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●山崎淑子オフィシャルサイト。

 ●以前当ブログで☞★山崎淑子インタビューとして紹介した闘士山崎さんが、

 ついに「山崎淑子ジャーナル」をひっさげて復活再起した。

 以下、メールから一部を紹介する。

 ***********

 長らくの無沙汰を致しました非礼を、どうかお赦しください。

 さて、このたび、7割がた山崎のオフィシャルサイト「山崎淑子ジャーナル」が完成し、

 やっと稼働し始めましたので、皆様に、ご案内申し上げます。

 ➔★山崎淑子ジャーナル

 ◆殊に、下記貼付の通り、サイト内にアップロードしました資料:ー「長崎の声」が、

 たいへんな反響をいただいております。

 ぜひ、ご覧ください。

 そして、1人でも多くの方々に、この「被爆地、長崎からの悲痛な叫び」を

 拡散してください!

 ☞◆長崎からの叫びに全世界は耳を傾けよ!ー「今も続く民族絶滅作戦」

  



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●山崎淑子さんインタビュー(20)・(21)
                     アメリカン・ドリームという悪夢_1
                  ★アメリカン・ドリームという悪夢
                   藤永 茂 (三交社 2010年3月刊)                 
                

 ●山崎淑子さんインタビュー(20)・(21) 

 このサラさんへのインタビューも今日で一区切りなんだが、サラさんはこれを実行=ユーチューブでオンエアしてくれた「唯一」ならぬ「★唯二のひと」・
岩上安身氏に感謝の気持ちを述べるとともに今後の自信の「使命」についても言及する。 

 ★「唯二」の、いま一人は、もちろんサンデープロジェクト(2007年4月26日)で「司法は誰のものか」と問うた
江南亨氏である。
 
 (19)で語られたように、サラさんは、出所直前には収監される仲間達のために、自身の体調も最悪だったにも拘わらず、「身体の具合の悪いひとにはマッサージを」「頼まれれば歌も歌い」「カードも作ってあげた」。とにかく自分のできることは「何でもやった」という。

 こんなサラさんに「仲間たち」は、感謝と憧憬の念を抱き、サラさんの出所時には自分達の住所を「くれて」、『出てから、事業も再興して、お金持ちになって自分達を雇ってほしい」 「日本に行きたい」と言うほどになった。

 
スーザン・リンダウアー女史もそういう人達の中の一人だった。

 *************

 いま現在、明らかになった「事実」は以下の通りであり、【犯罪】とは結びつきようもない。


 サラさんは、2001年9月11日の夜に、犠牲者と行方不明者の家族を助ける米国赤十字ニューヨーク支部のボランティア登録を済ませた。その夜、写真付きID(身分証明書)が支給され、翌12日から、家族支援センターに昼夜、常駐して無償の奉仕活動を行っていた。17日には、日本から臨時特命を受けて家族支援センターを訪問した山口泰明外務政務次官を案内、随行通訳したり、地元ケーブルテレビのNY1局によるインタビューを取り次ぎ、報道陣に対しては取材アレンジを提供したり、またNY総領事館で報道機関向けの記者会見を開いたりするなどの活動を12日から9日間、無我夢中で行っていた。このサラさんの活動の模様は、連日、国内外の各種メディアで報道され、翌2002年、活動を評価した米国赤十字から表彰を受け、感謝状が贈られた。


 しかし、サラさんは、日本滞在中に<逮捕-起訴-米国送還(拉致)>されてしまった。

 米国の「言いなり」-平伏し、その「指令」に従う「司法」関係者連。

 「日本という国は主権国家なんだろうか?」
 「米国による日本占領は今も続いているのではないか?」・・・という疑念が浮かぶのも当然と言える。

 ●サラ: 【言いなり】がエリ-トになれる国なんですね。・・・ここまで、自由に、言論の自由を謳歌できたのは出獄以来初めてです。

 今日は、好い気分で眠れます。・・・ありがとうございました。

 幸せでした。

 ■岩上: どこまでオンエアできるか分かんないけどね。

 *********** 


 サラさんは、いま、出獄後の「ミッション」で何をするかを考えている。

 自分の体験を話すことで、打ちひしがれた人達、女性達に・・・

 「とにかく死なないと、後できっと良い事があるよ」と「自殺を思いとどまってもらうために」伝えて行きたいという。

 「そうすれば、少しは体験が活かせるかな・・・というのが<結論>」 


 ************


 ●山崎淑子さんインタビュー(1)~(21)     <了>。  




●山崎淑子さんインタビュー(19)
 ●山崎淑子さんインタビュー(19) 

 「どこにでも良い人はいる」 サラさんは、ある刑務官について語り始める。 

 そのアメリカの刑務官はこう言ったという。

 
 「俺らは、何十年も何千人という本当のワルを見ているから分かるけど、あなたがその顔をして、『オペラ歌え』と言えばオペラを歌って、それでニコニコして『私は本当に無罪です』と言っても、我々は言われなくても信じているよ。

 無罪だと信じているから、とにかく何でもいいから生きて出ることを考えなさい。生きて出たらいくらでも本を書けるでしょ。いくらでも後で国家賠償できるでしょ。

 とにかく無罪だと分かっているから(ここでは)できるだけ楽しく安全にすごして、生きて出なさい」ってことで、彼らが目を光らせてくれたので・・・本当に暴力的な人や危険な人とか精神障害者が多いんですけど、(■アメリカの刑務所ですか?)・・・そう。でもアメリカの刑務所で私がわざと呼ばれて、そういう刑務官が集まる所で、オペラの簡単なコンサートを開いて?アリアを歌ったり、逆に私に『歌を聞かせてほしい』って外から独房とかグループ房の中に来て、オペラをリクエストして、歌ったら<お駄賃>にソーダを呉れたり・・・わざと見せつけることで『この人には手を出すなよ!』っていうのを見せているので、危険な人もね、最初は確かに暴力も振るわれたんですけど、誰も触れなくなったので・・・そういうのは感謝してますね。(■う~ん)

 日本の拘置所でも、辛いことばかりでしたけども、ひとつ良いことは、あの検閲するために・・・私がアチコチに一生懸命紙と鉛筆を手にして以来は、あの一生懸命手紙を書く中で・・・

 ■岩上: あの、サラさんのお付き合いある人は非常にエリートの人も居た。そういうような人たちに手紙を書いたわけですね。そのお付合いがあるだけでビックリしますよね。

 ●サラ: うん・・で、そのお付き合いの中には政治家も居たし、南野(*南野 知恵子・のおの ちえこ)法務大臣も居たし、面識のある与謝野馨さんも居たので、そいう人たちに『弁護士さんに頼んでも、私選は雇ってくれないし、弁護士に声明文を託したのにそれもお金だけ取って配布してくれないし・・・どうしようもないまま送られたら冤罪被害者になるし、死んでも死に切れないので、無罪をあなたに訴えますから聞いてください。何とかしてください』という手紙を・・最後もう送られると決まってから一ヶ月近くあったんですね。

 9月26日に「主文:引き渡されるケースとする」と言って・・・控訴頼んだんですけど、この制度には控訴はないとか・・・っていうのも教えてもらえず、控訴がなかったので、後の一ヶ月はもう絶望的な思いで只ひたすら、一日に一通しか手紙は出せないので、一日一通を引き渡されるまでのあいだ、親に送ったり、友人に送ったりする中で、只さようなら、だけじゃなく「私は無実です。これは拉致です」みたいなのをね書いたら、それを毎日、拘置所のかなり上の幹部の方-刑務官の幹部の方-が検閲係で読まれるわけです。

 それを読んで・・私が中で自殺未遂も3回くらいしましたし、で、その自殺未遂未遂したことで、自殺予防房みたいなのがあって自殺できない仕組みになってる部屋に入れられるんですね。それでも死にたくなるから、窓に突進して、窓に顔をぶつけたら死ねるかなと・・あるいは、チョコちゃん(愛犬)を、どこに居るか判らないけど救いに行かなきゃいけないので、チョコを救いに行くためには窓を突破しなきゃあって思うんで・・・窓にとにかく突進するんですね。

 突進する度に頭ぶつけてコブ作って、引っくり返って気絶したりしてるのを見るに見かねて、その方がよくお部屋に呼んでくれるようになって、

 『死んでも何にもならないし、頭ぶつけても簡単に人間て実は死ねないし、拘置所で死ぬとすごく醜くて、あとの処理も大変だし、自分が預ってるこの場所では自殺者ひとりも、自分の責任上出したくないから、まあまあここに来て話をすることで少し気が紛れるなら来なさい』って言って何度か呼んでくれて、色んな話をしてくれる中で、

 『(手紙は)全部読んだけど、自分も無実だと思う。何かの間違いだと自分も思っている。自分は名前を教えられないから自分がそんなこと言ったって意味ないから・・力はないけど・・でも読んだかぎり、その人たちにも通じているから、アメリカへ送られちゃうけども、手紙を受け取った人も多分無実を信じてくれてるから、・・・
 これは何かの理由があって、アメリカの誰かがすごくあなたに会いたがって誰かが呼んでるか、これからすごい人に会うことになるか、あるいは、すごい使命を持ってて何かの使命のためにこれからアメリカに出かけるんだから、その何かの使命を果たすなり・・・負って、また帰って来てください。
 死なないでください。少なくとも私はそれを信じて待ってますから』って言ってくれて・・・そうやってお部屋に何度も呼んでくれたんですよ。

 ■岩上: う~ん、いい人も居ますねえ。

 ●サラ: だから、どこにでもね。制度は非常に過酷で、国家権力というのは本当に暴力そのものなんですけど、でも、そこに携わる人達は、ただ自分に与えられた仕事を日々黙々とこなしているだけで、かつ生身の人間ですからやっぱりその人達の中には非常に人間的な人-遠慮がちにも、こう心配してくれるような暖かい血の通った人-というのはどこにでもいらっしゃるんですね。

 ■岩上: 特にその、下で権力をね、持ってるわけではないような、権力の末端でしょうけども、そこから離れたら本当に草の根の一庶民でしかない人達ほど、暖かい気持ちをお持ちだったんですね。日米共に。

 ●サラ: そう・・アメリカでも刑務官や拘置所長さんが味方で、それで助けられてるのを日々感じていましたからね。だから、アメリカにも怨みは、私は持ってない。

 国家の恐さは、この事件の前からそれなりに解っていたつもりですし、共謀罪の恐さも聞きしに勝る、本当に恐いものだったし、理不尽なものだし・・・でも人間に関しては今でも希望を持っていて、それはどこの国でもいらっしゃるわけでね。だからアメリカも制度は何とかしなきゃいけないし、日米犯罪人引渡条約も何とか変えいけないけれども、人間・・・

 ■岩上: (日本という)国家も何とかしなきゃいけない。よその国に好いように操られているような国家では困るし、またその国家の頂点に立っているようなトップのね、大使まで務めているような人が「私は知らない」でね、・・知らなくても、それはアメリカ国家を左右するようなことは出来ないにしても、ほんのわずかな、たとえばチョット当座のお金を貸すくらいのことは・・(●サラ: それもなかったです。)・・いい弁護士を紹介するのでも、医者を紹介するのでも、何かチョットした親切をしてあげることでよかっただろうし・・

 ●サラ: なかったです。その方は叙勲でその後勲章を受けられましたね。
 そいう人が勲章受ける国なんですね。

 ■岩上: 国というのはそういうもんなんでしょうね。しかし、そこは救いですね。あったかい、温かみのある思いやりというか・・それは、何も無いからなのかも知れないけれど、そういうものをお持ちの方がね、日本にもアメリカにも地の底みたいな処にこそ、人が息づいている。

 ●サラ: で、結論になりますけれど、同房者の一人が、私に似てる政治犯で彼女自身は当時のブッシュ政権の大統領首席補佐官の★
アンドリュー・カードという人のいとこで、私はアフガン戦争に真っ向から反対して、テロ特措法成立に反対して、入れられたと思っているんですけど、彼女も別件でスパイ罪で逮捕され、愛国者法で逮捕・起訴された初めてのアメリカ国民なんですけれども・・・彼女がたまたま同房者だった時に、やはり周りの皆さん、精神とか身体を病んでるんで、皆さんがよく私を「看護婦さんみたいね」と言われたんですが、自分も病気だったけれどもエイズの患者や末期のガン患者や精神を痛めた-心を痛めた、そのアンドリュー・カードのいとこのスーザンっていう女性を看病したんです。
 ★アンドルー・ヒル・「アンディ」・カード・ジュニア(Andrew Hill "Andy" Card Jr. 1947年5月10日~- )


 大勢の人を慰めて看病する中で、すごく日本女性の評判が、その閉鎖された、とても悲しい空間の中で高まったんですね。だから、じゃあ皆のなるべく奉仕をして、日本の好い印象を残して、一期一会で多分もう残りの人生で会うことのない人達だろうから、できることをしてあげようと思って、文盲の人には代わりに手紙を書いてあげたり、スペイン語しか解らない人には弁護士宛ての手紙を無料でタイプしてあげたり・・・

 
 ●山崎淑子さんインタビュー(19)    <了>。
      




●山崎淑子さんインタビュー(18)
 <日米の911冤罪被害者 スーザンとサラのお話を聞く会:東京会場>

 ★会場が変更になったそうです。

 日時:2010年9月11日 16:00~18:00
 場所:恵比寿 ★トライアンフ(都立写真美術館から変更)
 
 **************


 ●山崎淑子さんインタビュー(18) 


 「ミスター・何かをしましょう」こと【タニモト】は、きっと「何か」をしたのだろう。

 日本大使館へ電話した翌日、カウンセラー室の別棟に「いきなり」連れて行かれて、「何て大使館に電話したんだ」と詰め寄られた。

 詳細はその後も不明だが、大使館側から、正規の医療行為の実行か、処遇改善依頼か、何らかの「クレーム」がきたのだろう。

 その話中にサラさんは呼吸困難に陥ったが、今度は外部から来た医師の処置を受けることができた。

 とにかく、その日-5月1日から、サラさんを「出す」手続きが「何か(の理由)で始まった」。

 5月8日、突然出され、ハートフォードの代用監獄へ連行され、その翌朝には車でニューヨークへ、そして囚人服のジャンプスーツのままJFK空港からアメリカン・エアラインに乗せられて、成田空港に到着した。

 これが、2007年5月11日のこと。 所持金はわずかで、体調はきわめて悪かった。  

 
 **************

 先ず思いつくままに電話をしようと思う。

 両親は病気で入院中らしく連絡が取れず、知り合いの議員事務所は不在で埒が明かず、とにかく「このままでは死にきれない、どこかに記録を残したかった」サラさんは、昔の知己-ニューヨークタイムズの元東京支局長に頼んで、この体験を記事にしてもらおうと思い立つ。

 連絡がとれたが元支局長氏は「面白い話だ。ファックスで詳しく教えてくれ」と言うが、サラさんにはその元気も、手持ち金もなかった。

 ひとまず、空港リムジンで銀座の旅館に落ち着くことにした。

 当時、
【サイトウ・クニヒコ】(斉藤邦彦)元・駐米大使が、【ワタリ】でプラザホテルに事務所を構えていたので、そこを訪ねて、事情を話し、「助けてください!」と言うと「お気の毒だけど私には、もうそんな権限も何もないから」と部屋を追い出されてしまった。

 ●サラ: 「・・・また、昔国際観光振興会にいた頃の上司が当時出世して官邸に勤めてらして大変な役職に就いておられたんで、官邸に電話して「助けてください!」って言ったら「突然言われても・・」と言われて・・国民救援会にかけても「そんなケース、自分たちの手に負えない」って言って・・・

 どこに行ったら人間を助けてくれる最後の砦があるんだろう?・・・と」

 ■岩上: エリート中のエリ-トたち、いままで非常に親しく付き合っていた、その人たちこそは、地の底に落ちたときには全く振り向いてくれなかったわけですね。

 ●サラ: そう、お金も力もあるのに。・・・で、旅館代も底をついてきたので、日比谷公園で野宿をしようと思ったんですけど・・そう、ホームレスになったの・・でも日比谷公園のベンチの真ん中にホームレスが寝転がれないようにアームのバー(肘掛)があるんですね。寝れないんですよ。
 寝ようとしたけど寝れないんで、あきらめて・・で、結果的には聖路加国際病院に救われて・・チャペルで野垂れ死にかけてたところを救急病棟の先生が救ってくれて、そこで総合検査をしたところ、(米国収監中に)B型肝炎に感染したのに放っとかれた間に、自分で高熱を発して、抗体を作って・・出た時点で抗体作ってたんですね(笑)すごい生命力、自分でもそう思う(笑)。

 ■岩上: アメリカの官憲としては、そのまま死んでくれ、くらいのつもりだったんでしょう。それを生き延びたんですね。やっぱり岩窟王ですね。
 あんまり、言われたくないんでしょう、岩窟王って。

 ●サラ: 岩窟王がよくわかんないんで、教養がないんで・・・私。
  
 ***************  

 
 ●山崎淑子さんインタビュー(18)     <了>。


  



●山崎淑子さんインタビュー(17)
 ●山崎淑子さんインタビュー(17) 

 拘留・収監という名の「拉致」の期間は2年にも及ぶもので、その精神的苦痛は言語を絶するもので、解放後もサラさんは、様々な肉体的および精神的後遺症に苦しめられることとなる。 

 
 ニューヨーク拘置所での1年間の「未決拘留」により、心神こう弱状態に追い込まれたサラさんは、2006年5月19日、心ならずも「有罪」を認めてしまう。

 2006年7月19日、「司法取引」により、実刑2年の判決を受けて、コネチカット州ダンベリにある女子刑務所に収監されるが、模範囚ということで刑期を3ヶ月短縮され、やっと釈放された。

 
 *************

 しかし、「出た途端に移民局の護送車が待っていて、今度はコネチカット州の州刑務所(*移民収容所)に入れられて、『移民としてグリーンカード(永住権)を持っていたけれど、罪を犯したのでグリーンカードを放棄するか、移民法裁判を長年闘うか、どっちかだ』と言われた。

 サラさんは、永住権は不可欠のものなので、はじめは「闘う!」と言ったが、そしたら今度はヨーク移民収容所に、その日(3月26日)のうちに拘留された。 

 拘留中、サラさんはコネチカット州の移民裁判所へ何度も出向き、必死に「手続き」を取ろうとするが、何せ外部との連絡はまったく取れない状態では「手続き」の書類の書き方すら分からず、途方に暮れる日々だった。

 そのうち、持病の喘息の発作もひどくなり呼吸困難に陥ったし、発作時の咳のせいで同房の拘留者の睡眠も妨げたりもしたので、決意して「私は日本人で、これは人権問題なので、ワシントンの日本大使館へ電話したい」と訴えて、電話出来る事となった。

 これが、2007年4月30日のことだという。

 **************

 大使館へ電話すると、領事部にまわされたので、サラさんは、この間の事情を話して、救援を依頼した。

 ところが、「はじめに電話に出た
【タニモト】さんは、色んな理由をつけて、氷のように冷たい声で、何を言っても【禅問答】だった」・・・

 こののままでは、「死ぬ」かもしれないと思うサラさんは、「島津 痛まず ●○目薬」と歌われた「毒にはなるが薬にはならぬ」外務役人そのもののような【タニモト】相手でも怯むことなく話を続けた。

 「とにかく、医療行為だけでも刑務所にさせてください!」と。

 「・・・私(サラ)は、もとの駐米大使の○○さんと知己もあります。その人は二度目の【ワタリ(渡り・天下り)】で天下ってここに居られるはずです。・・・で、家の近くで犬の散歩をしていたショコラちゃんのお母さんの【オワダ・ユミコ】さんを個人的によく存じ上げています。オワダさんのお母さんに連絡とるには、ここに連絡してください。・・・お父さんは、今ハーグ(オランダ)の国際司法裁判所に居るので外務省を通して救済を求めて下さい。

 彼らだったら、どういう外交手段をとったら無実の人を救えるか、少なくとも知っているし、きっと動いてくれるし、私が誰か(どういう人物か)を知ってます。この元大使二人に連絡を取ってくれないなら、今の現役大使とは面識はないけれども、その方に今つないでくれなかったら、私は『タニモトさんが仕事をしてくれなかったから、私は死んだ、という手紙を今日本へ投函しますよ』って、初めて脅したんです。

 それほど、切迫していたし、もうそれ以上しゃべれなかったので、言い切ろうと思って・・・

 そしたら、【タニモト】さんは、


 『分かりました。何かをしましょう。』
と言って電話を切ったので、<何かをしましょう>って・・・日本の役人が<善処しましょう>と言ったときには、きっと何もしないから、【もう私は死ぬんだ】と思ったんです。・・・」 
 
 ●山崎淑子さんインタビュー(17)     <了>。 

 





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