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●「民俗の発見」・内藤正敏。
  
   内藤正敏「民俗の発見」 (948x1280)

 2007年8月に8回ほど ★内藤正敏・『民俗の発見』を紹介した。

 全4巻の第3巻-『江戸・王権のコスモロジー』、そのごく一部を。

 昨日、Hさんの「コメント」がきっかけで少し読み返してみて誤字の訂正の必要(不思議だが文字化けの箇所もある)や引用内容で不足を感じたところがあったので、補足していこうと思う。

 ついでに、↑のようにカテゴリーを追加した。
 


  



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『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
●奉安殿と御真影の死守

 昭和三年(一九二八)十月、昭和天皇と皇后の御真影が、いっせいに全国の小中学校に下賜された。しかし昭和六年(一九三一)一月から四月にかけて御真影の奉還がおこなわれ、その数日後、御真影再下賜がおこなわれた。

 この昭和六年におこなわれた御真影の奉還、再下賜という不思議な惜置がとられた理由について、『神戸小学校五十年史』に、「昭和三年十月九日拝戴した御真影は御即位御大典拝賀のために御貸下あそばされたのであるから、昭和六年一月十五日、一旦奉還することになった……」と記されている。つまり昭和三年に下賜された御真影は、昭和三年十一月十日の即位大典のために、一時的に貸し出したものというのである。
 それにしても、なぜ返還、再下賜という奇妙なことがおこなわれたのだろう。その理由は謎につつまれているが、一つ考えられることは、御真影製作上の写真技術の問題である。ここで思いだされるのが、写真史家・小沢健志氏の「大正天皇の御真影はガスライト紙、昭和天皇の御真影はカーボン印画」という証言である。これを裏づける興味深い事件がある。

 昭和七年七月三十日、長野県の下諏訪尋常高等小学校の御真影が盗まれ、校長の自宅に現金六百円渡せば返すと強迫してきた。犯人は指定した場所に御真影を置き、校長は現金を置いたが、その少しの時間の間に行商人が御真影をひろって警察にとどけたことから、長野県下全体を震憾させる大事件となった。この時、警察は上諏訪で一流の立木写真館の主人に鑑定させたところ、「東京でも大阪でもふつうの写真屋ではできないもの」であることがわかった。つまり昭和天皇の御真影は、当時の写真館で一般に使われていたガスライト紙ではなく、カーボン印画であることを示している。

 先にも述べたように、カーボン印画は、ガスライト紙にくらべれば、手続きはめんどうだが、半永久的に不変色という最大の利点があった。ここに昭和六年の再下賜の謎を解く鍵があるように思われる。つまり昭和三年の御真影は即位大典に間にあわせるために、作業工程が条なガスライト紙で大量に焼き付けて下賜した。一方、カーボン印画による半永久的に退色しない御真影の製作がつづけられ、大量にそろった昭和六年になって、全国いっせいにガスライト紙の御真影を回収し、カーボン印画の御真影を再下賜したのではないかと考えられるのである。

 昭和十一年(一九三六)に千葉県が出した「県秘乙第五三〇号」は、御真影を毎月一回点検するよう指示したものだが、その中に「今上、皇后両陛下ノ御真影ハ永久不変色ナルヲ以テ湿気ヲ帯ビタル場合ハ硝子越ノ光線二十分以内当ツルモ差支ナシ」という一条がある。科学的に銀塩のガスライト紙は紫外線に弱いが、カーボン印画は炭素なので太陽の紫外線に強い。これは昭和天皇の御真影は、永久不変色のカーボン印画であることを意味するものである。

 カーボン印画による永久不変色化は、「万世一系、天壌無窮」の天皇制国家の思想を化学的に強化し、御真影の呪力を決定的に高めることにほかならなかった。

 それと共に御真影の管理はさらに厳重になり、御真影の検閲がおこなわれるようになった。・・・中略・・・

 ・・・こうして厳重な管理を強制され、校舎から独立して御真影を安置する「奉安殿」が建設された。まさに奉安殿は、御真影を神として祀る神殿であった。

 昭和十一(一九三六)年四月に長崎県で出された通牒では、「時局益々重大ニシテ国体明徴ノ声愈々高調セラルヽノ時肇国ノ精神ヲ闡明ニシ君至ノ大義ヲ宣揚スルハ最モ契(ママ)緊ノ事二属ス」ので、「御影奉安殿施設ノ漸次完備シツゝアルハ臣民忠誠ノ発露トシテ喜二堪ヘサル所ニシテ之が教育上二及ホス好果亦勘カサルヘキヲ信ス……」と、奉安殿を完備するよう通達が出された。奉安殿の建設は、大正時代にも土蔵造りで作られたが、昭和十年前後に急激に建造された。当時は世界的に大恐慌の嵐が吹きあれていたが、村出身の在京の人々などから寄付を募って資金を集め、多くは鉄筋コンクリートで神社や宮殿の様式で奉安殿が建てられていった。

 奉安殿の普及は、単に火事や虫害、湿害から御真影を守るという物理的な面以上に、御真影を「秘して隠す」という精神的な作用の大きさにあったことに注目すべきであろう。むかしから日本では「秘仏」にして隠し、見ることを禁じた神仏ほど、神秘感が増して強く信仰されている。奉安殿の普及によって、御真影の神格化はさらに増大し、国民に対する恐怖の呪縛力も強大になっていった。

 一方、時局は風雲急をつげていた。昭和六年(一九三一)の満州事変以後、日本は侵略戦争を拡大し、昭和十二年(一九三七)、蘆溝橋事件を契機に起こった日中戦争はドロ沼化し、昭和十五年(一九四〇)、北部仏印へ進駐、翌十六年、ハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争へと突入していった。

 そして本土空襲が激化すると、「御真影の奉蔵死守」が指示されるまでになった。戦争が激化する中、御真影を死守するために多くの教師が殉職していき、日本は破局の進をつき進んでいった。

 昭和二十年(一九四五)八月十五日、ラジオの玉音放送で、日本の敗戦が国民に告げられた。それは国民が初めて聞く現人神の天皇の声であった。

  >>「御真影」了。

 



『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
 
(新しい御真影が作られた翌年明治二十二年に大日本帝国憲法が発布されて、天皇は「神聖な王」となった。
御神影は下賜の申出があった学校のうちから優秀な学校へ下賜されることとなった。)

 「聖恩」に浴した学校は、拝戴式または奉戴式が挙行された。
 明治二十三年(一八九〇)九月十三日に兵庫県の豊岡小学校の「天皇皇后両陛下御真影拝戴式」は次のようにおこなわれた。
 校長が御真影を拝受して郡役所から出てくると、祝砲一発を合図に、整列して待っていた生徒達が「君が代」を斉唱。校長は御真影を奉持して自動車に乗り、高等三年と四年の生徒五〇名が銃を執って左右前後を護衛し、他の生徒たちは後につき、途中ラッパを吹いて歩調をととのえて進む。御真影が校門に着くと再び祝砲を放つ。校長は御真影を奉持して進み、運動場に設けられた玉座に御真影を奉安した。生徒たちは順次整列し、各役所官吏、各町村長、町会議員、近傍の小学校教員、市街の有志などが所定の席に着き、御真影に向かって総拝礼をおこない、生徒一同が君が代を斉唱し、郡長の諭告、校長の答辞、高等生徒唱歌「皇御国」を奉し、全員が順次に尊影数歩の前に進んで、拝礼し退場。式が終わると「天皇陛下万歳」と大書きした軽気球が上げられ、その後、運動会が開催された……。
 
こうして御真影拝戴式は、学校行事を越えて生徒、父兄、地域行政をもまきこんだ一大イベントであり、天皇制国家の忠君愛国思想を教育する祝祭儀礼であった。山本信良と今野敏彦は、御真影拝戴式をはじめ祝祭日儀式が、校長を神官とし、伝統的なマツリの形態をとり入れながら、あたかも自然の経緯のごとく官制のマツリをおこなわせ、「天皇制マツリ」に拡大して思想教育に成功した、と指摘している。

 明治二十三年、「教育に開する勅語」すなわち「教育勅語」が発布され、御真影は特別な意味をもつことになった。
 教育勅語は、大日本帝国憲法と連動して、山県有朋、芳川顕正を中心に元田永孚、井上教、中村正直らによってまとめられた。その内容は、天皇に対する臣民の忠誠による国体観念の教育を説くもので、守るべき忠孝の徳目を列記している。教育勅語は、大臣の副署を伴わない★天皇直裁による勅語という形式をとったため、すべての法令を超えた絶対的性格をもった。文部省は勅語の謄本を全国約三万の官公私立の学校に迅速に下付していった。

大正天皇の御真影から形式が定まり、より象徴性が高くなった。明治天皇の御真影は天皇が座像で皇后が立像で向きも一定していない。しかし大正天皇の御真影は、天皇は向かって左、皇后が右で、共に八分身像の立像となり、昭和天皇・皇后の御真影もこの構図にならっている。
 大正時代には、御真影の管理は一段と厳しいものになった。その一つが御真影を守るための教職員の★宿直制度である。埼玉県では、大正元年(一九一二)に「訓令第二六号」で、「御真影ヲ奉置シタル学校ニ在リテハ職員宿直ヲ為スヘシ……」と定め、大正六年には、知事名で各郡長に宛てて、「御影奉護方二関シテハ規程ノ定ムル所ニョリ常二周密ナル注意ヲ以テ夫々監督ヲ怠ラサルヘシト雖近時往々ニシテ宿直ノ励行セラレサルモノアルヲ耳ニスルハ甚夕遺憾トスル所ニシテ万一不慮ノ変事アルニ至ラハ侮ユトモ及ハサルニ至ルベキ」と、御真影を守るために宿直の徹底を強く命じる内訓が発せられた。
 こうして大正時代には、全国的に宿直制度が実施されるようになったが、宿直制度は、深夜一人で学校に泊まりこんで、御真影を守るという行為のために、教職員に与える精神的影響にははかりしれないものがあった。御真影は単なる写真ではなく、現人神の天皇そのものとして、全国の教職員に実感させることになった。そこで起こったのが御真影を守るための教師の殉職である。

 大正十年(一九二三) 一月六日、長野県埴科郡の南条尋常高等小学校が火事になり、校長の中島仲重は、焼えさかる猛火の中を校舎の中にとびこみ、二階の御真影奉安所の近くで焼死した。発見された遺体は全
すでに御真影は、殉死の美談を生みだすほど、国民への呪縛力は肥大化していたのである。


『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
  ・・・
 日本で最初の御真影は、明治五年(一八七二)に★写真師・内田九一によって撮影された。『明治天皇紀』に次のように記されている。

 さきに天皇・皇后、写真師・内田九一を召して各々御撮影あり、是の日、宮内大輔・萬里小路博房を以て之れを皇太后に贈進したまふ、九月三日、皇太后亦宮城に行啓せられ、九一を召して御撮影あり、十五日、九一、天皇・皇太后の御写真大小合せて七十二枚を上納す、当時の宸影、一は束帯にして、一は直衣を著御し金巾子を冠したまふ・・・
 
 最初の御真影は、束帯と直衣を着た二種類の姿で写されたが、この撮影をした内田九一は、日本の写真の開祖とされる長崎の★上野彦馬の弟子で、明治二年(一八六九)に東京に進出して営業写真館を開き、翌三年の『東京諸先生方独案内』の中で横山松三郎と共に名前が載り、東京で一、二をあらそう写真師になった人物である。
 興味深いことは、内田九一は天皇・皇后を撮影すると、その日のうちに写真を皇太后に贈っているが、九月三日に皇太后を写すと、こんどは十二日間もかかってから、天皇・皇后の写真も合わせて七二枚の写真を上納していることである。これは「湿板」で撮影し、「鶏卵紙」という印画紙で焼付け(プリント)するという当時の写真技術からくるものである。
 湿板とは、・・・中略・・・

 こうして明治初期に鶏卵紙が実用の段階に入るや、いちはやく複製ができる性質に着目して、現在の印刷と同じような形で利用していることは注目される。そして御真影も印画紙に焼き付けて、全国に「下賜」することが可能になった。御真影がその本来の力を発揮するのは「下賜」されることによってであり、それを支えたものこそ、写真の「複製性」であった。・・・中略・・・

 御真影が下賜された時期は驚くほどはやく、明治六年(一八七三)からであり、この年、新たに御真影の撮影がおこなわれた。『明治天皇紀』に次のような記事がみえる。

(明治六年六月四日)
さきに奈良県令・四條隆平、御写真を拝戴して新年・天長節等の祝日に之を政庁に奉掲し、県官並びに官民をして瞰拝せしめんと欲し、其の下賜を宮内郷に申請す、是の日、特に之れを聴したまふ、是れ地方庁に御写真下賜の姶なり、
(同年十月八日)
是の日、宮城内写真場に於て、新制の軍服を著して撮影あらせらる、十日成れるを以て上る、全身・半身の二種ありて、全身の聖影は大中の二型あり、共に帽を脱して卓上に置き、剣を杖つきて椅子に凭りたまへり、尋(つ)いで伊太利国皇甥其の他に大型の全身星影を賜ひ、又十一月七日、各府県に同聖影を下賜することを聴(ゆる)したまふ。
・・・・以下略・・・
 *******************

 ●大日本帝国憲法と教育勅語
 明治六年(一八七三)に御真影が奈良県庁に下賜されて以後、府県庁などの地方官庁、師団本部や軍艦などの軍の施設、政府諸機関に下賜されていった。しかし御真影が天皇制国家の形成に特別な役割をはたすのは、★学校に下賜されるようになってからである。
 明治十五年(一八八二)にまず官立学校に御真影が下賜され、明治二十年(一八八七)に沖縄県尋常師範学校への下賜を最初として、★明治二十二年中には府県立学校への下賜が終わり、市町村立高等小学校への下賜がはじめられた。こうして御真影の全国の学校への下賜が進む中、★新たな御真影も製作された,それは単なる写真ではなく、★肖像画を写真で複写するという複雑な方法で製作された。『明治天皇紀』に次のように記されている。

(明治二十一年一月十四日)
宮内大臣子爵・土方久元、印刷局雇・伊太利国人・キヨソネをして天皇の御真影を謹写せしむ、★★天皇撮影を好みたまはず、御真影として存するは、旧制の仏蘭西武軍服を召したまへるものを始め、皆十数年前の撮影に係り、外国皇族・貴賓に贈与するに適せず、請ふ者ある毎に大臣等其の処置に窮せり、価りて伯爵伊藤博文の宮内大臣たるや、屡々奏請する所ありしと雖も許したまはず、久元の大臣と為るや、以為らく、天皇の知りたまはざる間に翔かに拝写するに如かず、其の責任は臣之れを負はんと……、是の日弥生社行幸の事あるを好機と為し、キヨソネに命じて拝写せしめんとす、キヨソネ命を拝して大に感激し、御陪食に際して次室に候し、襖を隔てて正面より龍顔を仰ぎ、御姿勢・御談笑の微に至るまで尽く拝写して余す所なし、既にして原画成り之を撮影す、神彩炎々、聖帝の威容傲然として真に迫る……、★★後天皇の御真影として普く下賜せられたるものは此の原画に基づくものなり、
(同年六月十四日)
皇后、写真師鈴木真一を召して撮影せしめらる、翌日写真師丸木利陽をして同じく撮影せしめたまふ、
(同年八月十九日)・・・・以下略・・・

 ******************

 





『江戸王権のコスモロジー』・<御真影>
 ★御真影の下賜と鶏卵紙

 慶応三年(一八六七)十月十四日、十五代将軍・徳川慶喜は大政奉還し、十二月九日、王政復古の大号令が発せられ、徳川三百年の歴史は幕を閉じた。
 明治元年(一八六八)七月十七日、東幸の詔を発して江戸を東京と改称した。九月二十日、明治天皇は京都を出発し、十月十三日に東京に着き入城。江戸城は東京城と改められた。
 明治天皇の東京行幸は二八〇〇人の大行列で、内侍所の神宝(三種の神器の鏡・八咫鏡)がついていた。途中休息する所に、神器を安置する建物が急造され、神器礼拝に老若男女が集まった。この時、行列の通る沿道の宿泊地に出された触書には、神社の鳥居や灯龍はよいが、仏像、石塔には菰やよしずで囲い、墓のある寺は閉門せよ、道筋には白砂を敷き、路端の便所は筵で囲い、土中にある便壷は埋めて取り除け、「エタ村」はムシロ、ヨシズの類で隠して見えないようにせよ……、とものものしい内容が書かれていた。
 これは天皇の聖=浄に対する賤=不浄を除き、白砂の上を歩くことで、天皇が神聖なる存在であることを天下に見せつける演出にほかならなかった。
 こうして明治天皇は、いったん皇居(東京城)に入るが、再び京都に還幸し、翌明治二年三月、再び東幸して三月二十七日に入城。この時、太政官も東京に移され、事実上の東京遷都になった。
興味深いことは、明治元年十二月十九日、朝廷が徳川宗達に対して「紅葉山ノ霊屋」の撤去を命じていること、明治二年十一月十七日、八神殿の仮神殿で鎮座式をおこなったことである。すでに天照大神の御霊代とされる三種の神器の八咫鏡(ヤタノカガミ) は明治天皇と共に入城して賢所に祀られており、新造した八神殿に神式天皇以下の歴代天皇の「皇霊」と天皇家の守護神である「八神」と天津神、国津神の「天神地祇」が祀られた(のちに皇霊殿が建てられ、八神殿は神殿と呼称が変わり、賢所と合わせて宮中三殿とよばれる。)
 つまり、明治天皇が最初に皇居に入った時には、まだ紅葉山東照宮に東照大権現が祀られており、明治天皇が皇居を出た後に、紅葉山東照宮が破却され、東照大権現の御神体と歴代将軍の霊が撤去され、その後に明治天皇が再び東幸して入城し、こんどは天皇家の祖神・天照大神と歴代天皇の霊を祀っているのである。
 明治新政府は、『古事記』や『日本書紀』の神話を根拠に、紀元節、皇霊祭、神武天皇祭などを創り出し、神嘗祭や新嘗祭と合わせて、大がかりな国家神道の祝祭儀礼で、天皇を現人神とする近代天皇制国家を創り上げていった。
 天皇の肖像写真である「ご真影」もまた、近代天皇制国家を支える一種の宗教的な呪具として使われた。なお、天皇の公式肖像写真は、正式には「御写真」で、聖影、御影、宸影などとも呼ばれたが、本稿では最も一般的に使われた「御真影」を用いる。
 当時、写真を写すと命が縮むといった迷信が示すように、「写る」という写真の機能は神秘的な呪具であり、文明開化を象徴する最新の文化であった。
ご真影は、国家を思想化し国民を支配するために、写真が政治的に使われたという点で、おそらく世界の写真史でも例がない試みであった。いま御真影が近代天皇制国家を支えるために、どのような形で利用されたか、また写真技術の進歩が、いかに御真影の国民に対する呪縛力を強化するために使われたか、時代を追って眺めてゆきたい。

 





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