カウンター 読書日記 『昭和天皇・マッカーサー会見』
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●恐いのは思考停止。
   
  2011年 7月12日の二冊 (1280x955) ←クリック


 「・・私(安部氏)が一番恐れているのは、これだけのことがあっても何も変わらず、

  思考停止のまま原子力発電に頼る生活を続けてしまうことです。・・」

 
 ↑は安部芳裕・★『原発大震災の超ヤバイ話』の巻末- ◆結論 の一節です。

 
  ************

 青木冨貴子・★『昭和天皇とワシントンを結んだ男』は、

 以前紹介した ☞◆『昭和天皇・マッカーサー会見』と併読すれば、「思考停止」からは免れます(多分)。 

 その筋・東電等の「したたかさ」をなめてはいけません。

  ************


  
 <追伸>

  ☞◆HUNTER の追究も続いています。

    


  

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●買わなかった本。
 
 ●元毎日新聞政治部記者・三宅久之が、新刊・『書けなかった特ダネ』(青春新書)を出した。

 興味深かったのは、日ソ国交回復を手がけた鳩山一郎が、なんと昭和天皇に日ソ交渉に反対されて狼狽したという「書けなかった特ダネ」である。

 以前、●『昭和天皇・マッカーサー会見』(2) として当時の<天皇⇒外相・重光>の政治的行動を紹介したが、三宅著によれば、<天皇⇒首相・鳩山>がそれ以前にあった、というわけだ。

 **************

 一九五五年★早春のある日、皇居での内奏からあたふたと官邸に戻ってきた鳩山一郎首相は、顔面蒼白、「陛下は日ソ交渉に反対された」とうなだれた。側近の河野一郎農相(当時)が、その時の昭和天皇の発言を詳しく問糺し、以下のように鳩山首相に進言したという。

 「総理、陛下のお言葉はご質問であり、ご意向の表明ではないのではないですか。政府の決定に陛下が反対されるのは、憲法上ありえないことですから。あくまでご質問だったことにして、日ソ交渉は予定通り進めましょう」

 この一言が鳩山の背中を押して、日ソ国交回復の扉が開いた、と。

 **************

 「・・・(重光外相が)訪米する三日前の★八月二〇日に昭和天皇に[内奏]したが、彼の日記には、『渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり』・・・」と記されている。

 三宅の「書けなかった特ダネ」を信じれば、訪米直前の重光外相への「オコトバ」は、しつこく<反共・反ソ>の念を押したということをになる。

 どんな本にも「取柄はあるものだなあ」と思った次第。

 もちろん、購入はいたしませんがね(笑)。

 

 
 

●『昭和天皇・マッカーサー会見』(4)
                     20世紀のファウスト_1


 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』(4) 
 
 「松井文書」へ進むことにする。
 少し長くなりますが、引用・紹介をして、後に補・註を記して行こうと思います。 

 
 ●第三章 「松井文書」の会見記録を読み解く 

  
 ★「松井文書」とその背景 

 
 占領期、昭和天皇と連合国最高司令官マッカーサー及びリッジウェイとの会見は計一八回に及んだが、これまでマッカーサー会見の一部を除いて会見内容は全くのベールにつつまれてきた。しかし、一九四九年七月の第八回天皇・マッカーサー会見からリッジウェイの離日会見まで通訳を務めた故松井明が、担当した会見の記録はもとより、それ以外の会見の経緯や政治的背景についても詳細に記述した「天皇の通訳」と題する文書(以下、「松井文書」)を残していた。彼は外務省政務局第五課長として情報関係の仕事をしていたが、
当時の吉田茂首相に命じられて通訳を担当することとなったのである。

 これまで天皇・マッカーサー会見について「公式記録」として明らかになっていたのは、第一、三回と第四回の前半部だけであった。ところが「松井文書」には、日本の安全保障問題に重要な意味をもつ第四回の後半部の記録が転載されており、さらには講和問題に密接にかかかる第九、十回会見の記録がすべて書き記され、またマッカーサーの離日に際する会見での天皇の実に興味深い発言も記録されているのである。これに加えて、全くの空白であった天皇とリッジウェイとの七回にわたる会見記録もすべて記載されており、そこでは再軍備問題や朝鮮戦争をめぐる軍事問題、内外の政治問題に関する天皇の情勢認識などが具体的な発言の形で詳しく書き残されているのである。

 この度、『朝日新聞』がこの「松井文書」の写しを入手し、去る八月五日付の紙面で特集記事としてその概要を紹介した。筆者はこの文書の全文を閲読する機会を与えられたが、数々の新たな発見に知的興奮をかきたてられる一方で、戦後史の空白を埋めるであろうこの一級資料に研究者としてただ一人向き合っていることの。〔居心地の悪さ〕を感じざるを得なかった。本来であれば、重要な資料であればあるほど、誰もがアクセスできることで活発な論争が展開され歴史認識が高められていく、ということでなければならない。しか し「松井文書」については、なお著作権の問題がクリアーされていないため、上記の『朝日新聞』の特集記事も、「著作権法上の「正当な範囲内」」にとどめられたのである。

 ただ、実は松井自身にあっては、八十年にこの文書をまとめたのは、あくまでそれを出版することを目的としていたのである。翌八十一年十月二日付の侍従長入江相政の『日記』(第十一巻)には、「松井明君がマッカーサー及びリッジウェイの御通訳の顛末を出版したいとのこと。
とんでもないこと。コッピーを渡される」と記されている。さらに三週間を経た同二十二日付の『日記』には、宮内庁長官の報告として「この間からの懸案の松井明君の通訳の記録の出版。侍従長、次長、官長すべて反対と告げ思ひとまって(ママ)もらった由。そして侍従長の秘庫に入れておいてくれとのこと」と 出版を抑えきった「顛末」が記されている。

 しかし松井はそれでも諦めきれず、
八九年、天皇の逝去を経て文書の概要をフランス語版として出版し、さらに九四年一月、自らが没する四ヵ月前に『産経新聞』紙上で断片的ではあるが文書のごく一部を公に語ったのである。上部からの拒否にもかかわらず松井をここまで突き動かしたのは、「昭和天皇が占領期に果たされた役割について後世の人たちに知ってもらうため」であり、何よりも「歴史を綴る必要」というところにあったのであろう。

 ただいずれにせよ、天皇と最高司令官との会見は事実上の「トップ会談」としての性格をもっており、だからこそ「公式記録」もまとめられたのであった以上、それを所管する宮内庁や外務省が正式の資料公開に踏み切るべきである。とはいえ、現状においては上記のような著作権の問題があるため、本稿においてはその、〔制約〕のなかで、できる限り研究者や一般読者が、〔生の資料〕として利用できるような形で叙述するように努めたい。なお「松井文書」は天皇・マッカーサーの第一回会見から順次記述されているため、ここでもそれに従い、政冶的にきわめて重要な意味をもつ天皇・マッカーサー会見を中心に、これまでの研究史をふまえつつ分析を加えていきたい。

 ************* 

 
 ★第十一回会見(*1951年4月15日
 戦争裁判への「謝意」

 
 天皇とマッカーサーとの会見は、第二回会見以来ほぼ半年に一回のペース(四十九年だけは三回)で行われてきた。しかし、第十回会見(*1950年4月18日)以降は、朝鮮戦争勃発のためか、
天皇が★ダレスへのアプローチを重視したためか実情は不明であるが一度も持たれることはなく、結局マッカーサーが戦争の指揮をめぐって解任され帰米する前日が、両者にとって最後の会見となった。「松井文書」は実に興味深い両者の会話を生々しく再現している。

 別れを惜しむ挨拶が交わされた後、ここでも天皇はすぐに朝鮮戦争の戦況に話題を移し、マッカーサーが交代しても米国の戦争政策が変わらないか否かを問いただしている。これに続いて天皇は、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。これに対するマッカーサーの応答は、「私はワシントンから天皇裁判に付いて意見を求められましたが勿論反対致しました。英ソ両国は裁判を主張(英国に付いては意外に思った)していたが、米国はその間違いを主張し、遂に裁判問題は提起されなかった。現在尚天皇裁判を主張しているのはソ連と中共のみであります。世界中の国が反対しているのにソ連は法的根拠も示さず之を主張しているのであります」というものであった。これに対して天皇はただちに、「共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう」と応じた。

 マッカーサーの発言については、当初に英国やソ連が天皇を戦犯として訴追することを求めていた、といった事実関係の誤りが含まれている。とはいえ、「日本人に戦争は罪であったと思い込ませようとした」「戦後日本の思考空間を支配してきた」(江藤淳)として「東京裁判史観」の名で非難が浴びせられてきた東京裁判について、天皇自らの発言として「謝意」を表していたことは誠に興味深いものがある。さらに、それに応えてマッカーがサーが自らの〔尽力〕を語ったことによって、はしなくも東京裁判が、東条らに全責任を負わせる一方で天皇の不訴追をはかるという「日米合作の政治裁判」であったことが当事者同士の会話によって確認されることになった。同時に重要なことは、両者の議論において、本来は天皇の戦争責任に関する問題が、いつのまにか共産主義の脅威の問題に見事にすり替わっている、ということなのである。

 ************ 

 
 ★天皇・リッジウェイ会見
 「一衣帯水論」

 
 マッカーサーの後任である
リッジウェイと天皇との全七回にわたる会見の全容が「松井文書」によって明らかになった。もっとも、最初の会見(五一年五月二日)が講和・安保条約をめぐる第一次日米交渉の山を越えた後であり、政治的には天皇がダレスヘのアプローチを重視したためであろうか、両者の会談内容は朝鮮戦争をめぐる軍事情勢に集中した。それは、例えば天皇が、「兵員の交替」問題、ゲリラ戦への対応策、制空権の問題、「中共軍の戦略」、「避難民」対策等々を詳細に問いただすなど「高度に軍事的」であり、かつて大元帥として軍の責任者に下問する姿を彷彿とさせるものである。

 したがってここでは、政治的に重要と思われる諸問題に絞って検討しておきたい。まず特徴的なことは、天皇の情勢認識が鮮明に現われていることであり、その核心は
「朝鮮有事」と「日本有事」の直結である。すでに最初の会見から天皇は、朝鮮戦線における国連軍が「極東の防衛」に果たしている役割に「感謝」の意を表明し、「日本にとっては釜山が一衣帯水であると同時に北海道も一衣帯水の関係にあるわけであります]と明言した。

 こういう「一衣帯水」論の背景にあるのは、第二回会見(五十一年八月二七日)で述べているように、ソ連が「大きな過ちを犯す可能性」への危機感、つまりはリッジウェイが引き取って具体的に言及した「第三次世界大戦を惹き起こす」可能性への強い危惧であった。

 ************* 

 
 ★「原子兵器」発言 

 
 第四回会見(五十二年三月二七日)でも天皇は、朝鮮戦争に「ソ連が直接介入するような兆候はないか?」と改めて問うたが、これに続く議論の中で、
「〔共産側が〕仮に大攻勢に転じた場合、米軍は★原子兵器を使用されるお考えはあるか? この問題に対しては恐らく貴司令官も答弁する立場に無いと言われるかも知れないが?」との質問を発したのである。リッジウェイは直ちに「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない」と答えたが、こうした回答を当然のごとく予測しながら、なぜ天皇は「原子兵器」発言を行ったのであろうか。もちろん、マッカーサーの解任問題と関係させつつ、使用されないであろう確認を求めたという解釈も成り立つであろう。しかし、この質問のまさに直前にリッジウェイが共産中国の宣伝戦に触れて、「大量虐殺手段の武器禁止の大々的宣伝を開始し、延いては原子兵器の禁止へ持って行こうとの一つの布石」との見方を披瀝していることを考えると、ソ連が介入するような大攻勢の場合に中国の「使用禁止」の、〔策略〕をこえて「原子兵器を使用する」覚悟があるか否かを問いただした、と見ることもできるであろう。いずれにせよ、被爆国としての〔琴線〕に触れる問題での大胆な発言にただ驚かされるばかりである。
 以上のように天皇は朝鮮戦争を、「天皇制打倒」をめざして日本にも進撃してくるであろう国際共産主義の攻勢の始まりと見ていた。この点で、「大陸の政治動乱がわが島国を直接に脅かさなかったことは歴史の事実」であり、
「ソ連は断じて日本に侵入しない」と確信して、「日本有事」と「朝鮮有事」を峻別していた吉田の情勢認識とは明らかに食い違うものであった。

 ************** 

 
 ★安保条約の認識 

 
 さて、以上の情勢認識を持っていた天皇にとって、安保条約の成立は当然待ち望まれたことであった。講和・安保条約の調印後に皇居で行われた第三回会見(五十一年九月一八日)で天皇は、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約〔講和条約〕が締結せられた」ことを喜ぶとともに、「日米安全保障条約の成立ちも日本の防衛上慶賀すべきことである」と率直に述べた。そして、つづく第四回会見でリッジウェイが行政協定をめぐって、「防衛費」(防衛分担金)や占領期の施設返還の問題などで日本側に不満が出ていることについて「日本国民も辛抱してもらいたい」と述べたのに対し天皇は、「吉田内閣によって国民の啓蒙の有効な措置がとられるものと信じる。私としては良く了解できるし、大多数の国民も理解しているものと思う」と答えた。

 行政協定の交渉を担当した岡崎勝男さえ「反米感情の温床」になることを危惧した不平等な行政協定を「良く了解できる」と評価するほどに、天皇にとっては安保条約が結ばれたこと自体が「慶賀すべき」ことであったのであろう。ただその際注目すべきは、条約発効を目前に控えた第五回会見(五十二年四月二六日)で天皇が、「日米安全保障条約に基づき貴司令官の統率の下に米軍が条約に規定された防衛義務を担当される訳であります」と述べている点である。当時の西村条約局長も、「〔米軍による〕日本防衛の確実性が条約文面から消えうせた」と嘆いたように、この条約は米軍による日本防衛を義務づけていないにもかかわらず、なぜ天皇は右のような発言を行ったのであろうか。前回の会見でリッジウェイが、米軍駐留の目的が米国の「政治的野心」や日本政治への「干渉」にあるのではなく、あくまで「日本の独立を保障する」ことにあると力説したためであろうか。

 なお天皇は再軍備問題について第二回会見で、「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えることは当然の責務であります。問題はいつの時点ていかなる形で実行するかと言うことになると思います」と述べ、漸進的な再軍備の必要性を明言していた。

 以上に見てきたように、「松井文書」によって、
天皇がリッジウェイとの会見で、マッカーサーとの場合よりもはるかに直裁に生き生きと自らの情勢認識や主張を語っていることを知ることができたことは、大きな収穫と言える。 

 ************* 

 
 ★「松井文書」が明らかにした天皇像
 『独白録』の論理の否定 

 
 「松井文書」が明らかにした占領期における天皇の言動から何が言えるであろうか。まず明白なことは、戦争責任にかかわる「弁明書」としての『独白録』で展開された論理それ自体の否定、ということであろう。『独白録』を貫く論理は、内閣が機能しなかった二・二六事件と終戦時を例外として天皇は、「閣議の決定」については「仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる」という、「立憲政治下に於る立憲君主」としての立場に徹した、ということである。つまり、「余りに立憲的な」と述べるほどに憲法に忠実に従った結果、戦争への道を阻止できなかった、ということなのである。

 しかし、「松井文書」が生々しく描き出したように
天皇は、戦後の新憲法の施行後も、「象徴天皇」という憲法上の規定に何ら縛られていないかのように「政治的行為」を展開した。七十五年に天皇・マッカーサー第三回会見(46年10月16日)の記録を掲載した『サンケイ新聞』において担当記者は、「〔会見から〕半年後の〔昭和〕二十二年五月三日(憲法施行)以後は元首から象徴と変わって現実の政治から、まったく離れられる」と記した。当時はまだ、第四回会見の前半部の記録も「沖縄メッセージ」も明らかになっていなかったからであろうが、現実の天皇の行為は、こうしたサンケイ記者の〔期待〕をものの見事に裏切るものであった。 

 ************* 

 
 ★『独白録』の論理と現実 

 
 天皇の、〔憲法感覚〕がこうしたものであるとすれば、はたして『独白録』で展開された論理は正しいのであろうか。第一回会見を前後して焦点となった「東条問題」について検討してみると、天皇は開戦を決定した四十一年十二月一日の御前会議について、「政府と統師部との一致した意見は認めなければならぬ」「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云はなかった」「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない」と述べ、あくまで「立憲君主」としての立場を貫いた旨を強調した。

 しかし『木戸幸一日記(下)』によれば、御前会議前日の十一月三〇日に、高松宮が海軍の〔厭戦気分〕を伝えたため海軍大臣らを呼んで事情を聞いた天皇は、「相当の確信」をもった返答を確認したうえで、
「予定の通り進むる様首相〔東条〕に伝へよとの御下命あり」との決断に踏み切り、木戸は「直に右の趣を首相に電話を以て伝達」したのであった。

 「予定の通り進むる様」とは、翌日の御前会議で開戦を決定せよということであり、「彼程、朕の意見を直ちに実行に移したものはない」と天皇自ら評価するような東条が、こうした「御下命」に忠実に従ったことは言うまでもない。

 つまり、御前会議では「一言も云はなかった」と述べるように「立憲君主」として振る舞った天皇は、〔裏舞台〕では、東条に強制されたのではなく、逆に天皇が東条に「下命」して御前会議の最終方針を事実上決していたのである。ここには、いわゆる「専制君主」(あるいは「親政」の担い手)と「立憲君主」との間を巧みに行き来する天皇の姿が象徴的に示されている。とすれば、新憲法下において「象徴天皇」でありつつ「己が好む所」に従って「政治的行為」に勤しんだ天皇の言動は、むしろ戦前以来の行動パターンにおいて〔一貫性〕を持っていた、と言うべきであろう。 

 ************* 

 
 ★「靖国問題」をめぐる〔ねじれ〕 

 
 こうした
天皇の言動における建前と実態との乖離は、戦争責任問題を考える際の国民レベルの議論に大きな、〔ねじれ〕をもたらすことになった。その典型例が「靖国問題」であろう。本来靖国神社には「聖戦」で倒れた「英霊」の御霊が祀られるのであり、「聖戦」とは「天皇の意を体した戦争」を意味する。他方『独白録』で展開された天皇の立場は戦争に反対した平和主義者としてのそれであり、その逝去の際もメディアの大半はそうした基調で戦前の天皇像を描き出した。つまり、「宣戦の詔書」の問題はともかくとして、実態においてあの戦争は「天皇の意に反した戦争」であった、ということである。

 ところが、天皇は平和主義者であったと主張する立場と、あの戦争は「自存自衛の戦争」であり、そこで倒れた「英霊」のために首相は靖国神社に公式参拝すべきであると主張する立場とが、何ら自己矛盾を惹き起こすこともなく〔共存〕するという、まことに奇妙な、〔ねじれ〕現象が長く続いてきたのである。そして、戦後の日本は今日に至るまで、この、〔ねじれ〕の問題を正面から突き詰めてこなかった。その背景としては、人間個人としては退位問題などで苦悩したであろうが、結果的には法的にも道義的にも戦争責任を明示的にとることのなかった天皇がその在位を継続したことで重大な、〔タブー〕が形成された、という問題を挙げることができるであろう。いずれにせよ、この間、天皇が開戦の決定を「下命」した東条の合祀問題が「靖国問題」の焦点となっていることは歴史の皮肉としか言いようがない。

 ************** 

 
 ★戦後の「国体」としての安保体制 

 
 東京裁判に「謝意」を表しつつその地位を守りぬいた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイ。シューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。・・・

 
 これで、●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3)へ繋がりました。

 以下、他著も参考にしながら、註記・補記を書き記していきます。 

 
    続く。
 

 
                   天皇のスパイ_1_1





●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3)
 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』(3) 
 
 第四章 戦後体制の形成と昭和天皇 は、次の一節で一区切りとして、
 
「松井文書」へ進むことにする。 
 
 ★「内乱と侵略への恐怖」 

 
 それでは昭和天皇は、おそらくはいかなる政治家よりも、なぜこれほどまでに安保体制の、〔揺らぎ〕に対して強烈な危機感を抱いていたのだろうか。実は、二〇〇七年になって公刊された、天皇の最後の側近であった元侍従・卜部亮吾が残した日記の短い記述に、問題のありかを理解する手掛かりが隠されているようである。それは、一九七一年四月十二日付の日記である。前日の一一日に統一地方選挙が行われ、東京では美濃部亮吉が、大阪では黒田了一がそれぞれ知事に当選し、さらに横浜市長選では飛鳥田一雄が選ばれ、革新勢力の躍進という結果に終った(前年四月に、京都では蜷川虎三知事が六選を果していた)。その翌日の日記でト部は、「統一地方選挙の結果につきお尋ねあり、調べて奉答す」と記し、この事態について「東京・京都・大阪の三府を革新に奪われしは政府ショックならん」と感想を述べているのであるが、それに続いて「政変があるかと御下問あり」と、天皇の反応を書き残しているのである(『昭和天皇最後の側近 卜部亮吾侍従日記』第一巻)。

 明治学院大学教授の原武史は、作家の半藤一利、東大教授御厨貴との鼎談で、「二・二六事件に限らないのですけれども、昭和天皇には常に「内乱への恐怖」というものがあったと思うんですよね。戦後、象徴としての地位が安定したあともなお、革命が起きるかもしれないという恐怖を、ずっと持ち続けていたのではないか」と述べて、右(↑)のト部の記述を例として挙げているのである(半藤一利・御厨貴・原武史『ト部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』)。

 たしかに原も指摘するように、議会制民主主義の枠組みがそれとして定着している中で行われている選挙、しかも地方選挙の結果について、いかに革新勢力が躍進したとはいえ、それを「政変」と結びつけて危惧を表明するとは、
尋常の感覚ではないと言わざるを得ない。まさに「内乱への恐怖」「革命が起きるかもしれないという恐怖」というものが、若い時代の体験を背景に、昭和天皇の考え方を呪縛し続けていたのであろう。

 こうした「恐怖」は、戦後体制のもとにおいては、ソ連や中国という共産国家による直接侵略と国内共産主義者による間接侵略という新たな脅威にむけて収斂されたと言える。例えば、次節で触れるマッカーサーとの第十一回会見(一九五一年四月十五日)でマッカーサーが東京裁判をめぐり、「天皇裁判を主張しているソ連と中共」を批判したのを受けて昭和天皇は、「共産主義思想の当然の結果でありましょう。日本の安定を破壊し国内治安を乱して革命へ持って行かんとするものでありましょう」と、脅威のありかについて自らの認識を明確に述べていたのである。

 この会見から約二年を経て、先に見たようにマーフィ-米大使との会見で昭和天皇は、朝鮮戦争が休戦に向かうという緊張が緩和され始めた時期にあっても、日本が共産主義の「ターゲット」になっているという危機意識を訴えたのである。ここにも示されているように、天皇は常に変わることなく、内外の共産主義が天皇制の打倒をざして侵略してくるであろうという恐怖感にさいなまされていたのであろう。そして、こうした脅威を阻む最大の防波堤が、米軍のプレゼンスに他ならなかった。

 すでに第三章や本章で詳細に検討してきたように、この安保体制の枠組みを確保するために天皇は、新憲法の施行後もなりふり構わぬ「天皇外交」を展開した。天皇の認識からすれば、戦後政治における最大の「事態の重要さ」は共産主義の脅威であり、この脅威に対して「皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器」を守り天皇制を防衛することこそが最上位に位置づけられるべき使命であり、そこにおいて憲法は自らの「政治的行為」に伴うはずの政治責任を免れさせてくれる、〔ヴェール〕であった。天皇がしばしば、自らは戦前も戦後も変わることなく立憲君主であったと自己規定する内実は、「事態の重要さ」に立ち向かうべく〔超憲法的〕に自らがイニシアティブをとった場合を除いては、という意味に他ならないのである。

 以上の検討からも明らかなように、天皇の憲法認識を把握するためには、『独白録』が提示している二・二六事件と終戦の「聖断」という戦前・戦中の、〔二つの例外論〕の周辺を論じているだけでは本質に迫れないのであって、戦後の新憲法下における天皇の「政治的行為」を正面から分析することが不可欠の作業なのである。

 
 ●昭和天皇と「靖国問題」

 
 ★東京裁判に「謝意」

 
 第三章で触れたように、「松井文書」は、昭和天皇とマッカーサーとの最後の会見となった第十一回会見の内容を初めて明らかにした。改めて引用しておくならば、昭和天皇は離任するマッカーサーに対し、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。つまり、自らは免訴されたが、東条英機を始めA級戦犯七名が処刑された東京裁判に関して、天皇は明確に「謝意」を表したのである。ここにも、個人感情を排した昭和天皇の、〔リアリズム〕を見ることができるであろう。

 ***********

  続く。
 

 


●『昭和天皇・マッカーサー会見』 (2)
 ●『昭和天皇・マッカーサー会見』 (2) 
 
 昨日に続いて、熟考に値する一節の紹介です。 

 
 ★戦後の「国体」としての安保体制  (128p~) 

 
 ・・・東京裁判に「謝意」を表しつつその地位を守りぬいた天皇にとって、独立後の日本の安全保障体制がいかに枠組まれるかということは、「国家元首」として自ら乗り出すべき最大のイッシューとみなされたのであろう。なぜなら、天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていたからである。結果として天皇の行った「外交」は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講和問題でも、政府外務省の政策決定を見事に、〔先取り〕するものであった。そこには、共産主義の脅威から天皇制を守り切るためには無条件的に米軍に依存する外はなく、それを確実にするためには吉田であれマッカーサーであれ〔バイパス〕し、侵略に対してはあらゆる手段の行使を米軍に求めるという、〔天皇リアリズム〕とも言うべき冷徹さが見られる。要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられたはずなのである。

 しかし、こうした〔リアリズム〕は戦後の日本外交に、〔安保の呪縛〕を押し付けた。仮に天皇が、中国における共産政権の成立を日本の独立にむけて米国に対して切ることのできる絶好の、〔カード〕とみなした、白洲次郎の如きしたたかなパワー・ポリティクスのセンスを持ち合わせていたならば、日本外交は選択肢の幅を広げつつ、より柔軟なダイナミズムを発揮し得たかも知れないのである。

 この問題に関わって驚かされることは・「松井文書」で明らかとなったマッカーサーとリッジウェイとの全会見記録を通して、日本の戦争がアジアの国々や民衆に及ぼしたであろう多大の犠牲や惨禍について天皇からただの一言も発せられていない、という事実である。民衆レベルヘの言及は、日本の国民の食糧問題やシベリア拘留者の問題など、〔被害者〕としての日本人(沖縄は含まれていない)についてであり、それ以外には、共産主義の侵略や抑圧にさらされている地域の民衆についてのみである。マッカーサーとの第一回会見で天皇が「全責任発言」をしていたとするならば、それは誰に対するいかなる罪について「責任」を負う決意を表明していたのであろうか。

 たしかに天皇は、例えば教科書問題が深刻化した八二年当時、入江侍従長に対し、「朝鮮に対しても本当にわるいことをしたのだから」(『入江相政日記』第十一巻)と個人的には述懐していたが、戦争責任問題から講和問題にいたる時期の「トップ会談」における、〔アジアの不在〕は、これまた戦後日本外交を、〔象徴〕するものと言えるであろう。

 もっとも、以上に見たような天皇の「外交」については、その。〔先見の明〕を評価する見方も出てくるであろう。とはいえ、政治的責任を負えないもの、公に説明責任を果たし得ないものが政治過程に介入し影響力を発揮するということは、日本の政治と民主主義の根幹を突き崩すことを意味している。仮に、この状況を評価せざるを得ないとすれば、日本の政治の持つ病根は限りなく深く、日本の民主主義は救いがたく末成熟である、と言わざるを得ないであろう。・・・

 ************ 

 
 ★米軍撤退は「不可なり」   (214p~) 

 
 以上のように、
共産側の「平和攻勢」を深刻に危惧していた昭和天皇にとって、五四年末に日本民主党の総裁・鳩山一郎が政権の座についたことは、新たな危機の到来と感じられたことであろう。なぜなら、同党は憲法改正や「自衛隊の整備」を唱える一方で、「逐次駐留軍の撤退を可能ならしめること」をめざし、さらにソ連や中国を念頭においた「積極的自主外交」を推進することを中心課題として掲げていたからである。こうして、翌五五年六月から国交回復をめざした日ソ交渉が開始される一方で、八月には重光葵外相が訪米してダレス国務長官との会談に臨むこととなった。 

 この会談に向けて重光は、安保改定を企図した「日米相互防衛条約(試案)」を準備したが、その第五条では、「日本国内に配備されたアメリカ合衆国の軍隊は、この条約の効力発生とともに、撤退を開始するものとする」「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部隊は、日本国の防衛六箇年計画の完遂年度の終了後おそくも九十日以内に、日本国よりの撤退を完了するものとする」と明記されていたのである。まさに対米交渉に向けた重光の眼目は、
米軍の全面撤退にあったのである(豊下著『集団的自衛権とは何か』)。

 ところで
重光は、訪米する三日前の八月二〇日に昭和天皇に「内奏」したが、彼の日記には、「渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」と記されているのである(『続 重光葵手記』)。その後訪米を果たした重光はダレスとの会談で、集団的自衛権をめぐって激しい議論を展開したが、結局、米軍〔撤退論〕を提起することはなかった。その背景に、右(↑)の天皇の発言が影響を及ぼしていたか否かは不明である。 
 
 そもそも、訪米直前の多忙を極めている時に、なぜ重光は那須の御用邸まで「内奏」に赴いたのであろうか。かつて
芦田が「内奏」に憲法上の疑義を感じていたにもかかわらず、繰り返しの要請を受けて結局昭和天皇のもとに行かざるを得なかったと同様の事態が重光にも生じたのであろうか。重光が「渡米の使命」について縷々説明したと記しているところを見れば、彼が米軍撤退構想をも持ち出し、それに対して昭和天皇が「不可なり」と「御下命」した可能性も否定できないであろう。

 いずれにせよ、昭和天皇はいかなる政治的責任において、「駐屯軍の撤退は不可なり」といった「高度に政治的判断」にたった発言を行ったのであろうか。この天皇発言が新憲法の規定に照らしていかに重大な意味をもっているかということは、仮に天皇が所轄の大臣に対し全く逆に、「米軍の撤退を推進せよ」とか「安保条約を改定せよ」とか、あるいは「共産中国と直ちに国交回復せよ」と言明した場合を想定するならば、きわめて明瞭であろう。とはいえ、天皇制の打倒をはかる内外の共産主義の脅威に危機感を募らせる昭和天皇の感覚からすれば、米軍の全面撤退の可能性を阻むということは、〔超憲法的〕な課題に他ならなかったはずなのである。

 
 昭和天皇がソ連や中国など共産主義の脅威にいかに深刻な危機感を抱いていたかということは、沖縄国際大学の吉次公介准教授がアメリカ国立公文書館で発掘した資料によっても確認することができる。吉次によれば、五八年一〇月に来日したニール・マケルロイ国防長官は同六日に昭和天皇と会見したという。そこで天皇は真っ先に、「強力なソ連の軍事力に鑑みて、北海道の脆弱性に懸念をもっている」と述べて意見を求めた。

 これに対しマケルロイは、「ソ連の支援を受けて共産中国は台湾海峡地域で武力を用い、また武力の脅しを行っている。それは、その地域での自由世界の撤退を目論むものだ。自由世界が国際共産主義による武力行使や武力による脅しに強い姿勢で臨むことがきわめて重要だ。・・・この意味で我々は、沿岸島嶼を天皇が北海道を見るような眼で見ている」「アメリカ政府は、この地域〔アジア太平洋〕の平和と安定のために日米協力がとくに重要だと考えている」と答えた。天皇は直ちに、「日米協力が極めて重要だということに同意」し、「軍民両方の領域におけるアメリカの日本に対する心からの援助に深い感謝」を示したという(吉次公介「昭和天皇と冷戦」『世界』二〇〇六年八月号)。

 昭和天皇が「深い感謝】を表明した背景には、五七年一〇月のソ連による人工衛星スプートニクー号の打ち上げ成功が米ソの軍事バランスに及ぼした「スプートニク・ショック」や、五七年には約十二万一千人であった在日米軍が五八年には約半数の六万八千人にまで削減されたという在日米軍をめぐる情勢変化もあった。いずれにせよ、強力なソ連軍が脆弱な北海道に侵攻するのではないかという昭和天皇の危機感は、八○年代の「ソ連侵攻論」を、〔先取り〕するかのようである。

 吉次が発掘した別の資料によれば、キューバ危機が終息を迎えて二日後の六二年一〇月三〇日、昭和天皇は園遊会の場でスマート在日米軍司令官に直接語りかけ、「アメリカの力と、アメリカがその力を平和に使った事実に対して個人的に大いに賞賛し、尊敬している」と述べ、さらに「世界平和のためにアメリカが力を使い続けることへの希望を表明した」という。

 この天皇の発言についてライシャワー米大使は、「キューバでの基本的問題に対する優れた理解を示している。また、アメリカの確固たる対ソ政策を責任ある日本人が強く支持している証拠である。しかし、この出来事の真の重要性は、・・・天皇やその側近が在日米軍に対する評価と感謝を表明するのにこの時期がふさわしい、と判断したことだ。プレスから常に批判され、その死活的役割が政府高官から公的にはほとんど認められない米軍が、このような並外れた評価をうけたことは喜ばしい」と絶賛した。つまり、ライシャワーにあっては、昭和天皇は安保体制の、〔最大の守護者〕と評価されたのである。

 以上のように、一九五一年に安保条約が調印されて以降も昭和天皇は、安保体制や日本の防衛体制の枠組みがいささかなりとも揺らぐことに強い危機感を抱き、然るべきタイミングに然るべき場を使って、チェックを入れていた、と言って間違いはないであろう。従って、第四次防衛計画をめぐって国会の内外で激しい議論が戦わされていた一九七三年五月に、「内奏」した増原恵吉防衛庁長官に対し昭和天皇が、「近隣諸国に比べ自衛隊がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」「防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず、いいところを取入れてしっかりやってほしい」と発言し、「政治的行為」ではないかと大問題になったような例は、いわば、〔氷山の一角〕と言うべきであろう。・・・ 

   続く。  

   






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