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●朝日と読売の火ダルマ時代(6)  第六章
 
 第六章・第七章を先に紹介して、第二章へ戻ります。

 
 ●第六章 『大衆紙の愚民化工作とダンピング作戦』 

 
 ★外国に住む日本人の情報の源泉

  
 住民や駐在員として米国に住む同胞に質問すれば、故国日本についての情報を知るメディアとして、筆頭に日本の新聞や雑誌をあげるのに続き、日本語テレビだという回答が一般的である。中には地域で発行されている邦字新聞や、NHKの短波放送を聞くと言う人もいるが、私の知る限りではそれは少数派に属すようだ。大部分の人は活字メデイアの持つ威力と魅力のために、国際版を謳った日本の大新聞を購読して、それを読むのが毎日の習慣になり、補う形で雑誌を読むのが普通のようである。

 その点で大新聞の影響力は海外でも絶大だが、国内で支配する3大新聞の朝日、毎日、  読売の顔ぶれに代って、海外市場で脱落した毎日の位置に日経が入り、部数の面では読売、朝日、日経の順になっている。毎日新聞が海外進出から脱落した理由は、経営不振による事業の縮小路線のために、国内の販路を維持するだけで精一杯だからであり、悪戦苦闘する毎日の姿はある意味で心痛事である。これは積極的に社会不正を告発し続け、多くのスキャンダルを告発した社会部に反発し、財界広告を差し止めて兵糧攻めにしたのと、長年続いた経営陣のお家騒動の影響で、経営がガタガタになった結果だと言われている。

 読売の戦後史を『梁山泊の記者たち』という風雲録にまとめ、[鉛筆ヤクザ]の鎮魂歌を残した三田和男記者は、[私の読売時代、毎日新聞では親分子分の派閥がスゴくて、部長が移動すると、部員の半分が移動したという「伝説」があったものだ]と証言しているが、毎日はこうして派閥争いで自滅してしまった。

 また、他社の記者の証言を引用するまでもなく、毎日の外信部長だった大森実が『鉛筆一本』(講談社)の中に、「・・パリ支局長の三好修記者も上田社長の縁故者の世話を頼まれていたが、上田社長は三好支局長をも嫌った。上田の帰国後、田中主幹が私に、まず三好記者交替を示唆したが、小西健吉、谷畑良三両デスクが主幹室に乗りこんで、私事と公事を混同するとは何事か!とネジこんだので沙汰止みになった。三好と私はワシントン以来の親しい仲だったので、私の在任中は彼を替えたくなかった。では、親友の佐藤巧二はどうなるか?論説室の林三郎は外信部デスクに手を回して、佐藤の悪宣伝をやらせた上、佐藤原稿をボツにまでさせた。そして主幹と斎藤編集局長に強引に那須聖を推した。(中略)社内の醜いウラ舞台を紹介しなければならぬことは残念であるが、新聞社も他の企業も変わるものではなかった」と記録を残している。

 毎日OBの同じような報告は幾らでも残っており、板垣英憲も元の上司の歌川編集局長を告発して、一記者としての基本的な道徳・倫理を忘れていた。その第1は野村証券を始めとする、大手証券会社や都市銀行との[癒着]である。証券業界では、特に野村証券の 田淵節也会長とのつながりは、新聞記者の節度を越えるものがあった」という文章を始め、「編集局長に就任してから、歌川氏の恐怖政治は非常に苛酷になった。そうした状況の中で、反歌川派の残党と見られていた経済部のデスクのK氏(現在、ロイター東京支局員)、ベトナム陥落を取材して上田ボーン賞を取り、ワシントン支局でも勇名をはせたH記者 (現在、サンケイ新聞社)らの実力ある前途有望な記者が、歌川氏に意地悪されて次々に退社を余儀なくされていった」と内情を暴いている。

 
 ★アメリカを舞台にした3大紙の勢力分布図

 
 日本人が多く住むニューヨーク近郊の住宅地で、ある機関が個別的に調査した例によると、国際版の各新聞の購読者の比率を較べたら、読売80%、朝日10%、日経3%という数字が出たという。住民の多くがニューヨークで働く駐在員で、その過半数が中流のサラ
リーマンだとしても、この読売の突出した数字には目を見張るものがある。

 そこで、この数字の意味を邦字新聞の編集長に尋ねたら、それは読売のダンピング戦術の結果であり、他紙の半値ちかくだから仕方ないとの答えだった。ついでに知人のジャーナリストに同じ質問をしたら、朝日と日経なくても当然であり、こんな住宅地での調査は余り意味がないという。

 それと似た意見は親しいビジネスマンに多く、ロスやシカゴでも似たような意見を耳にして、成程と納得した記憶が私にはある。アメリカの大学の教授をする日本人学者の本に、新聞記事の引用が読売ばかりなので、ある時なぜ読売だけなのかと質問したら、安いから購読しているせいだと教えられて、唖然とさせられたことを思い出してしまうが、安売り攻勢は意外な効果を生むのである。

 それだけではなく、ある大手商社の副社長の意見は突飛であり、「駐在員は中流の上かも知れないが、問題意識や社会的関心では中流の下だから、中味は問わないので読売で十分満足なのでしょう。日本に帰ればスポーツ紙かマンガ週刊誌だから、たとえ読売でも新聞をとるだけ増しと考えるべきです」と言い放ったのが印象的だった。
 
 発行部数では1000万部を越す読売は日本一であり、850万部の朝日に大きな差をつけているが、一般に読売の読者に下層サラリーマンを始め、職人や水商売に従事する人が圧倒的だ。それに第二章の[インテリが書いてヤクザが売る制度]や第五章の[シェアー争いとダンピング作戦]で論じたように、読売が持って生まれた体質と宿命でもある。

 だから、かつては教養のある日本人は読売新聞を読んだり、読んでいることを知られるのを恥じるだけの心情を持っていた。現にこの傾向は国内に未だ残っているようであり、国立大学の教授の80%が朝日で、18%が読売。官僚の課長以上では、朝日が75%で、読売が25%。また、上場企業の総務部長の55%が朝日で、読売が30%という具合に、どんな人がどの新聞を読むかを、統計は正直に示している。

 
 ★全米を舞台にした販売競争

  
 それにしても読売の安値攻勢は目立っており、アメリカ各地で出版されている日本人向けの出版物に、『経済的でお得な購読料金』という文句を強調して、[他邦字衛星紙との年間購読料金比較]を謳う棒グラフを並べ、いかに読売が安いかを大いに宣伝している。

月間の購読料金がどれだけ違うかを比べれば、3紙の中で一番高い日経は90ドルであり、次の朝日が80ドルであるのに対して、読売は57ドルの安値が売り物である。

 再販制度があって価格統制が支配する日本と違い、アメリカでは真の自由競争が機能しているので、新聞はコストに見合った好きな価格をつけられる。

 だが、クリテイカルであるのは情報の質に関わっており、一見するともっともらしく見える経済原理が、より大きな枠組みで捉えるとダンピングと結びつき、決して経済原則に従っていないことは大いに問題である。

 私の読者には読売の記者やOBが可なりいて、親しくつきあっている人も多いが、彼らの証言では読売の海外販売は大赤字であり、安売りは超ダンピングに支えられているという。超ダンピングをやっていくカラクリの秘密は、連結決算をうまく利用するところにあり、アメリカで幾ら安売りをして損失を出しても、赤字はすべて日本の本がかぶるので、現地は販売会社の役割を演じることに徹し、部数を伸ばすことだけを考えればいいそうだ。また、アメリカや欧州で大幅なダンピングまでして、読者を獲得する戦法を読売が採用している背景には、★警察の情報部門がまとめた心理分析があるという。

 それが本当なら巧妙な操作だと言えそうだが、ほとんどの日本人の読者が駐在員であり、海外生活の平均は3年くらいであるから、その後は帰国して日本しかも、たとえ主人が会社で朝日や日経を読んでも、主婦や家族が読売の記事を連日読んでくれれば、帰国して自宅で購読する新聞は必ず読売になる。

 また、新聞は麻薬に似て習慣性を持つメデイアだから、アメリカに住む間に読売の論調に慣れてしまえば、朝日や日経を読む能力を喪失してしまうので、将来の読者を耕す上での効果が大きい。そのためにダンピングの損失を上回る投資になり、ここに戦略としての有効性が潜んでいるらしいが、それが「悪貨が良貨を駆逐する」愚民政策に繋がるなら、この商業主義は亡国路線に繋がるのではないか。

 
 ★日本でテスト済みのダンピング作戦

 
 読売の大阪進出の時の殴り込み作戦において、ほとんどタダでばら撒いて他社の顧客を 奪い、販路を拡大したことは有名な史実だし、ヤクザや暴力団まで勧誘員に動員するために、販売拡張は悪質勧誘の見本になっている。これも広く知れ渡った拡張路線の手法だが、実際の販売部数が1000部の販売店に対して、1200部と報告させて代金を支払わせ、その差額を折り込み広告の手数料で埋めるなど、読売はだいぶアコギな増紙作戦を展開している。

 これは創価学会が機関紙の聖教新聞を使い、信者に同じ新聞を数部購入させることで、水増し購読を強制したのと同じ手口だが、信仰集団ではない民間新聞が似たやり方を使い、系列の販売店を搾取するのだから恐ろしい。

 そのために、この[販売部数の絶対確保]を至上命令にして、販売店に部数の押しつけ(*押し紙)を強要する手口の悪辣さに対し、販売店主の告発や反発が増えているという。

 一般に販売店への押しつけはどの新聞でもあり、比較的少ない日経で5%だといわれており、朝日の場合は7%だと業界筋はいうが、読売だとそれが15%台になるらしい。
     
この数字を信用して計算してみれば、公称1000万部という販売部数のうちで、1500万部ちかくが幽霊部数ということになり、[サバ読み売り]という陰口の背景にあるものが、なるほどと思えるのも面白いではないか。

 しかし、それ以上に重要な意味を持つのは、朝日と読売とでは広告の内容が大違いであり、発行部数が倍になっても広告収入で差がつき、依然として読売は格の点で遥かに劣る点がある。朝日の広告は書籍、不動産(*特に高級マンション)、自動車、デパートなどが主体だが、読売は映画宣伝とかコックやホステス募集が得意で、垢ぬけしない点は衆目の認めるところだ。
 
 私の読者で博報堂の首脳部に連なる人の話では、1億円のマンションの広告を出す時に、読売ではそんな物件を買える読者はいないから、朝日か日経に広告するしか仕方がないそうだ。これが広告業界や不動産業界の常識なら、費用対効果を現実に考える上で安売りは、議論以前の当たり前の営業路線であり、読売にとって泣くに泣けない辛い点だろう。

 商業紙としてジャーナリズムで勝負する限りでは、読売の持つ限界で行き詰まらざるを得ないから、脱却の試みが販路・拡大になるのかも知れないが、そのために日本の運命が道連れにされるのではたまらない。

    続く。
 


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●朝日と読売の火ダルマ時代(5) ― 第一章
 
 ★朝日と読売の捩じれ関係 

 
 朝日を辞めた記者は二つのグループに別れ、鳥居素川は戦争成金の勝本忠兵衛をパトロンにして、新興の大正日々新聞を大阪で創刊した。出資金は200万円で朝日の資本金を凌駕しており、新聞史上でも特筆される紙面作りをしたが、大阪朝日と大阪毎日が連携して大妨害したので、その犠牲で僅か8ヵ月後に倒産するに至った。
 別のグループは松山忠二郎と行動を共にして、彼が社長に就任した読売に大挙して移ったが、社長就任の抱負を『新経営の読売新聞』と題して、松山は1919年(大正8年)10月1日の紙面に、次のような新路線への志向宣言を書いている。
 
 [創刊以来45年、半世紀に近い年月、本紙が果たして来た歴史を論じ、従来の〈穏健〉の特色を保つと同時に他面〈機敏〉の実を挙ぐ、また、〈趣味的〉〈家庭的〉なるに加えて、〈実務的〉〈社会的〉たらんことを期す・・・」
 松山社長は読売の元主筆たった五来素川を論説委員に迎え、彼の広い国際感覚に期待をかけたし、時事新報から千葉亀雄と万朝報から伊藤亀雄を引き抜き、大庭編集局長の下に再建に取り組んだ。当時の新聞記者は言論とペンの力で仕事をし、仕事の出来る人間にはスカウトの声がかかり、実力が評価されれば簡単に新聞社を移ったので、人材は指導者の理想に従って動いたのである。
 少し遅れて大正日々の残党も読売に集まり、白虹事件の時に朝日にいた主要記者たちは、東京に全員が結集して元気を取り戻した。そして、読売は大正デモクラシーの梁山泊になり、1923年(大正12年)の関東大震災までつかの聞の夢を飾った。
 松山社長のリーダーシップの下に再建が進み、読売は紙面の刷新や人事の適正配置を試 みて、理想的な新聞作りのために全力を傾けた。松山は東京専門学校政治科を卒業して朝日に入り、最初の海外派遣留学生としてコロンビア大学に学び、国際派の経済記者として信用があった。
 4年半続いた彼の社長在任期間の成果は、3万部だった部数を4倍の13万部に伸ばし、銀座に鉄筋建ての新社屋の建設まで及んでいるし、朝日を仮想の敵とみなして果敢な挑戦を試み、政治、経済、外交の記事に力を注いだ。だから、大正デモクラシーで朝日が築いた実績は、松山社長と行動を共にした脱藩記者たちにより、読売の看板の下に受け継がれていたと考えれば、朝日と読売は一種の捩じれ関係にあった。
 しかも、新聞は表題ではなく中身にあると考えるなら、松山社長と共に新聞を編集したスタッフ全員に、大正デモクラシーの理想が生きていて、それが読売の歴史を一瞬の光輝で照らしたのである。
 1922年(大正11年)に読売は創刊50周年を祝い、合計7回の記念号を発行したが、当時の状況を『読売新聞百年史』は次のように書いている。
 [その第一回5月23日付で、かつての主筆高田早苗は、「私は文学新聞とすることには成功したが、政治新聞とすることは、多年の努力にもかかわらず思うにまかせなかった。面白いが雑誌のような新聞といわれた。いま松山君の時代になって、従来の長所を失わず、しかも立派なせいじ新聞となって、新聞らしい新聞として、私の夢が実現した」と祝いの言葉を贈っている。高田のユメは松山の願いでもあった。松山の新経営から三年、その希望と計画は着実に実っていた。新聞らしい新聞、政治と言論にも強い新聞とするために、松山は大庭とのコンビで政府はじめ各方面に論戦を挑んでいった。・・]
 新聞が果たす使命の筆頭にくるのは、早く正確な情報を読者に提供するに際して、全体の中で問題の正しい位置づけを行い、読者に信頼される紙面作りをすることだ。東京朝日や東京日々に大きく差をつけられていたが、松山社長時代の読売は最も活気に満ち、新聞の原点を見据えた報道をする新聞であり、日本の新聞史の数頁飾ったことは間違いない。

 
 ★言論扼殺と御用新聞の時代への門出

 
 読売の社長に松山が就任した1918年の末は、米騒動の影響で平民宰相の原内閣が誕生し、大正デモクラシーが勃興し始めた時期で、出版やジャーナリズムが急速に発達した時でもある。1918年に800種だった新聞は2年後に倍加し、雑誌や単行本も続々と出版されたように、これがデモクラシー運動の推進力になった。また、出版ジャーナリズムの目覚ましい発達は、普選運動に続いて無産政党運動に発展して行く。だが、その反動で1919年に陸軍省に情報係が発足し、翌年にこれが新聞班にと改組されていき、ロシア革命の影響を防ごうとするために、警察の治安対策はその姿勢が陰湿化を強めた。
 そうした状況の中で朝日が白虹事件で攻撃され、編集陣の一部が大正日々の創刊を通じて、勢いに乗り報道活動を展開しようとしたが、営業妨害にあって挫折させられたことは象徴的だ。その経過を『日本新聞百年史』は次のように書いている。
 [大朝、大毎両社、が提携して、極力この新聞の発展を妨げた。平素、仲の悪い両社も共通の敵出現となって、手を握ったわけである。第一に、電話の架設から電力の引き込みまで妨害して、工事のはかどりを妨げた。(中略)両社の販売店には厳命して、大正日々の取り次ぎを禁じ、いやおうなく新規販売店の設置に巨額の経費を投じさせる。京都、神戸、和歌山などの隣接地には深夜、新聞専用電車を運転しているが、当局を圧迫して大正日々だけは積ませない。しかたなく毎夜トラック特便をもって、各方面に発送せねばならぬ始末である。四国行きの新聞は船のデッキ貨物となっている。大正日々の梱包は毎夜のように海中に投げ込ませてしまう。大広告主に向かっては、おどして大正口々への広告契約を妨げるなど、至たれつくせりの妨害ぶりであった・・・]
 せっかく新規に発足した大正日々は破綻して、それを買収したのが大本教の出口王仁三郎だが、この大本教もその後の大弾圧で粉砕されている。大正日々の破綻の主因は同業新聞の妨害だが、その背後には国家権力の魔手があって、その後に続く言論弾圧の波状攻勢を通じ、大正デモクラシーを圧殺して行くのである。
 こうして鳥居主筆に率いられて大正日々を創立し、華々しいデビューをしたグループは挫折して、言論活動の封殺におけるモデルケースになった。そして、この事件と関東大震災を契機に言論界の切り崩しが始まって、次の犠牲者になるのが松山の読売であり、続いて日本の新聞全部が完全に制圧され、侵略戦争の宣伝機関化して行くのである。

 
 ★歴史の本質と行間に書かれた新聞社史

 
 松山社長の下に旧朝日の中核が勢揃いし、読売が目覚ましい発展を遂げたとはいえ、1919年から22年にかけての時期の日本は、社会全体が激動に支配され続けていた。東京での普選デモや朝鮮での独立運動に続き、各地の鉱山や八幡製鉄所でストが起こったし、20年3月には戦後の経済恐慌が始まって、物価の低迷と不況の社会情勢が定着していた。
 新聞の社会面は不況や疑獄事件で埋まり、「宮中某重大事件」や安田善次郎の暗殺に続き、東京駅頭で原首相が右翼テロで暗殺され、保守化の中で暗い沈滞した話題が増加した。
 しかも、政治批判を封じるために『過激社会運動取締法』が上程され、この時は審議未了で衆議院を通過しなかったが、この法案は『治安維持法』の先駆けをなすもので、社会 は急速度に血生臭い[昭和維新]路線に傾き、右翼テロルの嵐が日本を包み込んでいく。
 こうした中で松山社長の読売は健闘を続け、発行部数では朝日の1割に満たなかったが、それでも読者は4倍余りも増加していた。だが、[宮中某重大事件]の時の嵌口令批判のために、当局の忌偉に触れて発売差し止めを受け、この年だけでも差し止めは4度目であり、読売は当局に狙い撃ちの標的になっていた。
 だが、加わる圧力にもかかわらず読売は健闘し、紙面の刷新と経営の近代化も実現して、売上げの伸びで新社屋の建設にも取りかかったが、関東大震災の痛手をもろに受けてしまい、松山は読売を手放さざるを得なくなった。
 その時に巧妙に立ち回ったのが正力松太郎であり、政界の支援と財界の資金を背景に読売に乗り込み、批判精神を持つジャーナリストを追放して、腹心の警察官僚で新聞を支配の道具に作り変えたが、買収の背後にあった権力側のエ作については多くの謎がある。警視庁のナンバー2だった正力が社長になり、その資金の提供者は内務大臣だった後藤新平で、関東大震災が大きな役割を演じている。正力が朝鮮人やシナ人の大虐殺に密接に関与し、大杉栄の虐殺に後藤新平と甘粕正彦が絡み、阿片と結ぶ謀略工作の臭気が漂う中で、満洲に延びる人脈が登場するプロセスを通じ、その後の新聞の運命を御用化に導くことを思えば、この動きはメタレベルで意味深長である。

 特に関東大震災を使って正力が試みた中国人虐殺事件で、指導者の王希天を取り逃がしてしまい、渡辺という日本人の偽名を使って逃亡した王には、憲兵大尉の甘粕のコネクションがあった。中国人虐殺に対して中国政府が調査団を派遣し、日本政府が試みた徹底的な隠蔽工作の一環として、読売を正力の隠れ家にする陰謀があり、その背後に番町会グループが存在したとなれば、昭和史は大きく書き改められる必要がある。
 それにしても、『読売新聞八十年史』の大見出しの[松山のばん回策ならず]や、『読売新聞百年史』の[社長松山の改革実らず]などの記述は、正史や社史に特有な情報操作を予想させている。前任者の功績の過小評価や抹殺を通じ、後任の功績を過大に見せる作為だけでなく、権力は強引に歴史を書き直すものだ、か、言葉の上だけで事実の抹殺は難しい。それでも、大きな陰謀を隠蔽する目的のために、より小さな疑惑を積み重ねて砦を築き、重層の迷路を構築するのは常套手段になっている。

 
 ★改竄される歴史と捏造された社史

 
 聖徳太子の時代に藤原不比等が歴史を改竄したり、司馬遷が『史記』に列伝スタイルを持ち込むことで、編年体で記述する歴史を小説風にしたように、歴史を後の時代の者が都合よく書き改めることが多い。その点て新聞の社史も例外ではあり得ないし、読売新聞社 が発行している3種類の社史も、『八十年史』、『百年史』『百二十年史』の記述の差異を分 析すれば、編集時の権力者の心理が解読できる。
 明治政府による皇国史観もその一例だが、歴史は後の権力者に都合よく書き換えられ、その判読自体が一種の謎解きの楽しみを提供する。都合の悪いことは出来るだけ触れずに済まし、嘘の記述や捏造より罪が軽いとして、時におやと思う操作を発見したりするが、それを読み取る眼力を備えた者にとっては、正史の恣意性の解読は高尚な遊びになる。 猪瀬直樹は『土地の神話』(小学館)の中に、[東急が白木屋を正式合併したのは昭和31年1月である。300年の伝統を誇る暖簾がはずされ東急日本橋店に衣替えがなると、五島はさっそく『白木屋三百年史』の執筆を三鬼陽之助に委嘱した]と書いているが、後継者が歴史を書き直すのは世の習いである。
 大震災を契機にして行き詰まった以外に、松山社長の経営上の失敗で破綻したと強調しているのは、読売のねじ曲げられた運命を検討したり、日本のジャーナリズム史を考える上で重要である。組織体の情報の認知が意図的に歪められ、自己中心的に書き換えられていることを、この読売の社史がか物語っているからである。
 この操作は歴史一般に共通していることだが、新しい覇者の登場は歴史の書き換えを伴い、柔軟性や客観性を放棄した形で正史が編纂され、新しい英雄譚が誕生して流布して行く。だから、書いてある内容の中で意味と存在論を読み取って、メッセージをより上位のレベルで解読することが、歴史や正史としての社史を読むノウハウになる。
 新聞の歴史は社史を基礎資料にしているが、社史の行間と交替劇の背後を読むところに、冴えた史眼と呼ぶに値するものがあるし、そういう眼で新聞の社史を読み直してみると、興味深い暗黙知の世界が味わえるのである。 

 
 ★「歴史の検証」 『歴史の書き変えと社史の信憑性』

  
 一般に正史と呼ばれる歴史は作られたものであり、書いた時点の支配者にとって都合のいいように、意図的に脚色されている場合がほとんどで、権力者の自己主張に基づく顕彰碑の一種として、正当性と権威付けを試みた記録になっている。だから、ほとんどの場合、が自己の権威を謳歌するために、前の支配者がいかに良くなかったかをあげつらったり、前任者の功績を過少評価する傾向がある。
 極端な例が大化改新クーデタ事件であり、歴史の隠蔽と改竄を計った藤原不比等は、『古事記』と『日本書紀』で過去の抹殺と歴史の捏造を試みた。『記紀』は天武天皇の正当性を主張するために、天武王朝の時に作られた歴史書であり、正史として王朝に不都合な事実を書き改めて、歴史の塗り替え作業で作られたものである。

 *参照(特に最近の号)➔ ★金王朝の “深い深い謎”    
 

 不比等は音韻学的には史(ふひと)であって、歴史を伝える役割を担う立場にあったが、中大兄皇子(天智天皇)と父親の藤原鎌足の立場で、2人の行為を正当化するために歴史を書き変えている。
 明治時代になって試みられた皇国史観も同じで、歴史を天皇家の都合に合わせて書き直し、孝明天皇暗殺を隠し万世一系の虚構を押し出したが、その伝統は個性の強い社主を持つ企業に影響し、正力家や村山家を持つ読売や朝日の場合は、社史編纂のスタイルにそれが伝わっている。
 日本の企業の社史を取り揃えている点ては、シカゴ大学の東アジア図書館は米国随一であり、そのコレクションを使って比較考証したお陰で、多くの興味深いことを学ぶことが出来た。道楽で得た結論を使って断言して見るなら、日本のメデイアで社史に積極的に関心を向け、関連記事をよく活字にしているものに、大日本印刷で発行する『ねんりん』と雑誌『マネジメントがあり、日経も小島直記の『社史にみる経営思想』を連載した実績を持つので、この辺が社史に関しての日本の権威筋である。

 その点で朝日や読売の社史ほどではないが、他社の社史にも共通性があることを知るために、中興の祖に当たる人物を持つ新聞として、1968年(昭43年)から1976年(昭和51年)までの8年間にわたり、日経を指揮した円城寺次郎社長に目を付け、『日本経済新聞社110年史』のチェックを試みた。
 ジャーナリズムに不可欠な批判精神の脱落があるので、[財界の官報]とか[経団連の機関紙]と形容され、時には『野村新聞』と揶揄されたりする日経は、『日本に異議あり』(講談社)で佐高信に[日本切り抜き新聞]と決めつけられている。しかも、[ジャーナリズムの批判精神を捨てたが故に、急成長したのではないか]と勘ぐられている。
 これは積極路線を推進した円城寺次郎社長が、やり手経営者と政府の諮問委員の2足の草鮭を履き、財界活動をし過ぎる新聞人と言われたことに、毀誉褒貶の入り交じった評価の原点を持つからである。
 日経の社史は1986年(昭和61年)に出版されており、「リクルート事件」で辞任した森田社長時代に出て、グラビアに合弁事業の契約をした森田社長の写真が、見開きの2頁を使いカラーで掲載されている。そして、ダウ・ジョーンズ社(DJ)の協力で森田社長が、DJ社のW・フィリップス会長と協定に調印とキャプションに書いてある。だが、この契約を始め日経の躍進の功績のほとんどは、社史の記述において巧妙にカットされているが、円城寺社長時代のものであることは杏定できない。
 政治に深入りして佐藤首相のブレーンになり、「二木会」の有カメンバーだった円城寺の振る舞いは、ジャーナリストの心構えとして失格だったが、日経の経営者としては中興の祖だったのは事実である。だから、当時の事情に詳しし日経OBに取材を試み、インタビューで真相の一端を引きだそうと試みた。
 日経のケースを通じて社史の持つ性格を理解し、朝日や読売の場合はもっと酷いと気づき、歴史の復元は一筋縄では行かない点に関して、再確認する上で参考にして頂ければと思う。なお、対談の相手の名前は仮にAさん(
*初代日経ワシントン支局長・大原進)ということで、実名を伏せたこのインタビューは全体の一部である。
 
 ★都合の悪い過去は隠蔽したがる歴史の傷痕

  
F 社史とか正史を読んでいてよく分かることは、それを編纂した時に権力を握っていた者に、都合のいしことが拡大されて書いてあり、都合の悪いことは上手に粉飾されるとか、黙殺されているケースが非常に多い。色んな新聞社の社史を読んで見だのだが、歴史が権力者の手前味噌の固まりなのと同じで、新聞社の社史も恣意的だと言えますね

A 個性が強くて自己主張したがる社長だと、得てしてそういうことに成りやすいわけです。誰だって失敗や不名誉は記録に残したくないから、どうしても手柄は大きくなりがちになるし、他人の功績まで自分の手柄にするのが人間なんだな・・・。

F 正力が読売の中興の祖であるのは確かにしろ、『読売新聞八十年史』、『読売新聞百年史』、『読売新聞発展史』のどれを取っても、同じようなトーンで正力を称賛しているし、松山社長はダメ男になっているんですよ(笑い)。

A 一番最初に書いて定着した歴史が、それ以後の路線を決めてしまうのです。

F しかも、日本の。ジャーナリズム史にとって無視できない、読売争議についてはほとんど触れておらず、正力にとっては夕刊発行や大阪進出の方が、読売争議より危機の度合が高かったと書いてある。要するに、読売が発展する上での勧善懲悪の物語が、正力にとって認めることができる歴史であり、戦時中に軍国主義を煽ったことについては、表面的な記述しかしておらず、その責任を反省する気配はほとんどありません

A 戦時中の日本の新聞は全部が右向け右で、勢揃いして軍国日本を賛美したのだから、それを徹底して反省するのは難しいし、社史でその点はとても触れ得ないでしょうな。反省ばかりしていられないというのも、現場で忙しくやる者の正直な気持ちだから、適当に粉飾せざるを得ないのも確かでしょう(笑い)

F それと共に社史を読んで気になったのは、刊行された時の社長の手柄が強調され過ぎて、本当に貢献した人のことを余り触れてない。日経の社史が森田社長時代に出たためか、中興の祖として財界で誰でも知ってしるのに、円城寺社長の功績が余り書いてない。
その点を同じ時期に仕事をしていた立場で、具体的にコメントして欲しいのだが、先ず円城寺という人は日経にとって、どんな具合に評価できる人物でしたか?

A 古い話から始めなければならないが、彼は日経にとって初代ニューヨーク特派員であり、戦時中とトいか戦争が始まったために、交換船で日本に帰って来ているわけです。しかも、表面上は英語を喋らない姿勢を貫いていたが、彼ほどアメリカ人に敬愛された人物は少なかった。あなたは財界べツタリだと批判するだろうが、一万田スクールの3羽鳥とも呼ばれていたし、経済部長の小汀利得に可愛がられたので、トントン拍子に出世して日経のプリンスでもあった。まあ、カンの良い幸運な経営者として絶品でしたが、今では、若い社員で名前も知らない人がいますよ。怪しからんと怒っても始まらないが・・・

F 社史で見ると彼の業績はコンピュータの導入で、データ・バンク構築での貢献が主体だと書いてあるが・・・

 
 ★社史が事実さえ記録しない罪

 
A とんでもない!コンピュータの導入なんてどこの社でもやったし、そんなものは部下が担当することであり、社長としての円城寺の最大の貢献は、日米間の関係を確立したところにあった。『日経ビジネス』や『日経サイエンス』のように、マクグローヒル社から翻訳権を手に入れたり、ダウ・ジョーンズと特別契約をして、事業面での関係を緊密に保ったこともある。また、ノーベル賞を受けたサミュエルソンやレオンチェフに注目して、彼らがノーベル賞を貰う前に日本に連れてきた点で、目のつけ所の良さは特筆に値しています。それくらいは社史が記録に残してもいいのに、それがどういう訳か完全に省かれているんですよ。

F 円城寺が君臨した時は日本経済が上り坂だったから、色んなことに手をつけて発展 の契機を作っただろうし、何をやっても成功した時代かも知れない。それで、積極的な経営路線に勢いがついたのだろうが、目経の多角経営を推進したやり方は、ジャーナリズムであるよりメディア産業を育てる上で、一種のパイオニアだったと言えそうです。
 新聞は経営第一よりも理念や理想が必要だから、経営面での功績は私は余り評価しないが、ジャーナリストとしての円城寺はどうだったのですか?

A 経済部長としてそれなりの見識を持っていたし、後で日本経済センターなどを作ったように、先を見通すやり手だったのは確実です。

F それで、正力が読売のために催物を企画して、営業の面で成功しているのと同じように、彼も何か特別な企画でもやらなかったのですか?

A その辺のことはよく覚えていないが、彼はアマチュアとして美術の鑑識眼がありオランダで一番有名な画家のレンブラントの絵を借り出して、日本に持ってきたような話もありました。あれなんかは経済交渉でヨーロッパに行った時に、ついでに持って来たということだった。そんな話は幾らでもあるが、彼が何といっても人物だったのは、勲一等の勲章を断わったことでしょう。

F その話は夏目漱石の文学博士の辞退と似ているし、叙勲を拒絶して石見の人として死んだ森林太郎と同じ動機なら、その心意気は大いに評価していいですね。
 勲章が欲しくて社長や会長の座にしがみつく、財界の老害族たちに対しての教訓として、木端役人に尻尾を振るなという意味で、それくらいは社史に書いたらいいのに・・・。

 
 ★世代の変化で断絶する意識

 
A そんな叙勲は個人の問題で大して意味はないが、マグローヒルやダウージョーンズとの提携交渉は、彼が精力的にやって実現したのであり、今日の日経の発展への布陣になっています。それだのに、彼が死んだときの日経の死亡記事でさえ、中国やソ連のことばかり書いてあって、アメリカに関しては一言も触れていなかった。
 彼が社長になって最初に取り組んだのがマグローヒルとの提携の話であり、向こうが対等出資と主張したのに対して、日経が51%を握ることで押し通したし、最初の1年目から黒字にしている。それにダウ・ジョーンズと広告提携をやって、日経の国際化を実現しただけでなく、日本経済研究センターために大貢献しているのに、そんな事実もあの社史には全く書いてないんだな。

F 世の中なんてそんなものと違いますか。それに日経は社史に対して大きな発言をしていて、各社の社史について色んなことを言っているのに、自分の所の『日本経済新聞社110年史』の出来具合は、実にお粗末な印象を与えるのは皮肉ですね。

A われわれOBがあの社史を読んだ感じでは、あんな無味乾燥な内容のものしか作れない所に、現在の日経の不甲斐なさが象徴されている。

F 果たして、円城寺路線の影響なのかは分からないが、倫理観に欠け何が重要かの識別力に乏しく、広告主や権力者に追従するだけという感じであり、日経人の主体性の無さが目立っていました。また、後継者の育成が指導者の資質という点でも、その欠陥がずっと続いているみたいであり、出世した連中には碌な人材がいなかったと思います。

A いつもながら手厳しい批判だが、今の発言はやけに激しいじゃないの・・。
 それに最近のことになると愚痴に聞こえて嫌だが[明治は遠くなりにけり]という言葉と同じように、何となく円城寺が築いた時代は去った感じで、ダウ・ジョーンズとの関係もギクシャクしているらしい。だから、アメリカ側は全くけしからんといった調子で、日本の役人と同じ口調で相手を見下し、[経済大国日本]という鼻息ばかりが強い。しかも、若い人たちがアメリカさんと一緒にやったのでは、出世の妨げになると考えるようになり、そんな判断で経営するのがいいと考えるなら、われわれ老兵は消えて行くしかないね。

F しかし、口をつぐんで消えて行かないで欲しいですね。

A そう言われると、黙っていられなくなる。挑発された勢いでこの際つけ加えてしまうと、われわれの後輩たちが作った社史にしろ、あんなものなら出さない方がマシだというのが、わが日経の情けない社史の実態なのです。

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 第一章  <了>

 第二章『読売王国を築いた巨魁の奇吊な足跡』
 へ <続く>。

 




●朝日と読売の火ダルマ時代(4) ― 第一章 <続>
 
 ★大阪の朝日と東京の読売 

 
 大阪で1879年(明12年)に創刊した朝日は、報道を中心にした小新聞として始まり、最初は4頁で印刷は3000部だったが、商都の情報紙として着実に発展している。
 朝日が発展したのは社主の村山竜平の経営手腕であり、そのことを田中浩は『近代日本のジャーナリスト』(御茶の水書房)の中で、次のように分析している。
  [村山竜平は1881年(明14年)木村平八から朝日新聞を譲渡されて以来、一貫して新聞経営に専念し、同紙を日本の有力紙に発展させた。新聞を一つの営利事業として確立した最初の人物ともいえる。 (中略) 村山は自らの理念的新聞像を高く掲げたり、あるいは新聞の営利性を強調して、率先指導するタイプの経営者ではなかった。彼は自らはくを語らず、様々な人材を使いこなし、組織化することによって朝日新聞を形成していったのである」
 こうして大阪で始まった朝日は1883年(明16年)に、発行部数で全国第1位を達成したし、1888年(明21年)に東京の[めざまし新聞]を買収して、それを改名して京橋で東京朝日の創刊が実現した。だが、朝日は新聞としてあくまで大阪本社が主体で、社説も大阪と東京では異なっていた。また、1940年(昭15年)に全体が朝日を名乗ったが、戦時下の統一まで縮刷版も二本立であり、1942年(昭17年)になって政治の中心の東京版だけになっている。
 それに対して、1874年(明7年)に東京の虎ノ門で創刊された読売は、一般庶民や婦女子を対象に娯楽を売物にし、口語体で総ふりがな付きの文章を持つ新聞として、日就社という会社が印刷を開始した時に、読売新聞としての歴史が開始している。
 読売という新聞名を決める前に議論百出で、『通俗新聞』、『ふりがな新聞』、『やわらぎ新聞』、『おみな新聞』といった具合であり、いかにも庶民向けのアピールを求めたかは、このエピソードが歴史を生き生きと伝えている。
 読売は一時期、全国一の発行部数を誇ったが、『読売新聞八十年史』にある記述によると、1889年(明22年)に初代の子安峻社長に替った本野社長は、月に二、三度しか出社しなかったようで、経営的には一発屋に近い体質を持っていた。
 それでも、教育者の高田早苗を初代主筆にした読売は、彼の持論の[社会に先立つこと一歩なるべし、二歩なるべからず]に従い、漸進的な姿勢で大衆文芸を中心にして、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴などに執筆させ、文芸物で売る大衆新聞作りに専念した。
明治の前半期の新聞には二つのタイプがあり、一つは政治的な主張を前面に押し出したので、大新聞(おおしんぶん)と呼び慣らわされ、主筆の大記者の論説を売り物にしていた。そこに陣取って格調高い意見を書いたのは、新政府に仕えるのを潔く思わない幕臣を始め、自由主義者や民族主義者などが中心だった。だから、反政府の論調や権力の不正追及を主体にして、厳しい批判の矢を権力者に浴びせたので、大新聞に対しての弾圧は非常に苛酷になった。山県有朋は新聞条例を使って徹底的に締め上げ、言論の取締りではなく撲滅だと言われたが、発行停止を始め罰金や入獄で言論攻撃をしたために、多くのジャーナリストが刑務所暮らしを体験している。
 明治半ばまでの大新聞としては、前島密の『郵便報知』、福沢諭吉の『時事新報』、島田三郎の『横浜毎日』、秋山定輔の『二六新報』、中江兆民の『東洋自由新聞』、犬養木堂の『民報』、末広鉄腸の『曙新聞』、陸褐南の『日本』、徳富蘇峯の『国民新聞』、福地桜痴の『東京日々』などがあり、紙面を使って言論活動を賑やかに展開した。
 それに対して別のタイプの小新聞(こしんぶん)は、ニュースや世間の噂話を中心に編集され、続き物の講談や小説で商業主義を指向した。大阪の朝日や東京の読売は共に小新聞だったが、マイナーという意味を持つ小新聞の仲間には、成島柳北の『朝野新聞』、黒岩涙香の『万朝報』などがあった。
 大阪で生まれた朝日と毎日は東京日々と共に、明治の半ば頃の日本の3大新聞を構成したが、東京の3大紙は『東京日々』、『朝野』、『報知』の各紙である。だが、日露戦争の直前に『二六新報』が急伸して、それを『万朝報』と『時事新報』が追ったが、[弱きを助け強きを挫く]を掲げた『二六新報』は、桂内閣と右翼の暴力で潰されてしまい、その勢いを使って日本は日露戦争に突入した。

 
 ★東京に乗りこんで制圧した[朝日]の路線 

  
 戦争は常に巨大なニュース性を提供するので、日露戦争は読者の関心を大きく掻き立て、販売部数の飛躍的な発展をもたらせた。だが、この戦争は政府内部にも意見の分裂が起こり、それを反映して言論界も混乱して分裂した。対露開戦を主張したのは東京朝日を始め、 『時事新報』、『日本』、『国民』、『大阪毎日』などであり、『万朝報』、『毎日』、『東京日々』などが開戦反対を論じ、途中で開戦論に転じた『万朝報』から分裂して、内村鑑三たちが 『平民新聞』を旗揚げしている。
 この頃の東京朝日の主筆は池辺三山であり、熊本生まれの彼は[肥後モッコ]の国権派として、杉浦重剛を起用して論説を書かせたし、好戦的な論調で強硬路線を推進した。読売も強硬論の仲間に加わっていたが、文芸物を得意にする弱小新聞に過ぎず、その影響力はほとんどないに等しかった。
 しかし、社会部長に島村抱月や徳田秋声を置いて、自然主義文学を推進した伝統の影響で、文化新聞としての雰囲気を維持しており、記者だった青野李吉は『ある時代の群像』の中に、[この社の新聞は日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか科学とか婦人問題といった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払っていた。だから、Y新聞といえば文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた」と書いている。
 日露戦争が終わると新聞の低迷が始まったが、それは言論の封殺と緊密に結びついていた。日露講和条約に反対した焼き討ち事件や、政府批判の急先鋒の平民新聞を潰して、大逆事件をデッチ上げる準備をするために、政府が徹底的な弾圧政策を進めた状況を、春原昭彦は『日本新聞通史』(新泉社)に次のように書いている。
 [政府の新聞取締り政策もこの時期に完成した。明治42年(1909年)5月、政府は 『新聞紙法』を改正公布したが、これは従来の新聞紙条例を改悪し、発行保証金を倍額に 引き上げ、明治30年に廃止された行政処分による、発行禁・停止条項を復活するという苛酷な法規だった。新聞関係者はその後この新聞紙法の改正を求めて、繰り返し議会に改正案を提出するが、華族・絶対主義官僚を中心とする貴族院は、そのつど改正案を否決し、日本が第二次大戦に破れるまで、この新聞紙法は長く言論界を支配してきたのである」
 日露戦争の後の売上げの低落をカバーするために、各社は新機軸を打ち出さなければならなかったが、一部には悪徳行為に走る記者も輩出した。
 山本武利は『新聞記者の誕生』(新旺社)の中に、[一般人に厳しく同業者の罪悪に甘いというのは、この頃顕著になった。新聞社間の企業競争は激しかったが、それと同時に同業者意識も高まって、他紙を仲間と見なしてかばい合い、なるべく業界内のスキャンダルを報道しないという習慣も定着してきた]と書いている。
 小新聞のまま東京の地方紙に留まっていた読売は、文芸路線で成功して新主筆の竹越三叉を迎え、夏目漱石にも執筆を懇願したが断わられている。また、小新聞から中新聞にと展開を遂げた朝日は、自己の理念的な新聞像を持たない村山に率いられ、大新聞と小新聞の長所を生かす路線で、マーケットの拡大を第一目標に躍進を続けた。
 そして、夏目漱石が東大教授を辞めて朝日の社員になり、『虞美人草』の連載を開始するまでになった。また、この頃の[東京朝日]の文芸部員の中には、ロシア語に堪能な二葉亭四迷、がいた上に、校正部には詩人の石川啄木も在籍していた。
 それに加えて、[抵抗の新聞人]として戦時中に令名を高め、『信濃毎日』に桐生悠々ありと言われた若き日の桐生が、大阪通信部員の肩書きをもって東京で働きながら、優れたジャーナリストから薫陶を受けていた。晩年になって書いた手記の中で桐生は、[『大阪朝日』には鳥居素川や西村天囚という大スターが、二つの覇権を競っていたのに対して、『東京朝日』には主筆の池辺三山が君臨し、社会部長に渋川玄耳、昼の編集局をとりしきる整理部長に佐藤真一、夜の整理部長が弓削田精一、そのもとに杉村楚人冠、鈴木文治、松崎天民、中野正剛、美土路昌一、安藤正純といった若いそうそうたる論客が、デモクラティックな社風を形づくっている。半井桃水は社会部に席がありながら社に顔を出したことがなく、ロシア語に精通する社会部在籍の記者だった、長谷川二葉亭や大庭柯公からロシア語の手ほどきを受けて、ゴーリキーが読めるようになった」と回想している。
 これは充実したスタッフを持つ東京朝日が、絶頂期を迎えていた時代の光景であり、それに対して読売は低迷の中で喘ぎ続け、社主の本野子爵家の私有財産だったので、放漫経営のため公称5万でも実売は3万部だった。明治が幕を閉じた段階での新聞の勢力争いは 『東京朝日』、『東京日々』、『時事新報』の順であり、『中外』に続いて『読売』は9位に位置していた。

 
 ★政府と新聞の対立と大正リベラリズム 

 
 大正に入ると東京の大新聞が次々に姿を消し、大正リベラリズムで新聞界に大きな変化が起きた。ストリンドベリーに造詣の深い柴田勝衛が、新人の発掘に対して積極的に動いたので、読売のプロレタリア文学は文芸復興の象徴になる。そして、権力者から反体制の新聞だと睨まれた読売は、数年後の山本内閣の時に陸軍が買収を試み、御用新聞にしようと考える対象にもなったが、経営は低迷して苦しい状況に陥っていた。
 右翼的な論陣の国民新聞の伊達源一郎編集局長が、読売の主筆に送り込まれて内部の混乱した点について、『読売新聞八十年史』は次のように書いている。
 [軍部から財政的援助をうけ、宣伝機関として動くようになると、文学新聞の看板が邪魔になりこの伝統を潰そうとする傾向が、伊達主筆とその一派に強くなり、かくして、伝統を守ろうとする社員との対立、が深刻になってきた。その頃は日本の思想史上の転換期で、左翼思想や共産主義運動が、各新聞社内にも自然発生的にはいりこんできて、読売はその最先端のように見られた。伊達一派の軍国主義的な色彩が濃厚になり、伝統派を次第に圧迫して行くと、伝統派はこれに対抗して、ストライキ計画の運動を展開した。こうした分裂騒ぎの中でストライキ計画が起き、その混乱で本野家は株を財界人に売却したので、郷誠之助などが結集する工業倶楽部が、読売の新しい大株主として登場した。1914年(大正3年)に起きたシーメンス事件の時には、新聞があげてこの収賄事件の追及に乗り出したので、政府弾劾の世論が高まって山本内閣は瓦解した。また、1916年(大正5年)に誕生した寺内内閣は、警察中心の弾圧政治で民衆運動に対抗し、専制支配に不利な思想を徹底的に弾圧して、言論や出版に対して厳しい取締りを行った。
 東京と大阪の一本立て路線の朝日の場合は、東京では池辺三山が保守的な路線を取り、大阪では島居素川が進歩主義を売り物にして、大正リベラリズムの動きに対応していた。だが、池辺派の松山政治部長と反対派の渋川社会部長の対立が、朝日全体で西村天囚派と鳥居素川派の抗争に拡大して、進行する第一次世界大戦の中で混乱を続けた。
 同時に、世界大戦で海外ニュースの比重が高まり、朝日は青島作戦に美土路記者を社会部から派遣したので、この時期に新聞社の社会部が充実した。そして、長谷川如是閑を始めとした社会部長が生まれ、社会問題への組織的な取り組みも本格化して行く。
 第一次世界大戦が進展してしる時代性の中で、大阪朝日は河上肇の『貧乏物語』の連載を始めて、読者に絶大な感銘を与えたために、ロシア革命の影響を恐れた寺内内閣は、警察力を動員して言論弾圧を加えた。強圧的な寺内首相に対して鳥居主筆は、「妖怪の出現」と決めつけて対決の筆を取り、大阪朝日と政府の対立は激化の度合を強めたのである。

 
 ★朝日を痛打したと白虹事件 

 
 1918年(大正7年)にシベリア出兵を当て込む買い占めで、米の値段が暴騰したために富山県で打ち壊しが起き、たちまちのうちに全国に米騒動が広がった。警察だけでは足りないので軍隊まで出動したために、寺内内閣は世論の激しい攻撃を恐れて、ニュースの掲載を全面禁止にしたので、各地で新聞記者たちの抗議集会が聞かれた。
 大阪ホテルで開催された関西記者大会では、内閣弾劾と言論擁護を決議したが、会場にいた記者の一人、が[白虹が日を貫いた]と叫んだとして、それを大阪朝日の夕刊が記事に取り上げたので、それが白虹事件を誘発することになった。
 [・・・食卓についた来会者の人びとは、肉の味、酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持ったわが大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいているのではないだろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆候が、黙々として肉叉を動かしている人びとの順に雷のように閃く・・・]
 寺内首相の意を受けていた後藤新平内相は、かねてから大阪朝日の弾圧を狙っていたので、大阪府知事から内命を受けた検察や警察が、朝日の記事を監視していた時でもあり、警察部新聞検閲係長はこの文章を読み、内務省警保局に連絡して発売禁止処分にした。しかも、記事の内容が内乱の起きることを意味し、皇室の尊厳を侮辱したと難癖をつけて、政体を変改し朝憲吝乱事項の記載容疑で、大西記者と山口発行人を検事局が起訴した。

 普通の発禁なら取り調べは区検の検事だが、この時は地検のベテラン検事に担当させたように、新聞の発行停止を狙っているのは明白だった。朝日はこの件に関して報道しなかったが、毎日がスクープしたので右翼が騒ぎだした。
 そして、3日後に村山竜平社長が中之島公園で右翼に襲撃され、人力車を引っ繰り返した暴漢たちは、引きずり出した村山をフンドシで木に縛り、[天に代わって国賊を誅す]と
書いた紙を張りつけたが、こうして新聞への右翼テロの時代が始まった。
 この辺の事情と時代性の関係については、[この頃から現れた国粋運動が新聞にホコ先を向けるようになって、暴力ははじめて質の悪い野心や私人の道具となり、ついには愛国や尊皇を売り物にして新聞の欠点を探し、金儲けの道具とする悪質暴力の横行まで見るようになった。(中略)
 彼らの得意先は新聞社であった。新聞の誤報や校正の誤りを探し出しては、文句をつけて恐喝するのである。新聞が応じなければ暴力を振るって多少の金銭以上の損害を与える。弱腰の社は面倒を恐れていつも若干の厄払い料を提供、これらが遂には競争相手を倒すために、逆に彼らを利用する堕落幹部さえも現れるに至った]ということを、『日本新聞百年史』(百年史刊行会)は記録している。

 こうした時代の風潮に押し流された朝日は、新聞を潰すつもりでいた政府に恭順の意を表して、村山社長が辞任して上野社長に交替する。その結果、鳥居素川を始め松山忠二郎、長谷川如是閑、大庭柯公、大山郁夫、丸山幹治、花田大五郎などの50人余りの記者が朝日を去り、鳥居派に代わって西村天囚派が復活したが、論客を一挙に失った朝日の紙面は目に見えて低下した。こうして、政府は朝日を潰すことは出来なかったが、批判精神を持つ編集部が保守派に入れ替わったので、体質の変化と牙抜きに政府は成功した。
 西村派の復活が緒方竹虎や中野正剛を励まし、福岡出身の二人は古島一雄を通じて玄洋礼に繋がり、朝日は右翼の黒竜会と密着することで、海外侵略を支持する路線を取るようになる。それは大陸経営を旗印にした膨脹主義であり、昭和ファシズムと呼ばれた軍国路線への追従であった。

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  第一章   続く。






●朝日と読売の火ダルマ時代(3) ― 第一章  
 
 ●第一章『朝日と読売の運命的な競合と一体化の軌跡』
  ― 社史で読むメディアの半生と白虹事件の教訓 

  
 ★販売戦で新聞戦争の雌雄を決める虚像 

  
 日本の新聞としてトップの地位を手に入れるために、血みどろな抗争を続けた朝日と読売は、発行部数では読売が朝日を抜き去って、1000万部という大台の水準をいち早く記録した。「読売と名がつけば白紙でも売ってみせる」と胸を張った務台販売部長に率いられ、強引な押し売り路線で発行部数を伸ばし続けた読売なら、第三者にスマートに見えるスタイルを売り物にする朝日を抑え込み、発行部数の競争で新聞業界のトップに立つの               は、それほど難しいことではなかった。なにしろ、発行部数はあくまでも印刷した量であり、記事を読むために購入した部数を示すものではないからだ。
 だから、発行部数という数字は水ものであり、印刷した部数は販売部数と直結しておらず、この世界には[押し紙]という奇妙な習慣がある。それは販売店に強引に押しつけて引き取らす新聞で、一般に発行部数の一割前後に達しているから、公式に発表されている発行部数の実態は、実際に購読された数字を意味していない。
              
 新聞が資本主義的に経営されるようになり、広告が主要な収入源になるに従って、発行部数の多さが広告料金の決め手になるし、★広告収入が少ないと経営が安定しなくなる。購読料は経費の一部をカバーしているに過ぎず、新聞社の売上げの大半は広告収入に依存しており、広告代理店が紙面を買い切っているために、現在では★電通などの大手の業者の発言力が大きく、広告する側の影響は拡大の一方である。
 そのために新聞の販売競争は熾烈をきわめ、組員を使って展開して来た販拡のノウハウは、新聞代に匹敵する景品の石鹸や催物の入場券(*ブロガーの体験では、商品券、ビール券、電気毛布・・・朝日)を使い、3カ月だけの購読で結構だからと言って、発行部数の拡大を目ざし購読者を勧誘したりする。こうした手口は時には暴力沙汰に結びつき、販路拡大をめぐる新聞戦争と呼ばれているが、業界の不祥事については報道しない体質のせいで、この種の事件は新聞記事として取り上げられない。
 このような苛酷な部数増大を目指した競争が続き、最後に生き残ったのが読売と朝日の2大紙で、毎日は競争に後れをとって脱落し、経営的にも非常に苦しい状況に陥っている。販売部数が朝日や読売の半分以下という、毎日やサソケイが計上する広告収入は、おそらく10分の1だろうと言われているのであり、発行部数は広告収入を支配している。
 部数の多さが経営内容に大影響を与えるので、この経営神話にトップが取りつかれているため、朝日と読売は長らく泥試合を続けて来た。また、日本には真の意味の財団が存在しないので、巨大な影響力と商社的な多角経営を営む新聞社は、催物の主催や後援にまで手を染めており、それが販売政策のバックアップになっている。

 このような言論よりイベント指向を通じて、売上高の拡大を追求している大新聞の姿勢 は、たとえ日本一の新聞という形容を使うにしろ、世界的に見ると特異な体質といわざる を得ない。しかも、ジャーナリズムとは無関係な子会社を抱え込み、日本的な系列体系を持つ関連会社を支配して、営利事業や天下り先を確保しているというのは、どう考えても公共的な報道の仕事とは整合性を持たない。
 それにしても、日本という共同社会の在り方や理想と結びつく、理念に支えられた言論活動やビジョンと無関係に、営利事業を通じて利権を拡大する新聞社が、その一方でメデイアを通じてビジネス行為を営み、発行部数で日本一の新聞を誇って良いものだろうか。
 早版の★交換による画一的な紙面作りをしたり、景品や価格競争をしている実態が背景にあるから、日本一の新聞という肩書きを誇っても、誰もそれを額面通りに受け取らないはずだ。なぜなら、世界の常識に従えば質と量は反比例するし、クオリテイ紙は適正部数の枠と結びつくものであり、個性的な論調と報道姿勢が決め手になるが、日本ではこの原理は全く機能していないのである。

 
★世界における一流紙の条件

 
 フランスの一流紙といえばルモンドであり、その発行部数は40万部前後であることは、毎日印刷されている発行部数の数字が示している。それに較べてフランスで最大の部数を持つ、パリ・ソワールはその五倍の発行部数だが、誰も一流新聞であると評価していないのは、新聞の価値が記事の質に関わっているからだ。しかも、記事の価値はコメンタリーや解説にあり、ニュースとして事実を幾ら詳しく報道しても、その背後にある全体像を正確に捉えていないなら、ページ数だけが多い質より量の報道に過ぎない。
 アメリカの場合も似たようなものであり、ニューヨーク・タイムスやワシントン・ポストは大衆紙ではなく、発行部数は100万部に達していなくても、世界中で一流紙として評価されている。それはニューヨークやワシントンという地方都市に陣取り、コミュニテイに基盤を持つ地方の有力紙として、100万部前後の発行部数を確保するだけでなく、世界に向かって十分な目配りをしているために、国際レベルでの読者を確保しているからである。 世界的という意味では更に凄い新聞があり、その多くはアングロサクソンが掌握しているが、その代表はファイナンシャル・タイムス(FT)とインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(トリッブ)だ。飛行機旅行をしていていつも嬉しいのは、飛行機の中でこの二つの新聞が配られることであり、両紙を読んでいる限りは地の果てに行っても、世界の動きを掴んでいるという安心感を持てる。これに加えてマンチェスター・ガーディアンかルモンドがあれば、世界のことは確実に抑えていると感じるが、ウエーブ(情報)を支配することが決め手になるとして来た、アングロサクソンの情報感覚の威力は絶大だ。ニューヨーク・タイムスとワシントン・ポストの記事を基礎に、独自の取材陣の観察眼を加味して記事を構成し、パリで編集したものを世界各地で印刷して、世界を股にかけて活躍するアメリカ人や、各国の真のエリート層を読者に持つトリッブは、僅か20万部ほどの発行部数にもかかわらず、押しも押されもせぬクォリテイ紙の王者である。
 毎日コミニュケーションズの江口末人元社長のお陰で、その日のものが東京で読めるようになったが、数年前までは帝国ホテルのキオスクに駆けつけて、前日に香港で印刷されたトリッブを読むという、実に情けない毎日をくり返したものだ。こんな酷い情報後進国としての日本の姿が、僅か7年前まで本当に続いていたのであり、日本のエコノミストのほとんどは、せっかく人手できるのにFTやトリッブを読まず、東海岸版のウォールストリート・ジャーナルではなく、香港のアジア版でアメリカ経済を推察し、中には日経しか読まないのが経済大国のトップたちである。
 世界の第一線で活躍するプロにとっては、吟味と選択を施されたFTやトリッブの記事は、ギリギリの所まで引き絞って纏め上げられた、行間に薀蓄を含む洗練された文章を通じて、締まった文体の量より質の醍醐味が楽しい。そういった意味ではマンチェスター・ガーデイアンも流石であり、こんな冴えたコメソタリーの執筆者と同時代に生き、素晴らしい記事を通じて出来事の意味を学び、歴史を捉える喜びを味わうことが多い点で、発行部数の少ない新聞の珠玉の輝きを実感する。その点で読売が1000万部を越えたこと自体が、きわめて異常な事態だと考えるべきであり、新聞が巨大な発行部数を誇って競い合うことは、他の文明諸国では類例の無い特異な現象である。

 
 ★官報が死語化した日本のジャーナリズム

 
 これは『日本が本当に危ない』(エール出版)で紹介したエピソードだが、ある国に招かれて講演をした後で日本に立ち寄り、英文日経の★大原編集長(*2月1日の記事参照)を訪ねた時のことだ。もう15年以上も昔の話になるが、開放的で賑やかな雰囲気を好む編集長は。「藤原さんが特ダネを持ってきたから集まれ」と記者たちに声をかけ、ビールを飲みながら私の話を聞くことになった。そこでよその国の報道や情報関係者を相手に、日本の新聞の品定めをした話を紹介して、「朝日は官僚的なエリートの官報、毎日は社会派の官報、読売は無学な貧民の官報、サンケイは中小企業の親父さんの官報、日経は財界の官報だと説明した」と喋ったところ、「カンポウ、カンポウつて言いますが、どうして新聞が漢方薬と関係があるのですか」と若い記者が質問したので、皆が唖然として顔を見合わせたことがある。
 まるで嘘のように思える驚くべき現象だが、これは実際に身をもって体験したことであり、官報という言葉が死語になりかけているのだ。ジャーナリズムの世界で生きる以上は、たとえ古くても官報という言葉は常識であり、そのような素養を持ち合わせないで記者に なれば、報道の仕事では責任を果たすのが難しくなる。そして、そのような自覚を持ち合わせないならば、高度な公器性を認められているジャーナリズムは、自らの信用と最低基準の品性を損ない、堕落と腐敗が蔓延するのが当然になる。
 かつて大蔵省の主計局を訪れた時に、机の脇にマンガ週刊誌があるのを目撃して、それまでエリートぶる彼らに対して抱いていた、いわれのない敬意が雲散霧消した経験があり、それ以来は電車の中でマンガを読む大人に対し、私は現代における賎民だと考えることにした。プライベートな場所で個人は完全に自由だが、敬意を払われる社会的な立場にいる人は、公的な場で己を律する責任があり、それで権威は保証されると考えるからである。
 世界の主要5大紙と社説交換の実績を持ち、世界の「トップ10」新聞にノミネートされた朝日は、量よりも質という路線を看板に掲げてきた。読者も朝日の先輩が築いた伝統を理解し、総合性と批判精神に支えられた姿勢に期待して、読者であることを誇りに感じる者も多い。これも良い意味での伝統が権威と結びつき、読者の信頼をかちとった結果であるが、信頼を損なうような軽率な行為を犯したり、信賞必罰の厳しい自己管理と規律が崩れれば、信頼も権威も雲散霧消してしまう。
 だが、敗戦から50年という時間の経過を通じて、硬直化して官僚的になった日本の社会は、豊かさの中で理想やチャレンジの精神を失い、制度疲労が新聞界にも反映するに至っている。しかも、単なる腐朽化や制度疲労にとどまらず、規範溶解によるアノミー(連帯の消滅)に至れば、これはどうにも救いようがない。
 それにしても、朝日の紙面が急速にかつての特性を喪失して、冴えた批判精神に代わって迎合主義が台頭し、〔朝日の読売化〕と形容できる状況が目立つが、これは幼少期の獲得形質の影響ではないだろうか。また、獲得形質についての考察をするためには、歴史を鏡に使った診断が不可欠になるのである。

   第一章  続く。 

 



●朝日と読売の火ダルマ時代(2) <目次>。
 
 <目次>
 
 【まえがき】― *既紹介


 危機的な日本の現況/監視役から第五列へ変身したメデイア/タブーの壁と新しい挑戦の津波

 
 【第一章】 『朝日と読売の運命的な競合と一体化の軌跡
  ―社史で読むメデイアの半生と暗黙知の教訓―

 
 販売戦で新聞戦争の雌雄を決める虚像/世界における一流紙の条件/官報が死語化した日本のジャーナリズム/大阪の朝日と東京の読売/東京に乗りこんで制圧した朝日の路線/政府と新聞の対立と大正リベラリズム/朝日を痛打した白虹事件/朝日と読売の捩じれ関係/言論扼殺と御用新聞時代への門出/歴史の本質と行間に書かれた新聞社史

 【歴史の検証】 歴史の書き換えと社史の信憑性
都合の悪い過去は隠蔽したがる歴史の傷痕/社史か事実さえ記録しない罪/世代の変化で断絶する意識

 
 【第二章】 『読売王国を築いた巨魁の奇怪な足跡』
  ―正力が確立した鉛筆ヤクザ路線の原体験―

 
 読売の中興の祖・正力松太郎社長の登場/大正デモクラシーの扼殺と昭和ファシズムヘの道/正力の読売支配の背後にいた権力人脈/関東大震災と朝鮮人大虐殺事件の点と線/正力による宿敵の読売制圧/柴田編集局長の時代/インテリが書いてヤタザが売る制度/戦争責任の追及と読売争議の乱闘/番町会に連なるフィクサー人脈の暗躍史

 【歴史の証言】 読売の圧力と特高警察の系譜 

 特高警察人脈と新聞支配の現実/錯綜する複雑な政商人脈/京大の滝川事件と鳩山一郎の狙い/鳩山一郎と党人人脈が残した負の遺産

 【歴史の証言】番町会の流れと戦後の財界人脈

 番町会の生き残りと集まった政商たち/財界四天王と財界総理/経団連会長を支配し続ける三井人脈/財界と政界を結んだフィクサー/コバチューを軸にした石油利権と田中政権/帝人事件と番町会人脈の流れ

 【歴史の証言】 番町グループとサンカ人脈の秘図

 文化人類学の盲点サンカ/山岳民としてのサンカの再定義/民間中心の明治の日本の産業化/社会の変化とタブーの変質/株の利鞘稼ぎと帝人事件の黒い影

 
 【第三章】 『朝日新聞と村山社主事件の傷痕』

 
 お家騒動の源流を代表していた近代以前のメソタリテイ/村山家と朝日新聞の間の問題点/前近代的な経営発想と責任の取り方/新聞社は誰のための存在かという疑問/大株主による会社の私物化/朝日を歪めた[獅子身中の虫]の策動/歴史の隠れた部分の発掘調査の意義

 【歴史の証言】 村山社主と朝日新聞を巡る竹中工務店の関係(その1)

 竹中工務店が創ったビルの芸術作品性/朝日と竹中の特別な関係/ビル建築にまつわるリベートの行方

 【歴史の証言】 村山社主と朝日新聞を巡る竹中工務店の関係(その2)

 村山家と竹中の緊密な関係/特命企業の誇りに輝く竹中工務店の路線/肥大化を自制する美学/作品志向か商品志向かの選択

 【歴史の証言】 朝日の[獅子身中の虫]に関しての証言(1)

 不明朗な過去を背負った謎の多い人間/組合の書記長と委員長の関係/朝日新聞に寄生したサナダ虫/村山社主事件を背後で動かした黒い手

 【歴史の証言】 朝日の「獅子身中の虫」に関しての証言(2)

 組合潰しと乗っ取りに特技を発揮した三浦/インチキ策士の末路

  
 【第四章】 『亡国の淵の日本とリクルート事件の負債』
  ― 朝日の上層部を巻き込んだ疑惑の爪跡―

 
 低迷と萎縮のステージに陥った日本/沈黙と黙殺に徹した日本のメデイア/タブーを抱え込んだ日本の社会学の立ち遅れ/閉鎖社会を抑え込むタブーのお化け/過去の遺産とし ての読者人脈/尾を曳いているリクルート事件の誤魔化し/メディアに浸透していたリクルートの網/ジャーナリズムの自浄化能力への微かな期待/朝日はなぜブラック・ジャーナリズムの誹膀を放置するのか

 【歴史の証言】 『朝日が包み込まれた不透明な霧』

 朝日の幹部を蝕むリタルート事件の影/検察当局がマスコミに貸しを作った状況証拠/恥辱を意識しない天下り人生の蔓延

 【歴史の証言】 『検察という組織が秘めた権力の実相』
 ―検察の及び腰の前で高鼾の巨悪―
 司法の独立機構の解体/予想外に低い地検の権限/検察を支配する派閥抗争

 【歴史の証言】 『疑心暗鬼の朝日の内情』
 新聞社の最後の正義の砦としての社会部/批判精神の欠如となれ合い/リクルート事件が残した異例の人事/スキーの接待とペンを折った記者の良心

 【歴史の証言】 『朝日新聞を狙った拳銃自殺事件の背景』

 欺瞳に満ちたメデイアの報道/純粋性の維持が困難な戦後の日本の右翼/朝日の奇妙な対応

 
 【第五章】『読売新聞が推進した膨脹路線と東京の壁の亀裂』
   ―読売の日本制覇が残した幾多の債務

 
 シェアー争いとダンピング作戦/読売の社会部帝国主義を乗っ取ったナベツネ路線/読売の新社屋建設と国有地入手事件の謎/正力と中曽根を繋ぐ原子力とCIAの糸/日本の系列分断と分割支配の確立/読売とTBSの訴訟合戦/実名報道を強調する読売の報道される立場/[東京の壁]の崩壊と後片付けの準備

 【歴史の証言】新聞界の腐食因子と山県有朋の遺伝子

フィクサー記者の指南役をした2人の政治家/参謀本部の給仕から始まった大野伴睦/60年アンポと自民党が動員した暴力団/河野一郎のフィクサー修行道場

 
 【第六章】 『大衆紙の愚民化工作とダンピング作戦』

 
 外国に住む日本人の情報の源泉/アメリカを舞台にした3大紙の勢力分布図/全米を舞台にした販売競争/日本でテスト済みのダンピング作戦/[読売]梁山泊の伝統とナベツネ体制の確立/地球儀の上で読売路線の役割を読む

 【歴史の証言】 『肥大化したジャーナリズムの背後にいる電通の威力』

 販売力で突進した読売とグレシャムの法則/広告による言論支配の実情/秘密のカギはニューヨークにある

 
 【第七章】 『日本のジャーナリズムの問題点と未来の姿』

 
 価値を秘めた鉱石とその発掘の意義/日本における情報の流れの停滞/日本を支配している領民思想の時代性/記事に篭もる気迫の魅力は何処に/自信喪失からの脱却/紙面から奇妙なコンプレックスの追放

 【歴史の証言】 『日本のジャーナリズムの再生課題』

 恐竜化した日本の巨大新聞の悩み/新聞のステレオタイプ化/記者タラブで骨抜きになる日本の記者/懐疑と批判精神がマヒする懐柔策/21世紀に向けた新聞の体質改善への提言

 
 著者目録

 著者略歴

 
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 続く。 

 

 



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