このことは資本家階級の利益は損なうが、必ずしも新中間階級の利益を損なうものではない。
 格差が縮小し、非正規雇用の労働者でもなんとか生活できる、たとえば最低でも月額20万円、年額で240万円程度の収入が得られるようになり、これに合わせて失業者への給付も引き上げられれば、リストラされても、また会社が倒産しても、なんとか生活していくことができる。フリーターの子どもだって、なんとか生活できる。フリーターどうしで結婚して収入を持ち寄れば480万円になる。これなら、子どもを生み育てることも不可能ではない。
 これは、現在の生活保護のような穴だらけのセーフティネットではない。すべての人々を守ってくれる究極のセーフティネットである。具体的には、たとえば最低賃金を時給1200円に引き上げれば、年・2000時間労働で年収240万円になる。この1200円という水準は、けっして非現実的なものではない。EU諸国では普通の水準である。いきなり1200円に引き上げるのが無理ならば、税金による所得再分配を併用すればいい。
 経済の活力も増すだろう。セーフティネットとは、単に転落した人を守るためにあるのではない。セーフティネットがあれば、たとえ転落しても命の危険はない。だからこそ危険な綱渡りも、空中ブランコも、思い切って演ずることができるのである。だから、転落してからの再チャレンジではなく、いまいる場所での大胆なチャレンジが可能になる。経営者だって、従業員を路頭に迷わせる心配がなくなるから、経営上の決断も下しやすくなるだろう。
 だから格差を縮小することは、相対的に所得水準の高い新中間階級の利益にもなる。アンダークラスに手厚く所得が配分される分、新中間階級の所得はいくらか減るかもしれない。しかし、確実なセーフティネットを手に入れることができる。子どもの将来を不安に感じることも少なくなる。この1点でも、新中間階級にはアンダークラスと連帯して、格差縮小を求める意味がある。

 そのための具体的な施策としては、労働時間を短縮して雇用を数量的に増やすこと、つまりワークシェアリングが有効だろう。とかく働きすぎになることの多い新中間階級の労働時間を短縮する。その分、収入の総額は減ることになるが、雇用が増える。またそれ以前に、有給休暇の消化率を100%にするだけでも、かなりの雇用創出効果が期待できる。雇用が増えれば、これまでフリーターだったり失業者だったりした人々が、より安定した雇用の機会を得ることができるようになる。これらの人々の収入は増加し、賃金格差は縮小する。
 もちろん、効果を確実なものにするため、最低賃金の引き上げは不可欠である。経営側は無理だというかもしれないが、従業員に最低限の生活のできる賃金すら払えない無能な経営者には退場していただこう。もちろん経済の停滞している地方の企業に対しては、最大限の経営努力を求めたうえで、一定の補助をすることは考えてよい。企業には、雇用の場を提供して地域経済の骨格になるという公共的な役割がある。これに対する補助は、政府の当然の役割である。
 資本家階級はもちろんのこと、新中間階級、さらには大企業正規労働者の収入も減少する可能性がある。こうした犠牲を覚悟の上で、格差を縮小するだけの覚悟があるのか。参議院選挙で圧勝した民主党と、その最大の組織基盤である連合に問われているのは、この点である。たとえば、非正規労働者の待遇改善のための原資を、経営側と正社員が半分ずつ負担するような大胆な提案ができないか。この程度の提案もできないようなら、いまや巨大な勢力となりつつあるアンダークラスからの支持は得られないし、政権奪取など不可能だ。


 それでも、やはり自分の収入を減らしたくないという人には、米国のコラムニスト、バーバラ・エーレンライクの次の言葉を贈りたい。

 「・・・私たちが持つべき正しい感情は、<恥>だ。今では私たち自身が、他の人の低賃金労働に「依存している」ことを、恥じる心を持つべきなのだ。誰かが生活できないほどの低賃金で働いているとしたら、たとえば、あなたがもっと安くもっと便利に食べることができるためにその人が飢えているとしたら、その人はあなたのために大きな犠牲を払っていることになる,その能力と、健康と、人生の1部をあなたに捧げたことになる。「働く貧困層」と呼ばれる彼らはまた、私たちの社会の大いなる博愛主義者た        ちともいえる。・・・。
もちろんある日―正確にいつかは予測できないがーさすがの彼らも、報われることのあまりに少ないのにうんざりして、自分たちの価値に見合った当然の報酬を要  求する日がやって来ることだろう。その日が来れば、怒りは爆発し、ストライキも破壊行為も広がるだろう。それでも、天が落ちてくることはないし、おかけで、結局は私たちみんながもっと幸せになれるはずなのである。(エーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド』) 


 私はエーレンライクのいう「その日」を、できるだけ争いの少ない形で、犠牲をともなわない形で呼び寄せるための行動に、日本の新中間階級が立ち上がるべきだと考える。恵まれた位置にありながら、貧富解消政策を支持する人の比率が大きい日本の新中間階級には、その力があるはずだ。

 資本家階級に仲間入りして大きな富を手にするという、あまり大きくない可能性を信じて、この居心地の悪い境遇に耐え、引き裂かれ続ける道を選ぶか。それとも、引き裂かれることを拒否し、アンダークラスとともに、より格差が小さく、転落のリスクも小さい社会を求めるか。

 いま日本の新中間階級は、岐路に立っている。それはもちろん、日本社会全体にとっての岐路でもある。                


 


 『新しい階級社会、階級闘争』を読む。
6。「再チャレンジ」論の登場

 格差の存在や格差拡大を擁護する小泉の見解は、安倍前首相にも受け継がれた。もちろん安倍も、格差拡大の事実を潔く認めたわけではない。
 国会でも、小泉と同じような論法で格差拡大の事実を否定しようとしたあげく、「格差があると感じている人たちがいるのであれば、また、そういう地域があるのであれば」などと、格差拡大を仮定の問題、しかも意識の問題としてすませようとする姿勢をみせ、与野党から追及を受けた。あげくの果てには、官僚から渡された怪しげな意識調査の結果をもとに、「日本の絶対的貧困率は先進国で最も低い」などと、明らかに事実に反する答弁までした。
 しかしながら、どんなに都合のいい統計や資料だけ取り上げて事実を歪曲しようと、絶対に否定することのできない事実がある。それは、フリーターや無業者の多い20歳代から30歳代の若者たちの間で格差が拡大しており、しかもいつまでもフリーターから抜け出せないなど、格差が固定化する傾向があるということである。いかに格差を擁護しようとも、これだけは無視し続けることができない。ここから出てきたのが、「再チャレンジ」論である。
 
この「再チャレンジ」論の要点を、安倍自身の言葉で示したいところなのだが、テレビなどでみていてもわかるとおり、安倍の言葉はたいへんわかりにくい。主語と述語の関係が入り乱れ、いくつものセンテンスがゴミ箱の中の紙くずのように入り乱れている。仕方がないので、次のように要約しておこう。
―「不公平や不公正な競争の結果でない限り、能力のある人とない人、努力した人としなかった人の間に格差ができるのは当然である。格差があっても、再チャレンジのチャンスさえあれば問題がない」
 敗者復活の機会さえあるならば、また公正な競争が保障されていれば、格差が大きくても問題ない、むしろ格差の大きいことが経済の活力を生むーこれは、もちろん新しい主張ではない。もともと1990年代後半に経団連や経済同友会が提言し、経済戦略会議によって政策立案の基本原則のひとつに採用されたものである。

 しかし「再チャレンジ」という歯切れのいいキャッチフレーズを得たこともあって、一見したところもっともらしく聞こえ、耳に入りやすい。世論調査などをみると、格差は拡大しているが、頑張れば挽回できると考える人の比率は高い(たとえば「朝日新聞」二〇〇六年二月五日)。フリーターや無業者の若者だって、自分の可能性を否定したくはないだろうから、当然の結果かもしれないが、ここに「再チャレンジ」論を受け入れさせる素地がある。
 
「再チャレンジ」論の問題点については、派遣労働ネットワーク事務局長の関根秀一郎が的確に指摘している。「安倍氏が言うのは、上からロープを垂らしてやるから登れるヤツだけ登って来いという話。格差そのものを縮める発想が見えない」「再チャレンジの名で格差の底辺に細い糸を垂らす政策より、派遣など不安定な雇用を規制するのが先決だ」(「東京新聞」二〇〇六年九月三〇日、十二月二〇日)。
 実際、フリーターや若年無業者を「積極的に正規従業員として採用して育成したい」とする企業はわずか1.4%で、「とくに区別せず正規従業員として採用する」とする企業の23.4%を加えても、ようやく四分の一に達するにすぎない。これに対して「正規従業員として採用するつもりはないが、非正規従業員として採用する」という企業は23.3%で、残りの大部分の企業(41.8%)は、「正規従業員としても、非正規従業員としても採用するつもりはない」と答えている(厚生労働省『労働経済白書』二〇〇五年)。
 
いまある格差、拡大しつつある格差を基本的にそのままにしておいて、わずかな上昇のチャンスを作り出す。そして、わずかしかないチャンスをめぐって競争させる。こうして敗者の中に勝者と敗者を作り出し、勝者を称揚すると同時に、敗者の存在に対する政府の責任を免れようとする。これでは、格差拡大も貧困も解決しない。


7。格差論争は形を変えた階級闘争
 
もはや、格差論争というものの本質は明らかだろう。それは、形を変えた階級闘争なのである。
 一般に階級闘争とは、異なる階級に属し、しかもそれぞれの対立する利害を認識した者どうしが、自分の利害の実現のために闘うことをいう。それは、何も革命闘争のような激しい争いだけを指すのではない。たとえば、経営者と労働組合が賃上げをめぐって争うのは、典型的な階級闘争である。
 しかし、このように階級闘争が成立するためには、当事者たちがお互いの利害の対立を認識しているということが前提となる。利害に対立がないと考えている者どうしの間には、階級闘争としての格差論争階級闘争は成立しにくい。たとえば、お互いを親子のように考え、そのとおりに行勤している経営者と労働者の問には、少なくとも目立った形での階級闘争は成立しない。お互いが平等な関係にあると考えている者どうしの間にも、階級闘争は成立しない。
 
だから、労働者たちを階級闘争から遠ざけるためには、経営者と労働者は一体のものであり、そこに利害の対立はないと考えさせるよう仕向ければよい。事実、これまで多くの日本企業では、労使協調のイデオロギーや、労働組合と会社組織が一体化し、労働組合幹部がやがて管理職・経営者に登用されるようなシステムが、このような役割を果たしてきた。これを背景に、「日本には階級がない」という暗黙の了解も形成されてきた。
 ところが近年急速に進行し始めた格差拡大は、「日本には階級がない」という、これまで成立していた暗黙の了解に、疑念を生じさせるようになった。それを階級と呼ぶか、それとも「勝ち組・負け組」「上流・下流」などと呼ぶかはともかく、日本の社会には大きな格差があり、人々は利害の異なるいくつかのグループに分け隔てられているという見方が、にわかにリアリティを持ち始めたのである。
 
フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、「階級が存在するかしないかということは、政治闘争の主要な争点のひとつである」と指摘した。現実には格差や不平等があるにもかかわらず、「日本には階級がない」というのが社会的合意になっているとしたら、「負け組」や「下流」などの下層階級が自分たちの利害を実現することは困難である。そもそも、そこには利害の対立はないのだから、「勝ち組」や「上流」に配分の変更を要求する根拠がない。だから、下層階級が利害を実現するためには、「階級は存在する」という合意を作ることが先決になる。これが下層階級にとって、階級闘争の第一歩になる。
 反対に「勝ち組」「上流」などの上層階級は、階級の存在を否定しようとする。格差拡大は見せかけであり、多少の貧富の格差はあっても、利害の対立はない。しかも、上層階級がその能力を十二分に発揮することによって社会全体が豊かになるのだから、格差は必要である。したがって政府も、格差を縮小させたり、配分を変更したりする必要はない。財界と政府は、このように主張する。それは、下層階級から配分の変更を求められないようにするための、容赦ない階級闘争の一部である。
 階級闘争に対するブルデューのような考え方は、西欧の社会学者や思想家には、しばしばみられるものだが、日本では「観念論」と批判されることが多かった。階級というのは客観的な存在であり、科学的な見方さえすれば必ず認識できる、と考えられてきたからである。
 しかし現実には、格差は拡大しているという見解と拡大していないとする見解、格差の是正が必要だという見解と必要ないという見解が、それぞれに「科学」あるいは「統計的分析」などと称して争っている。それはすでに、明らかな階級闘争なのである。
 だから、格差論争に参加するということは階級闘争に参加することであり、上層階級と下層階級のどちらかに与することである。その意味で現代の日本では、すべての人々が階級闘争への参加を迫られているといっても過言ではない。

  第二章 ◎階級闘争としての格差論争  <完>






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