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●満洲国の断面 (18)
 ★いよいよ降参内閣

 ソ軍満洲侵入に備え古紙幣回収策を樹てること
 再び新京を訪れ終戦十九日前に甘粕と語ること 

 
 日本に転任後も、私は甘粕が上京する度毎に必ず会っていた。彼は東条英機に会いに来た。東条に直言しうる人は、甘粕一人であるという噂があった。東条の政治のやり方について、また側近について、また閣僚について、彼は自分の意見をズバズバと東条に言っていたようである。東条も彼の言うことには耳を傾けていたらしい。

 上京すると、甘粕は暇をみつけて、隅田川や東京湾に釣に出かけた。昭和十九年六月、戦局がますます非になって来る頃、彼は満洲国大使館に参事官の高橋源一(宮城県小原村長)を訪れ、釣に行くために服装をととのえねばならぬから心配してくれと頼んだので、高橋夫人は持っている衣料切符全部を甘粕に贈った。

 東條内閣が総辞職すると、甘粕は日本に来なくなってしまった。

 昭和十九年七月東條内閣の総辞職とともに、当然私も官を退くべきであったが、情報局次長・村田五郎がもう少し残ってくれといい、私のために斡旋してくれ、緒方竹虎が私のために勅人情報官のポストをつくってくれたので、私は第一部長を辞し、緒方の下で情報官として在任した。

 昭和二十年三月、鈴木内閣が誕生するや、大本営報道部長・松村秀逸(現参議院議員)は、私のところに来て、「この内閣は降参内閣だぞ。ソ連から中立条約不継続の意志表示があれば、それを機会に降参するつもりだ」と内緒で打明けたので、いよいよ降参の近づいたことを知った。

 この年の五月の初め、大陸連絡会議があって、武部六蔵と古海が東京にやって来た。日本の軍需工場の一部を満洲に移すという陸軍の計画にもとづき、連絡会議が開かれたのである。

 山王ホテルの宿舎に武部を訪れると、彼は私に向って、「日本はどうも敗戦主義だ。今の内閣には戦意がないよ」と言ったので、私はふところから、自作の要綱を出して、彼に示した。それにはこういうことを書いてあった。

 「もし日本に政治家があるとするならば、ソ連と直ちに交渉を開始し、ソ連をこちらに引つけて、ソ連軍を満洲国領内に引込んでしまう。すると世界の戦局は変り、戦争は終結し、日本は外国軍の占領をまぬがれることができる。いずれにしても、満洲国がソ連に占領されることは覚悟しなければならない。そこで満洲国総務長官としてなすべきことが三つある。

 第一は、満洲中央銀行の紙幣二十億円を、ここ一ケ月以内に新たに刷り上げてしまうことである。そして今流通している旧紙幣を全て回収し、刷り上げた新紙幣を流通させ、回収した旧紙幣は廃棄処分にしたこととして、実は廃棄せず、個人の手で保存し、ソ連軍が侵入すると決まったならば、この旧紙幣を日本人に分配しておけば、日本人は生活に困らない。しかもそれが旧紙幣であるから怪しまれることがない。これが日本人の生活を保証し得る唯一の道である。満洲国が滅びても、紙幣は直ちに無効にならない。必ず旧紙幣との交換が行われるから、紙幣さえ持っていれば、日本人は経済力を失わない。

 第二は国籍法を制定し、満洲在往の諸民族を満洲国人とし、在満日本人ももちろん満洲国民としておくべきである。

 第三は日本人の有っている土地を満人の名儀に変え、登記済証を前所有者たる日本人の手持たせておくべきである。

 旧紙幣を保管すべき人物は甘粕をもって最適任とする。」

 武部はこれを見て「君はおかしなことを考える人物だね。僕はソ連に満洲国を全部やることに反対だ。いよいよとなれば、旅順、大連、満鉄は仕方がないだろうがね」と言った。そして私の提言を取り上げなかった。

 それから古海に会ってその話をすると、古海は「ふん」といって、私の書いた要綱に眼を通し、それを自分のポケットに入れ「これを持っていると君が憲兵隊に引っ張られるといけないからぼくが預っておく」と言った。

 それから私は二人と協議して、とに角、日本政府がこれから打つであろう手を、満洲国のために探る必要がある。そして刻々に情報を送らねばならないという結論に達した。そこで私は情報局をやめて、満洲国政府総務庁参事官、東京駐在を命ず、という辞令を貰うことに、話は決まった。

 武部、古海は五月二十四日の大爆撃で山王ホテルをやられ、火の海をくぐり抜けて生命を全うし、無事満洲に帰った。

 甘粕は、その頃すでに敗戦を見通していた。根岸寛一はこの年の五月、甘粕と二人きりで新京の大和ホテルで話した。根岸は「自分は満洲で死ぬのはいやだから、満映をやめて日本に帰る、古野伊之助から日映をやってくれと頼まれているから」と言ったところ、甘粕は根岸を引止めようとした。根岸が、戦争が負けであるという見通しを語ると、甘粕もしぶしぶそれを承認した。甘粕にとっては、敗戦はわかっているが、敗戦を考えることは堪えられなかったようである。

 そこで二人は、最悪の事態に備えて、東京に大東亜映画研究所を作り、大陸から引揚げてゆく若い映画人たちをここに収容し、彼らの生活を保障し、将来の発展に備えるという案を立てた。間もなく華北電影公司とも協議し、案がまとまり、匿名組合として大東亜映画研究所を設立し、根岸がその代表者となり、甘粕が満映から資金二百万円を送るということになった。

 根岸寛一は日本に帰った後、十五万円を甘粕から送ってもらったところで、終戦になって、この案は中絶してしまったが、甘粕は若い映画人の将来を考えて、こういう手を打ったのであった。

 この頃、甘粕は秘書の菅谷(斎藤)亮男を連れて、大連に行き、久しぶりで○子島へ魚釣に行った。斎藤に向って「もう二度とここへは来られないなあ」と言った。その時甘粕は、自宅から会津の小鉄と、先祖が五代将軍からもらったという刀と、二振をもって新京に向った。或いは小鉄で割腹することを予期したのかもしれない。

 七月一日附で私は再び満洲国官吏となった。その頃東京は殆んど焼野原で、敵の艦載機が、日本全土の上を飛んでおり、満洲行は頗る危険であったが、情報をとるには機密費が要るから、武部、古海に会って金をもらおうと思い、かたがた再度満洲国官吏に任ぜられながら、挨拶に行かないのは、敵の艦載機にやられるのがこわく、命が借しいのだろうと思われるのも嫌だと考え、七月六日の旅客機で私は新京へ飛んだ。

 無事新京へ着くや、私は武部に当座の費用として三十万円の機密費をもらいたいと申込んだところ、「差当り五万円持って行ってくれ、それは満洲国大使館を通してて受けとってくれ、それから情報は一切大使館を通して送ってもらいたい、君と僕との直接取引はやめよう」ということであった。

 甘粕は私の来たのをたいへん喜んで、湖西会館で歓迎会を開き、この時もまた私の招びたいと思う者を全部招んでくれた。彼は私が満洲国に帰り、省次長となり、満洲の他方行政をやった方がよいと私に勧めた。満洲国が滅亡に瀕していることを、まだ気付かないのかな、と私は思ったか、そうではなかった。

 七月二十七日朝、飛行機で新京を発つことになったので、二十六日夜は午前一時になるまで甘粕と語った。私はソ連の満洲国占領はなんらかの形において早急に実現することを述べ、武部、古海に告げた古紙幣政策を提案し、旧紙幣二十億円を廃棄処分にしたこととし、実はこれを保存して日本人に配り、その生活を維持すべきで、その役割は甘粕にあることを強調し、是非これをやっていただきたいと言ったところが、甘粕はこう答えた。

 「戦局の推移については、私もあなたと同意見です。しかし旧紙幣を預る仕事は、私のすべきことではありません。それはあなたのなすべきことでしょう。あなたがおやりなさい。」

 「いや、私は満洲国のために日本政府をスパイするのが役割です」と私は言った。甘粕はそれからあまりものをいわず、沈んだ顔をしていた。すでに捨てているなと、私は感じた。

 翌朝午前七時、私を飛行場に送るための車に旧部下・中川忠次郎が乗って大和ホテルに迎えに来た。甘粕はいつものように、きちんと服装を整えて、ホテルの車寄せに立ち、もと私の家の女中で他へ嫁した大島つねという婦人と国通社員の千葉庄二夫妻と四人で、私を見送ってくれた。直立不動の姿勢で、見送してくれる甘粕を、車の窓から見て、私は後ろ髪を引かれる思いであった。

 十一年を経てもなお、その姿が私の脳裏には強く刻みつけられ、他のことは記億がうすれて行くが、これだけは浮き彫りのように残っている。

 七月二十七日、私の乗った飛行機は無事米子に着いた。そこでこの飛行機は敵の艦載機に焼かれてしまった。私は生命を全うして、爆撃の中をくぐり抜け、七月三十日朝、東京に帰った。

 ソ連が満洲国に侵入したのは八月九日、私が甘粕と別れてから十三日目であった。八月十日の朝、私は総理官邸の新聞記者室に馬場という旧部下を訪れ、御前会議の模様を聞き、政府がスイス、スウェーデンを通してポツダム宣言受諾を申し入れたことを知ったが、武部との約を重んじて満洲国大使館の桂定次郎公使を通して、暗号電報で、これを武部に送ったのが千慮の一失であった。それは何処かで押えられて、武部には達しなかった。総理官邸から出たその足で東京逓信局に行き、知人に頼んで、電話で武部に連絡し、甘粕にも伝えておけば、八月一日以降の全満洲における混乱はなかったはずである。これは私の重大な責任問題で、今日でも私の過失から多くの人々を苦しめたと申し訳なく思っている。

 ソ連侵入と聞いて、私が一番先に考えたことは甘粕はどうなるだろうということであった。他の人は何としてでも生きていくだろうが、甘粕には困難がある。しかしもし甘粕が生きようととこころざせば、彼のことであるから、どんな手でも打つであろう。恐らく彼は大連にのがれ、大連から魚釣に使っていた自分所有のモーターボートに乗って天津に逃れ、ソ連の難を避けて日本に帰ってくることができるだろうと考えた。

 しかしそれは武藤式の考え方で、甘粕の態度ではなかった。以下は終戦時甘粕の周囲にいた人々の話を聞いて事実を確かめた上、記す。

 ***************

  続く。
 

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●満洲国の断面 (17)
 ★メロンと爆弾

 甘粕湖西会館を建て外交的手腕を振うこと
 再び協和会に乗りこんで大粛清をやること 

 
 満映の西北に、道路をへだてて、甘粕は湖西会館という瀟洒なクラブを建てた。これは南湖の西に位し、南嶺に臨み、建国忠霊廟を望見し、風光明媚な場所であった。映写室兼宴会場があり、ヴェランダや芝生も美しかった。新京特別市長・関屋悌蔵と組んで、市の土地に作ったものであり、市長も使うことになっていたが、実際は甘粕が社交のために専用するクラブとなってしまった。

 建国十周年の祝典には、甘粕は音楽家の山田耕作を招待した。山田とともに、辻輝子、伊藤武雄、斉藤秀雄など十数名の音楽家が来満した。甘粕はこの会館でこれらの音楽家をもてなし、満洲における音楽興隆への協力方を頼んだ。またドイツ公使、イタリー公使などをも招待して、映画会、音楽会を開いた。

 尾上菊五郎が建国十周年使節として大谷竹次郎と来満したときも、彼はここで一行をもてなした。私も同席した。
 
 大震災の時、尾上菊五郎の稽古場が憲兵隊の臨時事務所になり、甘粕は菊五郎やその母堂や息子と親しくなった。ところが甘粕の姿は九月十六日に見えなくなってしまったので、菊五郎も母堂も心配していた。

 菊五郎は憲兵隊本部へ出かけ、甘粕の消息を聞いたが、けんもほろろの挨拶で数カ月経て初めて新聞で事情を知った。しかし、甘粕が人殺しをしたとは信じられなかった。

 菊五郎は甘粕と当時の思い出を語り、歓談尽くるところを知らないほどだった。

 
 話は飛ぶが、甘粕と石原莞爾とは親しい間柄であった。それでいて満洲国に関しては、一種の政敵関係にあった。

 私は石原莞爾には、一度しか会わなかった。協和会宣伝科長のときに、北支側で作ったポスターが協和会に送られてきた。日本の兵隊が城門の上に乗って足を拡げて万才を唱えており、城門の下に支那の民衆が歓呼の声を上げているというポスターであるが、城門を低く描きすぎているために、まるで日本の兵隊の重い靴が支那の民衆の面を踏まえているような画であった。甘粕と私とがこのポスターを見ているとき、石原が入って来た。

 私は「このポスターを眺めていると、日本の兵隊が泥靴で支那民衆の頭の上を歩いているように見えるな」
 と言った。すると石原莞爾は

 「君、事実はその通りだよ」
 と応じたので、面白いことをいう人物だと感じた。

 総務庁次長・松木侠(現鶴岡市長)は石原の崇拝者で、

 「石原さんは天才だ。満洲建国当時、満鉄も日本政府も満洲を利権の対象として考え、いかにして満洲の地に日本の利権を確保し、また拡大するかということを策していたのに、石原さんはこの対立意識をさらりと捨てて、日本人が満洲国の中に入り込んで、満洲国の構成分子になり、民族協和でゆくのだと主張した。そこに満洲建国の精神がある」と私に語ったことがある。

 ファシスト使節団長・パウリッチに民族協和を説明したとき、彼はこれに興味をもち、その思想は誰の創意によるかと問うたので、私は石原莞爾と答えた。パウリッチもこれにはひどく感心していた。
 ところが、甘粕にかかると、石原将軍もあまり値打のある人物ではなかった。甘粕は次のように言った。

 「石原莞爾は私の親しい同僚です。彼は大彼までは勤まる人ですが、将にはなれない男なのです。彼は参謀としてはすばらしいが、衆をひきいる男ではありません。彼のまわりにいる人物を見てごらんなさい。性格が弱く、能力の低いものばかりです。石原にくっついて自分の地位を保とうとする人間だけしか、彼にはつかないのです。だから、やくざ級のものが沢山彼のまわりを取りまいています。協和会がうまくいかないのは、石原を取りまいている連中が幅を利かしていろからなのです。」

 ある時、甘粕は私にこう言った。

 
 「石原が満洲にいることは、今日では満洲国のためにならぬから、私は彼に帰れと言いました。」

 それは、石原が満洲を去った後のことであった。

 その頃、宴席で食後のメロンがでて、みなが爆弾の大きさとメロンとを比べて、話がはずんだとき、甘粕はこんなことを言った。

 「私は爆弾を一個、押入れの中にしまっておきましたが、どうしたわけかそれが見つからなくなったのです。関東軍の或る男★に、私の言うことをきかせなければならぬことがあり、言うことをきかなかったら、その爆弾を使おうと思って、押入れを探したのですが、見つかりませんでした。そこで代りにピストルを持って行きました。」

 私は「ぶっ放したのですか」と聞いた。

 「いや、その必要はなかったのです。彼は私の言うことを聞きました」

 と甘粕は言った。私はその時、どうもこの相手は石原莞爾ではないかと直感した。

 
 協和会は昭和十五年頃には、相当な発達を遂げ、各省におかれた省本部、各県におかれた県本部いずれも充実し、全満にわたって、組織は強固になっていた。一方、支那事変の戦局が苛烈になるにつれ、軍の要請によって、政府が民衆の財力や労力を搾取する政策は強化されていった。

 そこで、民衆(満人大衆)の味方をもって自任する協和会日系職員は、政府を通して民衆を圧迫してくる軍の政策とぶつかり合うことになった。同じ日本人でありながら、政府の職員すなわち官吏は民衆に強く当たり、協和会職員は民衆の側についた。そのため宣徳達情、上位下達を使命とする協和会の組織が、逆に国政を阻害する結果となり、協和会そのものが満洲国政冶のジレンマをなすに至った。この情勢を打開し得る人物は、甘粕以外にはなかった。

 そこで、昭和十五年十二月末、関東軍は甘粕に協和会総務部長再任を頼んだ。甘粕は満映理事長兼任のままならば引受けると言って、期間を三ヵ月にするという条件を付し、私のもとにその許可を受けに来た。こういうときの甘粕は、きちんと礼儀を守って、もとの部下に対し、監督官庁としての敬意を払い、事情を述べて許可を乞い、且つ三ヵ月の間、半日だけ協和会に勤務するが、満映で午前に働くか、午後働くか、どちらにしましょうかということまで、私の指示を仰いだ。

 翌十六年一月、甘粕は再び協和会中央本部に乗り込んだ。一週間たつと、建国以来未曾有の大粛清が行われた。今度は、前もってリストを用意しておき、総務部長として乗りこむやいなや、満洲国に来て協和会以外の職場で働いたことのない日本人は、原則として解職るから、他の職場に入って経験をつむこと、政府と協和会職員の人事交流をやることというような方針をたて、職員の全面的大更迭を発表し、これを実行してしまった。更迭の数は千数百人に及び、新聞紙の二面を埋めつくした。

 このようにして彼は、協和会の職員と政府とが協力するような体制をつくり上げた。

 協和会職員と政府との摩擦は、今日から見ると必ずしも非難すべきことではなたかった。彼らが建国の理想とした王道精神から言えば、官の圧迫に対して民衆の側に立って抗争することが、本来の使命だったにちがいない。しかし、当時の事情はこれを許さず、甘粕をして大鉈をふるわしめたのであった。

 こういう点から、満洲の政治を見れば、それは二つのイズムをもっていたといえよう。

 一つは石原イズム、

 一つは甘粕イズムであった。
 
 ****************

   続く。 




●満洲国の断面 (16)
 ★岸流兵法の第二課

 岸信介日本に於いて新党樹立を企てること
 甘粕、武藤に出馬を思いとどまらせること 


 昭和十五年七月、星野直樹は第二次近衛内閣の企画院総裁となって満洲を去り、武部六蔵が総務長官として赴任した。古海忠之が次長となった。私は武部のもとにおいても、その地位を保ち、昭和十六年の夏、満洲国通信社法、新聞社法を交付して、通信社及び新聞社を完全に政府の監督下におさめ、その重役の任免権を握り、経営的にも編集的にも、言論機関を完全な国家統制の下においた。

 大東亜戦争が勃発して間もなく、昭和十七年の一月末、私は満洲国通信社長を日本からつれて来ようというので、同盟通信社の社長・古野伊之助に会うため上京した。古野との会談で松方三郎(現共同通信社長)に来てもらうことに話を決め、ついでに、東条、星野にも挨拶した。

 すると、商工大臣・岸信介から会見を申しこまれ、当時築地にあったバラック建の商工省に連れて行かれ、大臣室で岸と話した。

 話は元に戻るが、昭和十四年十月、岸が商工次官となって満洲を去るときに、私たち数人の満洲国官吏が岸に会見した。

 その際集まったのは、私のほかに管太郎(現衆議院議員)、山管正誠(現弁護士)、都甲謙介(ソ連抑留中死亡)、竹下佐一郎(現北陸新聞企画局長)、五島徳次郎、田川博明、毛利富一などであった。私たちは岸とともに日本の将来を論じ、日本で新党ができるとときは馳せ参じようと約束した。岸はその時まだ四十二才であったが、政治資金の作り方について、私たちのために一席弁じてくれた。


 「政冶資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らねばいけない。問題が起ったときは、その濾過機が事件となるので、受取った政治家は、きれいな水を飲んでいるのだから、かかりあいにならない。政治資金で汚職問題を起すのは濾過が不十分だからだ。」


 これが私の学んだ岸流兵法の第二課であった。


 さて、商工大臣室で岸に会って見ると、案の条、新党の話であった。「いよいよ挙国一致、新党を作って大東亜戦争をやりぬくことになった。真珠湾やマレーの大戦果で、国民は有頂天になっているが、これは、年の若い特攻隊員数十人の手柄によるもので、日本の実力ではない。実はこれからが大へんなのだ。だから、新党をつくり、その政治力によって戦力の増強を回り、この戦争をやり抜かねばならぬ。ついては、かねての約束通り、満洲国から、四、五人の同志をつのり、今度の総選挙に打って出て、新党結成に参加してもらいたい」と云うのである。


 その時、岸は「新党を作っても党首がなくて困る。東条は裸にすれば橋本金欣五郎以下だ。山本五十六は国民的尊敬は受けているが、政治家ではない」と言ったので、私は「尊公自ら買って出たらどうか」と水を向けたところ、岸は「ほん」と言った。

 それから私は冗談半分に、
 「選挙資金は十分出すか、また選挙干渉をするか』
 と聞くと、岸は
 「出す、そしてやる」と返事をした。

 それならよいだろうというので、私は岸の申入れに応ずることになり、新京に帰り、山菅(当時竜紅省次長)、都甲(当時大同学院教頭、後の北安省次長)、五島、田川(協和会参事)竹下(弘報処参事官)その他と協議した結果、私と山菅と都甲の三名が官を退いて日本に帰り、総選挙に打って出ることに決まった。一週間後に出発することとし、飛行機の座席を三つ取った。

 その晩、私は古海忠之のところに行って、そのことをうち明けると、古海はすでに岸の将来を見通しており、

 「それは壮挙だ。大いにやり給え。ぼくが武部長官の諒解を得てやろう。ことによると将来、ぼくも馳せ参ずるかもしれない。岸は大物になるかるね。それに選挙は男子一生に一ペんはやっておくべきものだ」と言った。

 それで私はよい気特ちになって、大和ホテルに甘粕を訪れ、いきさつを話した。

甘粕は私の話を聞くや、沈痛な顔になってこう言った。

 「今日まで二年半のあいだ、武部長官はあなたを信任して来ました。しかるに、あなたが岸に誘われて、長官の信任を裏切るのはよくないことです。古海を介して長官に話したのでは、礼を失します。あなた自身、長官のもとに出向いて相談をし、その諒解を得るのが道です。」

 なるほどその通りだ、古海には政治的野心があるから、甘粕ほど透徹した物の見方ができないとわかり、私は自分の非を悔いて、その足で夜おそく武部六蔵をおとずれ、事情を話した。武部は私の話を聞いて、うーんと唸った。そして次のように言った。

 「実は三月の初め、張国務総理が、建国十周年謝恩特派大使として日本を訪問することに決まり、君に隨員になってもらうつもりでいた。それはそうとして、君が職を賭して日本に帰るというならば、君に代る人もあるから、敢えて君を引止めない。しかし、政府の要職にある二人の人物をかたらって、ことに、竜江雀次長として赴任後三ヵ月しか経たない山菅を引連れ、徒党を組んで満洲国を脱出するというのは穏かでない。君一人が岸の陣営に馳せ参ずることは自由だが、勅任官三人がいっしょになって行くところに政治問題がある。」

 「すると長官は、われわれのやらうとすることに反対なのですか」
 と私が言うと、武部は

 「そうだ。たとえ私が承認しても関東軍司令部は恐らくノーと云うだろうな」
 と答える。そこで私は

 「関東軍司令部がノーと云っても、これを押し切って、われわれが日本に渡り、総選挙に打って出たとすれば、どういう結果が起りますか」
 と聞いた。すると武部は

 「それは君、総務長官の進退問題だよ」
 と答えたので、これはなかなかえらいことだ、長官の首をかける結果となるなと思った。

 そこで、暫く考えさしてくれと武部に言って、そこを辞し、また甘粕のところへ引き返し、「武部は、おれの首の問題だと云っていましたよ」と報告したところ、甘粕は


 「武藤章と岸信介が組んでやっている新党問題は、はたしてうまくゆくかどうかわからかいというのが私の勘です。この問題は即決せずに、私に任せて下さい。二、三日中に東京へ行きますから、陸軍の連中と会って、事情を探ってみます。その上であなたに返事をしましょう」

 と言うのであった。

 甘粕は数日後、東京から私に電報を打ってよこした。

 「情勢変化す、今回は思い留まれよ」というのであった。

 新党結成は結局崩れて、翼賛政治会となってしまった。満洲の新聞は少しも実情を知らなかったが、日系官吏徒党を組んで立候補すという抽象的な情報を、日本側から嗅ぎつけたものか、「日系官吏と総選挙立候補の可否」などという論説を書いた。

 このことのために、私は武部六蔵の信任を失い、大分地位があやしくなって来た。しかし、立候補思い切りが決定するや、武部は私を謝恩特派大使・張景恵の随員として、日本に送ってくれた。

 この年の四月、日本での任を果して帰ってくるや、武部は私をシャム公使館参事官に送ろうとすることに決めたので、私は満洲新聞社の社長・和田日出吉に会い、月給千円で新聞記者に雇ってくれと申しでて、その承諾を得、いよいよ新聞記者になる覚悟を決めたが、武部はそれを知って、私の左遷を思い止まった。そして、私はまた一年居座ることとなった。

 この頃には、甘粕は満洲国弘報界の元老の役割を勤め、ことごとに私の後楯となり、地位を擁護してくれた。私が何かの政策を実行しようとして反対が起こると、甘粕は蔭になり、日向になって、その障害をとり除いた。

 ある時、私があまり長く弘報処長を勤めたので、これを代えた方がよいという議が、関東軍司令部に起り、どこかの省次長に転任させるという噂があった。すると、甘粕は私を前にしてホテルの自室から参謀副長の秦彦三郎に電話をかけ、


 「おい秦か、君は武藤を転任させるか、させない。そうか、そのままにしておくか、よろしい」と言って電話を切り、

 「秦が大丈夫といえば大丈夫です」 と言った。


 ****************

   続く。 




●満洲国の断面 (15)
 ★発財(ファーツァイ)! 発財! (*部分)  

 略・・・
 ・・・このようにして、資本金二百万円の映画館会社が出来上がり、全国各地に映画館の建設が進められ、映画というものが、初めて満洲の辺境に入って行くことになった。

 映画館の行渡らない奥地には、十六ミリトーキーと発電機とをもった巡回映写隊が、幾組も出張して、県公署や県協和会本部と組んで、娯民映画、啓民映画を上映して民衆に見せた。

 巡回映画は、私の部下であった堀正武参事官(一万田・大蔵大臣秘書官)が、満映を指導して実行し、後に藤山一雄の世話で、★大塚有章という人物が満映の巡映課長になった。大塚は共産党大森ギャング事件の巨頭で、昭和の初め、党資金を得るため、大森の銀行を襲撃し、七年の刑を終って満洲に渡り、同郷のよしみで、藤山一雄を頼ったところ、藤山は甘粕にこの人物を頼みこんだので、甘粕は転向者としてこれを受け入れ、巡映課長に任じたのであった。

 *****************

 ★グランド劇場の前でニヤリ

 甘粕国際的謀賂を趣味とすること
 劇団を援助し交響楽団を作ること

 昭和十五年九月、日本軍部が仏頂インド支那に進駐すると間もなく、甘粕の行方がわからなくなった。満映では、大連のお宅に帰られたと言っていたが、私はどうもおかしいと感づいた。二週間ほど経って、彼は社に帰って来た。

 「仏印乗り込みですか」

 と、かまをかけると、彼はさりげない調子で言った。


 「ちょっと海南島へ行って来ました。仏領インド支那の人たちで軍隊をつくり、これを海南島で訓練して待機する必要があるのです。」

 映画会社の社長がとんでもないことをするものだと思った。


 その頃、甘粕は満映の北支進出を考えはじめた。北支は人種的に満洲国と不可分の関係にあるから、日本が北支に深入りするよりも、満洲国が北支と結びつく方がほんとであろというのが、彼の持論であった。そこで彼は北京に映画館を一つ買い入れ、新民戯院と名づけ、満映が作った映画をここに送り込んで上映する計画を立て、これを実現した。

 さらに北京に撮影所を作って、京劇を撮影し、これを満洲に持ちこんだ。映画は文化の低い所から高い所には流れこまない。文化の高い所から低い所に流れこむ傾向がある。だから、北京で作った映画を満洲に入れるのがほんとで、満洲で作った映画を北京に入れるのは逆であると言っていた。

 この頃、上海に中華電影公司というのがあり、川喜多長政(現・東亜商事社長)が、副理事長で、軍と結びついて所謂上海映画の統制権を握っていた。

 甘粕は川喜多と折衝し、上海にも満映の作品を入れることに成功した。

 昭和十六年の春、上海共同租界の映画館グランド・セアターに満映の作品「国法無私」が上映され、入口に日満支三国旗が掲げられた。甘粕は映画館の前に牧野光雄と立って、この旗を仰ぎ、にやっと笑った。


 三島徳太郎★(仮名)という人物がいた。政府の官吏で、蒙古行政をやった男であったが、この頃、★官を退いて謀略活動をはじめた。チベットの安珍ラマが北京に来ているから、日本人一人をラマ憎に化けさせ、安珍ラマにつけてインド経由でチベットに潜入させ、チベットの情報をとり、将来、日本の大陸政策に資するようにしようと考えていた。そして、関東軍の係の軍人と連絡を取り、日本の参謀本部にも行き、満鉄あたりから資金を出させることに成功した。

 三島と私とは、★数年前から親しい間柄であったが、彼はこの計画を実行するために、甘粕の援助を借りなければならないことになり、私に紹介方を頼んで来たので、新京の大和ホテルで、三島と甘粕とを会わせた。

 三島を甘粕に紹介すると、甘粕は

 「あなたも私と同じ趣味ですか」 と言った。

 「はあ」と三島は答えた。

 とんでもないことを趣味としている二人の人物を引合わせて、私は、世の中には面白い型の人間がいるものだ、と思った。

 半年ほど経って、甘粕は私に次のように言った。

 「あなたが紹介した三島という男はひどい人ですねえ。私が長い間可愛がって訓練しておいた人物が北京にいたのです。ところが三島はそれを引張り出して、安珍ラマにつけ、チベットヘ入れてしまいました。私のなわばりを荒しては困りますね。」

 それで私は三島の成功を知った。甘粕は三島の悪口を云ってはいるが、内心はその腕前に感心しているようであった。それにしても、その道にはその道で、プロデューサーと俳優とがあり、プロデューサー仲間で俳優の取りあいをやるものかと感心した。


 満洲国は軍国主義の本場と思われていただけに、音楽、演劇、文学、美術みな萎縮していた。関係者も何か国策の線に従わなければ、命脈が保てないような錯筧に陥っていた。 
 
 そこで私は昭和十五年の秋、芸文指導要綱というものを作って、美しいものをどしどし作り出すことによって、満洲国を美化するという政策を立て、政府及び関東軍を動かして、これを納得させ、予算も相当に取った。こうして満洲国のルネッサンスを図ろうとした。甘粕はこういうことが大好きて、政治的にも実質的にも全力をあげて私を推してくれた。

 彼は協和会総務部長在職中、音楽家の大塚惇を招いて、交響楽団の編成を計画していたので、満映の業績があがると、新京放送局にも呼びかけ、本格的に新京交響楽団の結成に乗り出した。

 東京へ行ったとき、彼は山田耕作と接触し、優秀な音楽家を送ってくれるように山田に頼んだ。また市長の才長の関屋悌蔵と組んで満系音楽家の教育施設、新京音楽院をも作り、これを援助した。

 今東映にいる藤川研一 (公成)は満人俳優を組織化して、大同劇団をつくり、ゴーゴリの監察官などを漢語に翻訳して上演したり、中国の新劇などを試みたりしたが、経営不振でいつも苦しんでいた。私が援助方を頻むと、甘粕は満映から補助金を出してこれを助けた。大同劇団は熱河工作に活躍し、漸く形ができ上ると、北京に乗りこんで上演した。芸はうまいが、言葉がズーズー弁だという批判を受けた。北京語に比べると、新京弁は東北弁みたいにズーズー弁だったのである。

 昭和十五年から十六年にかけて、満洲の文運大いに興り、演劇、音楽、美術、文学共に花を開いたかの観があった。

 甘粕はまた画家を愛した。日本から来た画描きが彼のところに画を売りに行くと、たいてい買ってやった。ずい分下手くそな画でも、言い値で買い上げた。しかし、美術の鑑賞眼は非常にすぐれていて、余程いい画でないと、目分の部屋や会社の重役室にかけることはしなかった。

 ****************

   続く。



●満洲国の断面 (14)
 ★二重橋の前で一升徳利

 甘粕青木経済部次長を襲って外貨を出させること
 所謂国策映画を排し娯民映画啓民映画を作ること  


 その頃、東洋一と称するスタジ才が出来上った。彼は私を案内して、その内部を示しながら、こう言った。

 「東洋一は図体の大きいことだけです。中味と来たらすこぶる貧弱なものです。あなたと二人で、ベルリン郊外にあるウーファのスタジオを見に行きましたね。おぼえておいででしょう。あちらに一棟、こちらに一棟と分割してスタジオが建てられております。そして、大きな映画を作るときには、これに附設して臨時のスタジオをつくることができるだけの余地を残してあります。また、すばらしい温室があって、四季の植物、熱帯植物までもあったのをいっしよに見ましたね。

 ところが、ここでは大きなビルの中に、部屋割をして六つのスタジオを作ってある。だから動きがとれない。大きた建物の中に、スタジオをひとまとめにして作ったのは、明かに失敗です。しかし、通風機の音が、たえず聞こえてきて、トーキイの音響効果が悪い。またこんな大きな建物の外側に金をかける位なら、建物を安直にし、費用を節約し、それでセットを豊富にし、温室を作り、交響楽団をもつべきものでした。また、スタジオも新京たけに作らずに、これを北満と南満とに作り、風物の変化を取りいれ易くすべきでした。

 また、この施設をごらんなさい。ある所は機械でやっているが、ある所は機械が手に入らないために、手で仕事をしています。せっかく機械でスピードを出していても、流れ作業が手に移るために、機械工業が手工業の速度に落ちてしまい、政府の生産能率は上がらないのです。たから手でやっているところを機械に代えてしまわない限り、予定通りの生産をあげることはできない 甘粕は、スタジオの充実に乗り出すや、まず、第一に、ドイツのツァイスその他から、最新式の必要な機械を購入し、スタジ才の完全機械化を図ることに着手した。

 甘粕就任前、満映の幹部は、経済部(通産省に当る)に外国為替割当の申請を幾度もしたが、軍需優先の時代であったから、映画など緊急の必要がないというので、いつも却下されていた。このいきさつを知った甘粕は、就任三ヵ月目に、外国為替獲得に乗り出した。

 朝七時、経済部次長・青木実(現常盤相互銀行頭取)に電話をかけ、これからお宅へ行くと云う。青木は寝ているところを起こされ、すこぶる不機嫌で、ご用があるなら、役所で会いましょうと返事をすると、甘粕はいや、すぐ行きますと言って、電話を切り、直ちに青木のの家に乗りこみ、応接間に坐りこんでしまう。

 それから青木に面会し、外国為替の割当を頼みこむ。

 「東洋一と称するスタジオは出来たが、図体ばかりでかくて、中味はからっぽです。これでは仏作って魂入れずだから、何としてでもドイツ為替をもらいたい。軍事費に比べれば九牛の一毛にすぎない。しかも、人心を捉える点から云えば、政府は軍備よりも大切だ」と例の簡潔な口調で押してゆく。

 筋を通すことと、つっぱりの強いことで定評のある青木も、甘粕の攻撃を受けては防ぐ術もなく、何とかしましょうと返事をしてしまう。

 社に帰るや、甘粕は、経済部へ行って外国為替をもらって来なさいと命じ、直ちにシベリヤ鉄道を通って、ドイツに機械を買いに行く人選と、出発の日取りとを決め、ついでに小遣いをやって、欧洲状勢の視察までさせる段取をつけてしまう。こうしてスタジオは初めて充実し廻転されることとなった。

 人事とスタジ才の整備が一段落すると、甘粕はスタジオ運営の能率化を図った。理事長宣の壁面には、各種のグラフが張られ、第一から第六のスタジオまで、空いている時がないように使う仕組である。うまくいかないと、責任者を呼んで注意する。

 次ば映画の内容を面白くすることに努めた。

 これについて、甘粕と私とはいつも意見が一致していた。劇映画はなるべく面白いものを作れ。観衆がこれを見て、泣いたり笑ったり、感動したりして楽しむものでなければならぬ。国策映画などというと、無味乾燥になって、人の心をほごすことができない。日本では盛んに国策映画などといって、劇映画に国策を盛り込んでいるし、また業者も、そんなことをして軍や政府にへつらっているが、満洲国の国策は面白い映画を作って民衆を楽しませることにあるのだから、日本の真似はするな。面白くもない国策映画ほど、くだらないものはない。こういうことで、人心を収攬しようという考えは間違いである。戦時体制下の緊張をやわらげ、民衆に生きる喜びを与えるのが、劇映画の使命である。産業や経済建設や建国精神を示す映画は文化映画として、真正面から取り組んでゆきなさい。映画を濁してはいけないというのが、二人の一致した意見であった。そこで甘粕は、劇映画、文化映画という言葉を廃して、★娯民映画、啓民映画とした。民を楽しませる、民を啓発するという意味である。社の機構も、これに合せて、娯民映画部、啓民映画部というのを作った。

 料亭へ行って、芸妓の中に百面相の上手なのがいると、甘粕は

 「武藤さん、こういうのは映画にどうですか、満洲土着の芸人たちの演芸の中に、こういうのを混ぜ合せて、娯民映画を作りましょう」などと冗談をいう。

 今日では当り前のことだが、当時の情勢では日満両国にこれだけ思い切ったことを言い、且実行できる人は、甘粕をおいて他になかったであろう。

 こういう調子だから、純粋な意味での劇映画が次から次へと作られた。もっともスタッフが貧困だったから、独創的なものは少なく、金色夜叉をほん案して、貫一・お宮に満洲服を着せ、熱海の海岸を星が浦にしたのや、『己が罪』を満洲ふうに書き直した程度のものが多かった。

 甘粕はどうしても満系の中に、シナリオ・ライターと監督とを作らねばならと考え、木村荘十二を日本から招いて、映画人養成所を創立し、十年先には、満系のシナリオライターの作品を満系の監督と俳優とで演ずるように備えた。またフィルムの国内自給を考え、豆がらからフィルムベースを作る案を立て、研究費を出して満鉄の試験所に研究を依頼した。

 こういう次第だから、甘粕をもって、右翼の浪人とみなし、彼が満映の理事長になれば、日本精神や、建国精神を劇映画に仕込んで、人に押しつけ、映画を無味乾燥にするだろうと思っていた
人々は、全くその逆なのに驚き、なるほど甘粕は文化人であると、みなが承認するようになった。

 この頃から、国民精神総動員という言葉が、日本にはやりはじめたが、甘粕は日本でそのポスターを見、帰って来て私にこう言った。

 「日の丸の下に国民精神総動員などという文字を書いたポスターを到るところに貼ってありますが、こんなことで、精神が総動員されると思っているのがまちがいです。宮城の前を電車が通
るとき、帽子を脱いで頭を下げさせることになったようですが、こんな馬鹿なことをさせる指導者は、人間の心持がわからない人たちです。

 こういうやり方は偽善者を作ることになります。頭を下げたい人は下げたらよろしいし、下げたくなかったら下げなくともよろしい。国に対する忠誠は、宮城の前で頭を下げる下げないで決まるわけではありません。悪いことをしていながら、宮城の前を通るとき、頭を下げたとてそれが何になりますか。日本の政治家のやっている形式主義は、日本人を偽善者にし、二重人格者にするおそれがあると思います。私は二重橋の前に一升徳利をぶら下げて行って、宮城を見ながらあぐらをかいて、酒を飲んでやろうと思いました。」

 「こういう精神指導を誰がやっているのでしょう」
 と、見えすいたことを聞くと、甘粕はこう答えた。


 「そりゃ、軍人どもですよ。それから軍人に迎合する人たちですよ。軍人というものは、人殺しが専門なのです。人を殺すのは、異常な心理状態でなければできないことです。一種の気ちがいです。毎日毎日、如何にして、人間を多量に、そして能率的に殺すかを研究し、訓練しているのが軍人なのです。その軍人が現職のまま法科大学に籍をおいて、法律や経済を習ったことが間違いのもとです。その時分から軍入が政治に口を入れるようになったのです。気ちがいが政治をやれば、政治がゆがむのは、あたりまえのことです。」


 自分が軍人出でありながら、軍国主義批判はなかなか手きびしい。だから英米に関係のあるレコードや音楽を禁ずるなどという日本のやり方には、頭から反対で、私と一緒になって、人心の自然に反するような統制をやるのはまちがいだと主張した。

 音楽は、英米人の作であろうが、露独伊人の作であろうが、区別すべきでない。典雅壮麗なものであれば何でもやるべし、というのが、甘粕の主張であった。

 その頃、私はは治安部(内務省に当る)のもっていた検閲を、すべて弘報処(情報局)に吸収し自分の権限下に入れてしまった。治安部から私のもとに引きとられた幹部たちは、中国から輸入する映画の検閲にあたって、かたくななことを主張するので、私は困った。

 例えば、唐や宋の皇帝を主題とした訣画が出て、皇帝が失恋して悲しむというような、ロマンティックな場面があると、それは満洲国の皇帝の尊厳を害するからいけないというので、上映禁止をする。

 すると、甘粕はこれに抗議してくる。

 洽安部から引取った官吏をすぐ転任させてしまうと、反動が強く、反って検閲権を取りもどされ、益々かたくなになってしまうことを恐れ、私は、自ら中国映画を見た上で、甘粕と検閲係の間に入って、折衷策をとって、両方の顔が立つように骨折ったものである。

 甘粕はこういう点では、自由主義の立場にあった。

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   続く。






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