カウンター 読書日記 落合論文「吉薗周蔵と陸軍の裏側」
読書日記
日々の読書記録と雑感
プロフィール

ひろもと

Author:ひろもと

私の率直な読書感想とデータです。
批判大歓迎です!
☞★競馬予想
GⅠを主に予想していますが、
ただ今開店休業中です。
  



最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(52)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(52)        ◆落合莞爾
 ― 維新を牽引した「南朝正統論」と「隠し玉」の真相 

 
 ★水戸藩から長州・薩摩へ 南朝忠臣・楠公尊崇広がる

 前月稿(三月号)で述べたように、幕末維新をもたらした対立軸に三あり、①開国と攘夷、②公武合体と倒幕、③皇統南北論、これである。今月は主に③について述べる。皇統南北論とは、「万世一系の皇統とは現に仰ぐ北朝皇室か、それとも足利覇権に追われて歴史の闇に消えた南朝か」を論ずる歴史疑義のことである。室町時代以来、後者すなわち南朝正統論が識字階級の心理に潜在していたが、江戸の末期に南朝の忠臣楠木正成(楠公)を顕彰する政治運動として突如発露した。楠公は後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王を支えて足利尊氏に対抗したため、足利氏が擁立した北朝から逆臣とされ、後南朝勢力がしばしば蠢動した室町時代には朝敵の扱いを受けていた。永禄二年(一五五九)に至り楠公の末裔楠木正虎が正親町天皇の勅免を取り付けたが、その後幕府が徳川氏に替っても公然称揚する者がなく、半ば謀反人扱いの楠公を初めて顕彰したのは水戸二代藩主徳川光圀で、元禄五年(一六九二)楠公戦死の地湊川において楠公の墓碑を建設した。

 幕末に至り、水戸藩主徳川斉昭の師の藩儒会沢正志斉が、著書『草堰和言』で国家功臣の祭祀の必要を論じ、例として「楠木贈左中将」を挙げた。「今楠公」といわれた久留米水天宮の祀官★真木和泉は、安政六年(一八五九)に『経緯愚説』(*野宮定功に呈するため、安政五年六月?)を著して会沢説を継ぎ、楠公ら古来の忠臣義士に贈位すべきことを論じた。学習院で下級公家や勤皇志士と交流した真木の影響で、閑院宮系朝廷の内部に楠公尊崇の機運が生じ、武家伝奏野宮定功を通じて献上された同著を孝明天皇は直ちに嘉納された。文久三年(一八六三)学習院出仕(六月)を拝命した真木は、八月十八日の政変で京を追われた三条実美ら尊攘派七卿の長州落ちに同行する。旅の途中、七卿が湊川に立ち寄り、楠公墓碑を参拝したのを見ても、尊攘倒幕思想と南朝思慕感情の関連は明らかである。

 尊攘派の七卿と真木ら志士を迎え入れた長州藩が、元治元年(一八六四)藩校明倫館で楠公祭を執行するのは、真木の影響というより、吉田松陰以来藩内に培われた南朝正統思想によるものであろう。楠公祭は他藩でも盛んに行われた。佐賀藩では夙に嘉永三年(一八五〇)、枝吉神陽・副島種臣・島義勇・大木喬任が発起人として結成した楠公義祭同盟に、後日江藤新平と大隈重信が加わる。薩摩藩では万延元年(一八六〇)有馬新七が建てた楠公社の鎮座式に大久保利通・伊地知正治・岩下方平などが参列し、遠島のために参列できなかった西郷隆盛は明治になって同社を鹿児島軍務局に移し、軍務局廃止後は私学校に移した。南朝武士菊池氏の末裔を意識していた西郷の楠公尊崇はかくも強かったのである。

 水戸学の影響を受けた薩摩藩士折田年秀が文久三年、楠公の国家祭祀のための神社創建を提言すると、薩摩の国父島津久光は翌四年、京都留守居役を通じて楠公・護良親王及び北畠親房ら南朝忠臣を祀る神社の創建を朝廷に建白する。これを天皇が即日聴許されたことを知った幕府は、自ら楠社の創建を図るが、既に勅許が下りた薩摩藩の楠社創設を認めざるを得なかった。楠社創建の準備のため、西郷隆盛と吉井友実が湊川で社地を検分していた当日に池田屋事件が起こり、やがて禁門の変で薩摩藩と長州藩が戦闘状態に入ったので、薩摩藩の楠社創建は一時中断することとなった。

 ★土佐勤皇党出身、後に長く宮内相を務めた土方・田中

 明治維新を推進した薩長土肥のうち、三藩には楠公尊崇の事績が顕著であるが、土佐藩は藩祖山内一豊が家康から土佐一国を拝領して以来、幕府尊重の念が深く、藩主山内容堂は公武合体派の重鎮であった。独特の郷士制度と厳格な藩士の上下差別を定める土佐藩では、藩政を握る保守門閥層と差別打破を念願する下士階層の心底に、楠公尊崇において異なる処があったらしい。下士武市瑞山(半平太)は文久元年(一八六一)七月、たまたま江戸で出会った薩摩藩士樺山資之、長州藩士久坂玄瑞と麻布の長州藩空屋敷において三藩下士連盟を約し、これに基づき挙藩勤王を目指し、土佐における攘夷運動の中核として土佐勤王党を結成する。党員は下士を主とし郷士・地下浪人・庄屋などで、上士は二名に止まり、郷士坂本龍馬は武市との意見相違からやがて党を去る。二百石の上士で用人格の土方理左衛門の嫡子土方楠左衛門は武市に傾倒して入党、文久三年藩命により上洛し、八月十四日に朝廷から学習院御用掛を拝命するが、四日後に八月十八日の政変が起こり、七卿の護衛となって長州に移った。第一次長州征伐に敗れた長州で、俗論党により藩論が佐幕に傾いた時、単身萩城に乗り込み、毛利侯に謁して勤皇倒幕を説いた土方は、鳥居強右衛門・木村長門守と並んで史上の三大使者と呼ばれた。土佐藩家老深尾氏の家来田中光顕(一八四三~一九三九)も武市に傾倒して入党し、八月十八日の政変で尊攘激派として謹慎処分を受けたが、翌元治元年に脱藩し、長州藩を頼って高杉晋作の弟子となった。

 維新政府の顕職を経た土方は、明治十八年に発足した宮内省の初代大臣伊藤博文の後を受け、明治二十年(一九八七)から三十一年(一九九八)まで大臣を務めた。後継の田中光顕も明治四十二年まで宮内相を務め、合わせて二十二年間も宮内省を支配した両人は、天皇親政を唱える中正派の中心となり、伊藤博文ら立憲君主派と論争した。昭和四年二月、南朝の後裔三浦天皇を称する三浦芳聖は、宮中顧問官山口鋭之助の紹介で会った田中から、「松陰先生は、足利義満が簒奪した現皇統を排し、大内氏以来長州萩に匿ってきた南朝の末裔を建てねばならぬと言われ、これが維新の原動力となった」と聞いて驚くが、田中は師の高杉晋作から教わったのである。両人が天皇親政を主張したのは「維耕の目的は南朝復元と建武新政の再現にある」と明確に意識していたからで、両人の属した土佐勤王党は明らかに南朝派であったが、土佐藩に楠社の事績がないのは、藩政を握っていた上士層が、公武合体派で徳川贔屓の藩主の意思を忖度し、尊皇倒幕に通ずる楠公尊崇を藩政に持ち込まなかったからであろう。

 ★元来、南朝勢力が潜在する親藩・紀州藩の【特殊事情】

 親藩尾張藩でも文久二年以降、藩内数か所に楠公を祀る神社を建て、慶応三年(一八六七)十一月、藩主慶勝が京都に楠公神社を創建することを願い出たが、諸事多端の中で立ち消え状態になる。同じく水戸も明治元年、楠公社の創建を自藩に一任するよう願い出て保留になるが、以後も再三願い出た。薩摩藩も一旦中断した楠公社の創設に再び動き出し、南朝功臣の祭祀を国家行事とすべきことを建白する。尾張・水戸の両藩が楠公社創建を競願する中で、紀州藩はどうしたか。紀州は元来南朝の地盤で、例えば陸軍中将貴志彌次郎の菩提寺徳號寺に紀北土豪連盟の名簿たる『三拾六坊名前帳』が伝わるが、その巻頭に「雑賀三十六坊は楠木正成に味方したことが起源」と明記する。しかく南朝勢力が潜在する紀州で、真宗興正寺末の二寺院が注目される。

 和歌浦中番の性應寺は、和田楠木氏の一族安満右馬丞明武が吉野の御所で後醍醐天皇から阿弥陀仏を賜り、法号了願として開山し、初め天台宗であったが、本願寺の実質的開祖覚如上人の教化により南北朝時代に真宗に改宗、天文年間に性應感寺と改号した。爾来、西本願寺下興正寺派の中本山として、紀州領内に末寺六十二寺、河内・摂津にも末寺を擁したが明治十年、維新後に真宗解禁となった鹿児島に移転した。和歌山城下新中通りの真光寺は楠公の甥和田新発意源秀を開基とし、後醍醐天皇の時に真言密教の道場として泉州に創立したが、南北朝の康氷年初(南朝興国年間)真宗に改宗、天文年間に紀州に移り来り、藩内に三十五寺、泉州に三寺を擁する大寺院となった。和田楠木氏開山の両寺は、紀州領内それも和歌山城下周辺に、併せて百に近い末寺を有し、檀家総数は無慮一万戸、信徒数は当然その数倍になる。付近住民の大多数を檀家とした両寺は、南朝勢力が紀州西北部に張った宗教ネットワークで住民自治の拠点になったのである。してみると、両寺が密教から興正寺へ改宗したのは、南朝勢力を真宗内に扶植する目的との推察も成り立つ。

 南朝勢力が根を張る紀州領に楠公社の存在を聞かない理由を、次のように思う。『南紀徳川史』寛永七年(一六三〇)条に「是歳由比正雪、来遊於藩」とあるように、藩祖徳川頼宜は楠公の衣鉢を継ぐ由比正雪(一六〇五~五一)を紀州に招いた。正雪は楠公の末裔楠木不伝に軍学を学び、婿養子となって橘姓を称し、楠氏代々の通字「正」を名乗る気鋭の軍学者であったが、楠木流軍学の道場を江戸に開き、紀州侯との関係をひけらかして門弟を集め、その数三千人と称した。慶安の変後、遺品中に頼宜の自筆書状が発見され、重大関与が疑われた頼宜は、辛うじて幕閣の追及を逃れたものの、終に失脚したので、以来紀州藩では、楠公が暗黙のタブーになったものと推察される。

 ★「自前の天皇」水戸藩はなぜ熊沢天皇を擁したか

 以上に見た通り、幕末維新の諸事多端の中で、雄藩が先を争って楠公社創建の許可を求めたのは、当時最重要の政治事項と考えたからである。大政奉還と南朝復元が同時に実現したことに勘付き、「楠公顕彰」の本質は「南朝復元運動」で、これぞ維新の真の目的だったことを覚り、新政参加の意思を表すために、楠社の設立を急いだのである。楠公祭祀は尾張・薩摩・水戸藩の競願となったが、これを国家の重要事業と判断した太政官は、明治初年に神祇事務局に命じて湊川神社を創建した。

 水戸藩の南朝正統論は決して空論ではなく、朱子学の名分論からくる南朝復元を、陽明学の知行合一精神で実現せんものと図っていたのである。南朝の後裔を探した光圀が、後亀山の三世孫の熊野宮信雅王の末裔を見つけ出し、会津領澤村に秘かに庇護して、所謂熊沢天皇とした目的は正にそこにあった。家康が定めた幕府の秘密憲法『公武法制』によれば、幕府の永世副将軍とされた水戸中納言の権能は、西欧中世の「選帝侯」に似ていて、自らは将軍に就くことなく、幕府の悪政に際して将軍を廃立すべきものとされた。これは、場合によっては徳川幕政に幕を引くこと、つまり政体の改変を意味する。水戸藩が熊沢天皇を擁したのは、副将軍とすれば越権となるが、政体改変の機会を利して敢えて南朝革命を実現する目的と思われる。歴代藩主が勤しんだ歴史研究も畢竟、南朝復元に際しての理論武装を目的としたものであろう。光圀と秘かに交流があった陽明学者熊沢蕃山(一六一九~九二)は、自著に「我は高貴の生まれ」と述べているらしいが、播州池田侯による異例の重用と、これに伴う幕府による厳重な監視の所以は、所詮蕃山自身の所論・学説に非ずして、その出自の南朝皇統たるに因るものと見るしかない。

 覇者に大政を委任する天皇は、現実には生身の人間であるから、その即位・譲位を覇者が左右した例が史上珍しくない。覇者が新政体を樹てるに際して自前の天皇を擁した例を挙げれば、式家の藤原百川と山部親王(桓武天皇)、平清盛と安徳天皇、足利尊氏と北朝天皇である。『公武法制』の存在を知った雄藩は、「いつかは徳川氏に代わり、この手で天下を掌握せん」との大志から、秘かに「自前の天皇」を準備した。譜代筆頭の井伊藩は、遠祖井伊道政が後醍醐の皇子宗良親王を遠州井伊谷に擁した故事で知られるが、江戸時代には宗良親王の兄尊良親王の末裔を三浦天皇として三河国岡崎に隠した。仙台藩もまた、後亀山院の末裔小野寺氏を藩内に保護した。紀州藩では牟婁郡に南朝系浅利氏の蟄居を聞くが、詳細を知らない。ただし藩士の書上を集めた「紀州家中系譜並に親類書」には、大塔宮護良親王の後胤が二家あり、何れも元弘元年(一三三一)に笠置山を落ちた親王が熊野に向かう途中、名草郡調月村の井口左近家に逗留して儲けた男子から始まる。当初ごく微禄で召し抱えられた井口氏は、両家とも理由の判然としない異例の出世により、数代で大身になった。

 維新の志士たちが天皇候補を「玉」と呼んだ例からすれば、水戸藩の熊沢天皇、井伊藩の三浦天皇、大和吉野郡黒淵の「堀の皇門」、紀州藩の井口氏、仙台藩の小野寺氏などは、定めし「隠し玉」であるが、現実に「堀川政略」に組み込まれたのは、毛利氏が周防国麻郷に保護した護良親王系光良親王の末裔である。もと長尾氏が匿い、次いで大内氏が庇護した光良親王を、毛利氏が引き継いで大室天皇としたが、その養子となった地家氏の寅之祐が孝明天皇の皇太子睦仁親王と入れ替り、「替え玉」となったのである。

 万延元年(一八六〇)九月、水戸藩士西丸帯刀と長州藩士桂小五郎らの尊攘派が、長州藩の軍艦内辰丸の上で結んだ「成破の約」は、藩士間の私的な盟約であって藩を挙げたものでなく、両藩内もいまだ尊皇攘夷派と開国佐幕派に別れていたから、直ちに具体的行動に結びつかなかったが、締約の背景には、それぞれ熊沢天皇と大室天皇を擁した両藩の激派が南朝復元で一致したことがあった。水戸藩の南朝復元志向は前述したが、長州藩でも桂小五郎が吉田松陰の南朝復元論を受け継ぎ、具体的実現を図っていた。因みに、当初松陰の指した「玉」は長州萩在住の大室寅助であったが、やがて本家の周防国熊毛郡麻郷大室家の養子寅吉(のち寅之祐を称す)に替ったとの説があり、詳細は未詳である。

 ★死を装い皇太子を取り替える孝明天皇「堀川政略」の根源

 水戸学を通じて各藩に伝わった楠公顕彰が、文久二年頃に朝廷内にも広まったのは、水面下の「成破の約」の衝撃による水面の波紋に過ぎなかったが、文久三年(一八六三)の春、伊予松山の神官三輪田元綱が京都等持院を襲い、尊氏以後三代の足利将軍の木像の首を斬って三条河原に晒したのは、もはや楠公顕彰どころではなく、明らかに南朝復元活動の発露であった。しかく西国に澎湃と沸き起こってきた楠公顕彰の動きを、蒼生間に伏流する南朝復元願望の反映と覚られた孝明天皇は、安政五年より進めていた「堀川政略」の核心部分の実行を、遂に決断されるに至る。すなわち、天皇自ら死を装って堀川御所に隠れ給い、皇太子睦仁親王を大室寅之祐と取り換える荒業である。

 孝明の「堀川政略」の発端が、閑院宮皇統から皇位を継いだ祖父光格天皇にあることに気付いたのは、平成十八年五月号から送られてきた月刊誌『世界戦略情報みち』の記事である。十九年八月号から「歴史の闇を禊祓う」と題する連載を始めた栗原茂の論題は、やがて「超克の型示し」に移るが、その七回が二十年七月号の「孝明天皇による未来透徹の禊祓」で、いま改めてこれを閲するに、「閑院宮家の二代典仁親王に光格天皇即位の運命が、鷹司家を継ぐ輔平皇子(典仁親王の弟)に公武合体の使命が与えられる」とある。

 霊元上皇の内意を受けて新井白石が新設した閑院宮家は、東山院の皇子直仁親王を初代とし、二代が典仁親王である。栗原上掲の趣旨は、①夭折した後桃園院の後継として、典仁の皇子師仁親王が安永八年(一七七九)に光格天皇となったこと、及び②師仁親王の弟が鷹司家に入って関白鷹司輔平となり、甥の光格を支えて公武合体に勤めたこと、を意味する。

 光格即位の前後を見ると、六年前にイギリスがアヘン貿易に乗り出し、三年前にアメリカ独立宣言があり、十年後にフランス革命が起きる。二十六年後にナポレオンが皇帝に即位、三十五年後にはウィーン会議により欧州王室連合が成立し、永世中立を認められたスイスが王室連合の金庫となる。これらは、国際金融勢力(金融ワンワールド)すなわち「ヴエネツィア・コスモポリタン」の世界戦略の進展を意味するが、その衝撃波が世界を一周して日本に到達するのを、数十年後すなわち十九世紀半ばと予測したウィーン会議では、日本の開国と日本皇室の王室連合参加が秘かに諮られたと聞く。

 さらに栗原は、「常に禊祓を要するのが聖地の所以であり、また神格遷宮の禊祓は極めて重大な歴史認識を必要とする。江戸への遷宮の重さを心得ない愚策は孝明天皇の勅を粗忽極まる攘夷(排外)思想と誤訳して恥じない」と言うが、この晦渋な文章の意味は、本人によれば、前段は「禊祓を常に行う神格(シャーマン)天皇の棲み給う宮居の立つべき聖地は富獄を西側から拝するを要す。これ富嶽より東に皇居を遷すべからざるの所以」という。とすると、後段は「孝明が下された攘夷の詔勅の真意は、近未来の開国に際して生ずべき、皇居の東遷に関する深謀遠慮を示された」と解釈すべきこととなるわけで、これによれば「堀川政略」の根源を理解できると思う。

 

   ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(52)   <了>。

 


スポンサーサイト

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)ー2
 
 ★新井白石の皇室維持策 八代将軍吉宗の大秘事

 
 しかし公武合体の政治理念から遠ざかった幕藩体制は、五代将軍綱吉の頃になると、滔々として流入する貨幣経済により根本的矛盾が露われ始めた。これに気付いた六代家宣の侍講新井白石が、未来政治のために公武合体論を唱え、具体化の第一歩として側用人老中格の間部詮房と謀り、正徳四年(一七一四)、霊元上皇の皇女で東山上皇(一七〇九年天皇退位)の異母妹に当る生後一か月の八十宮と六歳の七代将軍家継の婚約を決めた。教科書歴史はこれを、「白石と間部の強力な後ろ盾だった六代家宣が急死したため、幼い七代家継を擁して門閥派と戦う両人が、朝廷の権威で家継の立場を強化することを図ったもので、当時幕附と対立関係にあった霊元上皇も、幕府と結託して上皇に対抗せんとする近衛基煕の権力基盤を粉砕すべく、この縁談を歓迎された」という。正徳六年(一七一六)納采の儀を済ませるが、その二ヵ月に家継が死去したため縁談は自然解消となり、史上初の将軍家への皇女降嫁には至らなかった。

 白石はまた、皇室維持のための補完皇統として世襲宮家の新設を家宣に進言した。霊元天皇(在位一六六三~八七)が夙に要望されていた世襲宮家の増設を、幕府は拒否していたが、白石と霊元上皇の間に秘かな交渉があり、上皇の御意思を体したと思われる白石の提言に従い、東山天皇の皇子直仁親王を初代とする新宮家の創立を宝永七年(一七一〇)、幕府は承認する。この間、正徳六年(一七一六)に七代家継が夭折し、紀州家の吉宗が八代将軍に就いて年号を享保と改めた。霊元上皇も享保三年(一七一八)に至り、孫の直仁親王に対して閑院宮の宮号と所領千石を下賜された。

 享保十年(一七二五)十月十八日、秘かに上京した将軍吉宗が、修学院離宮の中之御茶屋で霊元上皇と直接面談し、今後の公武合体策を話し合った。この驚くべき秘事を近来「その筋」から仄聞したが、幕府記録には吉宗の上京なぞ微塵も記さないから、このようなことを披歴すれば史家の顰蹙は免れず、売文の輩からは、あるいは荒唐無稽と謗られるであろう。しかしながら、歴史の真実発掘を生命とする本稿においては、苟も合理的根拠がある以上、隠蔽するわけにはいかない。

 現に、紀州家に伝わってきた後水尾天皇愛蔵の光悦赤茶碗「紅葉之錦」の箱書には、日付と共に「修学院中之御茶屋で一瓢庵が之を賜る」と明記しているが、賜与者の名はない。ところが霊元上皇の紀行文『元陵御記』に、これに対応する記事があり、賜与者は霊元上皇で、御父後水之尾天皇の愛蔵品を「一瓢庵」に手渡したことが察せられる。

 そこで「その筋」に問い合わせた処、「一瓢庵」とは吉宗の号で、箱書も本人の筆と教えられた。公武合体合意の物証たるこの重宝を、吉宗は江戸城に置かず、紀州家に送って秘蔵させていた、とのことである。

 初代閑院宮直仁親王の第六皇女五十宮倫子内親王と、九代家重の世子家治(のち十代将軍)が婚約したのは寛延元年(一七四八)で、霊元上皇の曾孫と吉宗の孫の縁組であった。将軍の座を家重に譲った後も幕政を掌握していた吉宗が、二十二年前の修学院における霊元上皇との約束を果たしたのである。五十宮は将軍家治の御台所として二女を儲けたが、あいにく男児に恵まれず血統上の公武合体はならなかった。安永八年(一七七九)後桃園天皇が夭折したため、五十宮の甥の師仁親王が閑院宮家から入って皇位を継ぎ、光格天皇となる。多くの古儀を復活して朝廷権威の復元に益した光格天皇を幕府が支援したのは、皇室と幕府が連携して公武合体思想の具体化に踏み出したものと観るべきである。

 
 ★安政年間、澎湃と湧く「尊皇賤覇」「南朝思慕」

 
 安政年間に至り、公武合体論が現実味を帯びる。老中首座に就いた阿部伊勢守正弘が盟友の薩摩藩主島津斉彬を語らい、内憂外患に処するための公武合体的政策を実行に移すこととし、幕藩体制に変革を施した。阿部はまず、従来譜代大名が独占していた幕政に、親藩・外様の雄藩大名を参加せしめた。今風にいうならば、「譜代党の独裁に終止符を打ち雄藩党との大連立を図った」わけで、これにより政体は公武合体の理念に一歩近づく。しかしながら、阿部が先例を敢えて破り、親藩から登用して幕閣の外交顧問に就けた水戸斉昭が、外交上の難問に取り組む阿部に対して、閣内に在りながら水戸学伝統の攘夷論をかざし悉く異論を唱えたので、外交方針における改革的開国思想と伝統的攘夷思想との対立が露わになり、これが幕末現象の第一となった。

 安政三年(一八五六)十三代家定の御台所が薨去して、継室の議が起こった時、阿部正弘は島津斉彬と謀り、斉彬の従妹で養女の篤姫を、重ねて近衛家の養女にして、江戸城本丸に迎えた。これにより島津家は将軍家に最も近縁となり、斉彬は公武合体政策の枢軸に相応しい地位になった。この折斉彬の密命を帯びて京に上り、篤姫の養女入りを近衛家の老女村岡と諮ったのが薩摩藩の下級武士西郷吉之助であった。主君斉彬の進める公武合体的な新体制樹立運動に対し、当時は何の異存もなかった西郷は、京で幾多の志士・浪人及び下級公家と接触して、知識階層の下層部に湧き上がる差別打破の声を聞いた。知識階層における上下の対立を西郷が悟った場所は、弘化四年(一八四七)に建春門外で開講し、嘉永二年(一八五七)に孝明天皇から勅額を下賜された学習院と推量される。

 知識階層内の差別打破要求と関連して、国民精神の奥深い処に澎湃と起こってきたのが、尊皇賤覇の思想と南朝思慕の念である。尊王賤覇とは、鎌倉幕府以後の武家政権を暫定政体と看做し、建武中興のごとき天皇親政の政体を、新たに樹立すべきとする政治思想である。また南朝思慕とは、武力を以て足利氏に打破された南朝こそ正統として、皇統の南朝復元を待望するもので、これらの思想は、階級打破の欲求と共に知識階級下層部の政治意識の水面下に広がっていた。いずれも幕府当局者からすれば、俄に認めがたい思想であるが、家康が元和元年(一六一五)に定めた幕府の秘密憲法「公武法制応勅」の主旨に照らせば、これにも一理があった。「公武法制」には、「朝廷政治の失当なるによって天下の政権が武家の幕府に移った経緯はあるものの、幕府とは固より一時的な政体である」と規定し、その上で水戸藩主を代々幕府副将軍に任じ、選帝侯的な職務を定めていた。すなわち、水戸侯が幕府の悪政を認定した場合には、新将軍を尾張・紀州の二家から選び、両家にその人なき場合には天下の諸侯から選ぶべきことを定めていた。水戸藩の二代藩主光圀が始めた歴史研究に、歴代藩主が藩費を傾けたのは、偏に新将軍選定に際しての参考とするためであった。国の本来の在り方たる「國體」の本義を追究したのも、またそのためであった。

 
 ★水戸学が説く「万世一系」 正当性とはそもそも何か

 
 水戸学は、明人の亡命者朱舜水の、心理二元的な陽明学に基づく江館水戸学と、朱子学の影響を受けた森尚謙の水藩水戸学に別れて対立したが、後者は理気二元論による公武二元論を建て、「国家のあるべき形は、天皇と天皇が委任した政体の二元制である」との考え方に逢着した。知識階層の基礎的教養たる儒学を基礎として、神話や神道研究などの国学思想を加えた水戸学は、幕末の志士・浪人の政治思想と行動に決定的な影響を与えて、維新の原動力になった。水戸学が「変転する政体の長たる覇者は血統に拘泥する必要はないが、永久不変の國體の核心たる皇統は万世一系たるべし」とする万世一系論と共に主張したのが、朱子学の正統主義に基づく南朝正統論である。

 そもそも「万世一系」とは、皇祖皇宗のY遺伝子が当代の天皇まで、DNA的に連綿と引き継がれることを意味するが、単に皇祖皇宗のY遺伝子を保有するだけの家系なら、子孫の分岐繁殖を反映して今日では何千家も存在する。しかしその中に、歴史上現実に皇位を継いできた本流と、それ以外の支流があり、本流を以て正統とする訳だから、その理念は伝統主義ということになる。ただし正統の条件としては、各代がその前代から「正当」に皇位を継いだことが必要で、代々「正当」に継承してきた家系を「正統」とするのに異論はないが、もし継承の「正当性」において何らかの瑕疵があれば、それ以後の家系は、正統性に問題を含む「閏統」ということになる。

 ここから問題は、継承の「正当性」とは何かという点に移行する。それはつまり、血統の正当性と手続の正当性ということであろう。血統の正当性については、①前代との血統的近縁性を最重視すべきか、②その場合何親等まで許容すべきか、それとも③世襲宮家のごとく特定天皇からの分岐家系を重視すべきか、などに関しては定説もない。結局、先例慣習に従う他はないが、それにも客観的基準はないのである。現に光格天皇を選ぶ際には、閑院宮か伏見宮かで議論が白熱した。幕府将軍においても全く同様で、七代家継と十三代家定の後継選びが難航したのが好例である。

 また手続的正当性とは、皇位継承が所定の手続を経て行わるべきことを意味するが、史学上で問題とされたのは、皇位の象徴たる「三種の神器」の継承の有無と、その方法であった。上記の論点を研究した水戸学は、結論として南朝を正統と判断した。ここにおいてか、幕末現象の隠れた対立軸として南北朝問題が出没してきたのである。

 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)    了。 

 

 ★ブロガーの責(スキャナーの精度+ブロガーのミス)による誤植を訂正。

 「一読者」様より<不思議なこと。>として「不思議なことだが,この連載には,通常は有り得ないような誤植が多々ある。 【一埋→一理】 こういったことを,どう理解してよいのかわからない。」という指摘があり、訂正しました。

 ありがとうございました。
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(51)

  -公武合体理念から乖離した江戸幕藩体制の流転     ◆落合莞爾 

 
 ★公武合体思想と國體観念の正しい理解 

 
 江戸日本の開国に向けての政治運動は光格天皇の御宇に胚胎したが、その基づくところの政治理念は本来は公武合体思想であった。公武合体運動とは、教科書歴史の説くところでは、「弱化する幕府権力を朝廷の権威を以て強化せんとする目的で安政ころから起こった政治運動」とされているが、この見方は狭きに過ぎ、況や皇室と将軍家の縁組を以て公武合体と解するなぞは失当というしかない。

 「國體」とは国の本来あるべき姿の謂いである。(「国民体育大会」との混同を避けるため、敢えて旧字体を用いる)。日本列島には古来、「日本社会はいかなる時代にも万世一系の天皇を芯核として成り立つ」との国家観念が伝わってきた。ここにいう「万世一系」とは明治憲法の法学的概念とは異なるが、それはともかく、この国家観念から派生する「永久不変なる國體に対し、天皇から統治権を委託された政体は時代により変転する」との政体観念をも含めて、國體観念というのである。

 公武合体の「公」とは國體の根底にある精神的権威のことで、具体的には天皇及び側近の公家衆を意味する。また「武」とは天皇から大政を委任された政体すなわち世俗的権力のことで、具体的には幕府将軍と幕藩体制を意味する。中世キリスト教世界では、王権神授説により皇帝と教皇が権威と権力の場を棲み分けたが、社会の進化の過程で精神的権威と政治権力の分離が進むのは、蓋し歴史の通則であろう。公武合体思想とは要するに、「公武の分離を前提に、両者における政治的価値観の合致とそれに相応する政治機構を常に求める政治理念」になろうか。

 武力による全国統一を果たした織・豊両氏は、公武合体理念による近代的国家体制の樹立を目指したが、両氏に替った徳川政権は歴史法則を逆行して、半ば郡県制度的な専制国家体制を樹立したのは、専ら国益上の見地からで、強固な貿易統制策を必要とした当時の世界情勢に対応したものである。すなわち室町末期から、国産銅地金が多量の金銀を含有したまま南蛮紅毛の貿易商によって不当に安く海外に流出しており、これを放置すれば日本社会の経済基盤の崩壊は必至であった。さらに重大な国家問題として、教科書歴史は今も黙殺するが、多数の邦人男女が九州沿岸から奴隷として秘かに輸出されていた。

 
 ★硝煙目当ての奴隷輸出 隠蔽ざれた国辱的史実

 
 室町時代は世界史上の大航海時代でスペインーポルトガルら南蛮人による洋上貿易が発展したが、主たる貿易品目の一つは男女奴隷で、南蛮人が奴隷狩りの形で原住民を拉致した例も他国にはあるが、輸串王は多くの場合当地の部族長で、他部族ないし領内の下層民を以て輸入品の代価に宛てたのである。当時の日本では火薬が必須輸入品で、戦国大名が何より必要とした鉄砲には煙硝が欠かせない。鉄砲そのものは国産を始めたが、硝石は国産しないから、その入手のために各大名はあらゆる努力を払ったのである。

 戦国大名たちはポルトガル商人と同根の宣教師に諂う(へつらう)ため、キリシタン布教の解禁はもとより自ら進んで洗礼を受け、領民の奴隷輸出さえ行ったが、すべて煙硝を入手するための手段であった。今日民主党の菅政権が、経団連が必須とするレアメタルの確保のために、中国政府による領土侵犯や邦人の公然拉致を黙認しているのと同断である。

 室町時代は勿論のこと、元和堰武の後にも、外様大名の多い九州地方では領民の奴隷輸出が秘かに行われたが、室町時代の記録にも江戸時代の稗史にも何ら記さない。これは当の領主も恥を知っていたからで、新政体江戸幕府もこれを国辱と感じ、ひたすら隠蔽を図った。明治政府もまた皇国史観に反する処から隠蔽したものと思われる。

 しかし数代にわたり政体が必死に隠蔽したので、さすがの白柳秀湖も気付いていないようであるが、薩摩の坊津を始め九州各所には、今も奴隷輸出の伝承がはっきりと残っている。吉薗周蔵も家人に対し「東南アジアの各港で、その昔性奴隷として売られてきた日本女性の末裔を数多く目にした」としばしば語ったと聞く。この国辱的史実を、専ら自虐史観に立つ戦後文化人が黙殺しているのは不可解であるが、マルクス史観と中華思想が混淆した敗戦史観に頼り過ぎて、真の日本史が見えないのであろうか。

 
★「島原の乱」はキリシタン征伐のためではなかった

 
 三代家光の治世に生じた「島原の乱」は、教科書歴史ではキリシタン信徒による宗教一揆と説明されるが、実態は領主松倉重政・勝家父子の暴政に対する百姓の反乱であった。幕府から一揆の原因を問われた松倉勝家が、「領民のキリシタン信仰の強固なるに因る」と弁明したのは、一揆の指導者がキリシタン大名の旧領主小西行長と有馬晴信の浪人だったことを利して、自らの暴政を糊塗せんとする強弁に過ぎない。当時のキリシタン勢力を過大評価する巷間史書も多いが、日本人の宗教観・社会観が元来一神教と相容れざることは、明治維新から今日に至るまでの、信教の自由を保障された日本における一神教の教勢推移が明白に証明する。白柳が「キリスト教の禁制などはその頃もうすでに完全に行はれて、ほとんどその必要を見なかったこと、島原事件の前後、幕府によって発布された法律を子細に点検して見るとよく分かる」という通りで、江戸幕府には、島原一揆に関わった数万人を、キリシタンを理由に皆殺しする必要なぞなかった。

 松倉勝家がキリシタン征伐の名目でルソン遠征を企てたことと謂い、勝家のキリシタン弾圧の残虐さを誇張した宣教師の態度といい、また数万人もの一揆勢を皆殺しにする一方で松倉重政を密殺した幕府の態度といい、いかにも不目然さが付きまとうから、島原の乱には、奥底にもっと重大な秘密があったのではないかと思う。

 有名な「島原の子守歌」は、明治時代に島原半島から大勢の「カラユキさん」が出国した証拠であるが、この地は室町時代から邦人奴隷の密輸出港であった。江戸初期に転封してきた新領主松倉氏は南蛮貿易に熱心で、ここを拠点に領民男女を密輸出していたのである。奴隷商人と宣教師は同根であるから、妄想を逞しくすれば、「かの島原信徒たちは、奴隷輸出を免れんがために、進んで洗礼を受けた」とも考えられる。

 一説には、この時のキリシタン数万人は李氏朝鮮国へ追放され、朝鮮半島にキリスト教徒の多い原因を成したというが、もしそのような事実があったのなら、国辱と幕府権威の失墜を避けるため、江戸幕府には松倉氏と領民の双方の口を封じる必要があったことになる。

 ともかく、国家経済の根幹たる金銀と、国家の基本要素たる人民を、硝石入手のために流出させるのは、国益を損する上に、政体としてこれ以上ない恥辱である。これを防止するためには、各藩の自由貿易を禁じなければならず、徳川の初期三代はその目的で強固な貿易統制策を全国的に実施した。そのために権力の中央集中を実現した新政体が幕藩体制で、貨幣浸透の歴史法則を逆行した重農主義を経済基盤とし、且つ譜代大名が幕政を独裁する郡県制的な専制主義を政治制度としたために、幕藩体制の本質は「武」が「公」を凌ぐものであった。 

       続く。
 



●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-2
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-2 

 
 ★将軍継承問題という追い撃ちも加わって 

 
 幕末現象を引き起こした第三の対立軸は将軍継嗣問題であった。将軍家定が病弱のために在位中から起こっていた後継争いは、病気が悪化した安政四年(一八五七)頃から本格化した。後継将軍に紀州慶福を推す南紀派が井伊直弼・松平忠固ら譜代党で、一橋慶喜を推す一橋派が実父水戸斉昭と島津斉彬ら雄藩党であった。堀田が江戸を留守にしていた安政五年四月、南紀派の謀略で井伊直弼が大老に就く。条約問題に関して当初無勅許調印に反対であった直弼が幕閣を掌握する立場になったが、折から幕府の中では「朝廷の御反対は、実は国体を損わぬようにとの配慮からなされたるもの」との認識が台頭しつつあり、直弼は孝明帝の勅許を得られぬまま六月十九日に日米修好通商条約を調印する。これが違勅調印であるとして、一橋派から猛烈な攻撃を受けた。継嗣問題に関しそれまで具体的意見を出さなかった家定は六月二十五日、諸大名を招集して慶福を将軍継嗣にする意向を伝え、七月六日薨去する。大統を継いだ紀州慶福は、名を家茂と改めて十四代将軍に就く。井伊直弼を大老にした南紀派の政略が見事に功を奏したのである。将軍継嗣及び条約調印をめぐって越前侯・尾州侯及び一橋慶喜らと江戸城に無断登城の上、直弼を詰問した斉昭は、逆に直弼から江戸の水戸屋敷で謹慎を命じられ、他の一橋派も直ちに処分された。

 この井伊直弼の処断は水戸藩を痛く刺激し、憤った水戸藩士らが朝廷に働きかけて、孝明帝から「戊午の密勅」を得たという。密勅は、①条約の無勅許問題の追及と説明の要求を幕府にせよ、②御三家及び諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、墓府は攘夷推進のための幕政改革を遂行せよ、との内容で、さらに③上記内容を諸藩に周知せしめよ、との副書があった。要するに密勅は、井伊の排斥を諸大名に呼びかけたもので、幕藩体制の秩序を無視していた。かかる朝廷の幕政介入は正に前代未聞であったから、直弼は尊皇攘夷派を強権を以て弾圧し、水戸藩には密勅の返納を命じる一方、条約の無勅許調印の責任を自派の堀田正睦・松平忠固に着せて閣外に追放、新たに太田資始・間部詮勝・松平乗
全を老中に起用し、密勅に関与した志士・公家を弾圧した。之が悪名高い「安政の大獄」で、その剛腕な政治手法により、直弼は幕末現象の基底にある対立軸を大きく揺すぶり、維新の到来を速めたのであった。

 因みに、原理的攘夷主義と現実的開国論という矛盾を包含していた阿部幕閣が、眼前のアメリカ艦隊を相手に外交政策の選択に苦しんだ姿に、近来の民主党を重ねて見るのは歴史趣味の一楽である。往時の阿部・堀田・水戸・井伊・松平忠固に、今日の鳩山・菅・小沢・仙谷・前原のいずれを比し得べきか。さしずめ八方美人の阿部に鳩山、開国派の堀田に軟弱外交の見本の菅、因循攘夷派の斉昭に親中排米派の小沢、水戸の仇敵たる剛腕直弼には同じく小沢の仇敵仙谷が当て嵌る気がする。現実を重視して開港に賛成しながら「徒
らに勅許を仰ぐは混乱の元」と論じた松平忠固に比すべきは、日米同盟に立って媚中派を牽制する保守主義の前原であろうか。ただし、これはあくまでも相似象学上の政治的比喩ゲームであって、当人の人格識見において比すものではない。

 
 ★西郷吉之助が京都で 肌で感じた激派の熱 

 
 話を安政三年(一八五六)に戻す。
 島津斉彬の養女・篤姫を近衛家の養女に入れる工作のため上京していた西郷吉之助は、在京の間に尊王倒幕を叫ぶ多くの志士・浪人と接触し、主君斉彬が代表する既成勢力が現状維持のために進めている新体制樹立運動の外に別個の暗流が滔々として湧き出ているのを目の当たりにした。要するに知識階級の下層部からは、公武合体論のごとき微温的なものではなく、政治体制の抜本的な改革を望む声が出ていることを、西郷は肌で感じたのである。彼ら激派の思想は如何にして醸成されたか。弘化三年(一八四六)仁孝帝が御所建春門外に設けられた学習所に、嘉永二年(一八四九)に至り孝明帝が「学習院」の勅額を下賜され、以後は学習院と呼ばれるが、設立以来四十歳以下の堂上・非蔵人の子弟に儒学・国学を講じていたとされる。ところが、安政六年大獄の囚人・吉田松陰が門人・入江九一に対し、学習院を中心に京に「四民共学」の「天朝の学校」を設立する構想を語った事実をどう解するか。学習院の周辺に、公武志士交流の場として何らかの実態が既に存在したことが窺えるが、安政五年八月八日の「戊午の密勅」の成立にも、学習院が深く関わっていると見るべきであろう。

 因みに水戸藩が朝廷に請うたとされる「戊午の密勅」は、武家伝奏・万里小路正房から水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門に下され、代りに受領した子息・知明が微行して東海道を下り、水戸藩家老・安島帯刀を通じて藩主水戸慶篤に渡された。副使は薩摩藩士で別に中山道を東行したという。鵜飼吉左衛門から安島帯刀宛への書簡には、直弼暗殺計画が記されていてこれが幕府に漏洩したことで安政の大獄は一層厳重な処分となったと言われている(直弼の謀臣長野主膳から井伊直弼に宛てた手紙に記載があるという)。その計画とは、薩摩藩兵二~三百人が上京して彦根城を落城させるというもので、伊地知正治からの伝聞とされる(落合注:彦根藩主とはいえ直弼は大老職で江戸常府のため、彦根城では暗殺など不可能と思うが、この点を博雅の士の高教に侯つ)。

 このころ京都にいた西郷は、七月二十七日斉彬の訃報に接して悲嘆久しい中でその遺志を継ぐことを決意し、八月には近衛家から託された孝明帝の内勅を水戸・尾張藩に届けるため東行したが、水戸藩家老・安島帯刀に拝受を打診したところ拝辞されたので、空しく京へ戻った。後日、入れ違いに来た鵜飼知明から安島が受けたことを聞いて、大変驚いたという。このことから、水戸藩要請とされる「戊午の密勅」だが、薩摩藩が黒幕であったことが明らかで、とすれば、以前から公家と薩摩藩士の秘密の交流の場がどこかに在った筈である。薩摩京屋敷や近衛邸には幕府の眼が常に光っており、いやでも目に付くので、有志が漢学・古学の勉学会を装って学習院に集うなどは、最も目的に適った方法ではなかったか、と思う。

 島津斉彬の突然の薨去によって薩摩藩政を掌握した異母弟の島津久光が、井伊による安政の大獄で天下のお尋ね者となった西郷を奄美大島に軟禁したのは、罰より保護の意味であった。久光は文久元年(一八六一)十月、自ら公武の周旋に乗り出す決意をするが、京都での手づるが全くなく、大久保の進言により西郷を召還し、旧役に復して上洛の先発となし、京大阪で上国の形勢を偵察させた。西郷にとって安政三年から七年ぶりに見る京は、尊攘激派の志士が徘徊し甚だ革命的雰囲気に満ちていたが、このとき西郷は久光の不興を買い、薩摩へ送還される。

 
 ★各藩下士階級連盟締結 明治維新の本質現わる 

  
 西郷が尊皇激派に抱いた共感は、根底に公家社会と武士社会における下層部の処遇改善欲求があったものと思われる。すなわち、公家社会においては平(ヒラ)堂上の摂家清華に対する処遇慣習の改善要求があり、安政五年の岩倉具視の八十八人列参は根底には、実はこれが潜んでいた。堂上とは、広義では公卿になることができる摂家・清華家・大臣家・羽林家・名家・半家の総称であるが、狭義では羽林家以下を指し、その場合は平堂上とも呼ばれた。列参を企んだ岩倉侍従は、養家は羽林家で生家が半家の堀河家であったし、中山大納言も羽林家で、いずれも公家としては下級に属する平堂上であった。公家社会では家格によって昇進も家禄も厳しく固定され、平堂上は本家筋の摂家から婚姻始めすべてを規制されていたという。

 一方、武士社会においても下級武士の処遇改善欲求が生じていた。下級武士とは騎乗を許されない徒士身分のことで、各藩の行政を実際に動かしていたのはこの階級であった。足軽とか同心と呼ばれ、全員が職掌集団たる「組」に属して、頭たる中級武士の指揮監督下にあった。その処遇は長屋住まいの石高二十石余りで、現価の年収四百万円程度であろうか。今日の地方公務員よりは低待遇で、常に家族ぐるみで副業をしていた。この他に半士半農の体で郷士と呼ばれた階層は、天下統一の過程で敗退した旧封建領主で、大地主として農業を営みながら各地に散在し、生活は困窮しておらずとも、藩士から厳しい身分的差別を受けていた。この階層からは徒士身分に登用された者もいて、また養子縁組を以て徒士身分に紛れ込んだ者も多く、家系的に見れば彼らと下級武士との境界は溶けかかっている。ともかく、各藩では上級武士階層と下級武士・郷士階層との間に処遇的懸隔は大きく、そのため異なった階級意識を有していた。公武合体の政治理念を信奉したのは各藩の重役・上士だったが、下士・郷士階層は必ずしもそうではなかった。安政三年の昔、西郷吉之助か京で感じ取ったのは、正に下士・郷士階層の感覚であった。

 詳細、今は略すが、文久元年(一八六三)八月、江戸麻布の長州藩の空屋敷で、長州藩の久坂玄瑞、土佐藩の武市半平太、薩摩藩の樺山資之がたまたま会し、この時三人で各藩の下士階級の連盟を締結した。様々な幕末現象が煌く中に在って、目には見えにくい明治維新の本質がここに姿を現したのである。

 文久三年(一八六三)八月、朝廷は筑前の平野國臣、久留米の真木和泉・水野丹後・木村三郎・池尻茂左衛門・宮部鼎蔵・肥後の山田十郎、長州の益田右衛門介・桂小五郎・久坂玄瑞、津和野の福羽文三郎、土佐の土方久元ら尊攘倒幕派の諸藩士・浪士に学習院出仕を命じた。これは雄藩が公家との接点たる場を求め、藩士を御用掛の名目で学習院に送り込もうと望んだのに応えたものであるが、薩摩藩は、一足先に既に公家との交流を深めていたことは、既に見た通りである。問題はそのような公武の交流活動が始まった時期であるが、これより十年ほど遡る安政初年あたりと見て良く、それに京都学習院が深く関わったのではなかろうか。

   ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)    <了>

 


●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1
 
 ●陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記(50)-1

  -公武合体に淵源した明治維新の展開を敷衍する 

 
 ★新井白石が唱道し阿部正弘が実行する 

 
 先月稿は、『文藝春秋』昭和十五年十一月号所収の白柳秀湖論文「明治維新の三段展開」を引きつつ、明治維新の根底が公武合体の政治理念に淵源することを述べた。今月も引き続きこれを敷衍していく。

 江戸幕府の開祖・徳川家康から秀忠・家光と続く三代は、貿易統制を主眼とした鎖国政策を実行するために、半ば郡県的な封建国家体制を樹立した。その拠って立つ重農主義的財政基盤は、滔々として浸透する貨幣経済との間の矛盾によって早晩破綻を免れぬもので、そのことを先見する人士がやがて閣老の中にも出てくる。十八世紀の初頭、六代将軍家宣の重臣・新井白石は、国家体制を封建制から近代制に改めるための政治理念として公武合体論を唱えた。白石の論旨は「上に朝廷を仰ぎ下に公家及び諸侯があり、幕府はその間に在りて天下の政治を執行するべきもの」と謂うもので、目的は徳川政権の補強策であった。

 当時はまだ徳川氏の全盛期で泰平の世であったから、その意義は世に実感されることなく純然たる学問的論説に止まり、客観的情勢もこれに応じるものはなかったが、時代が安永天明(十八世紀後半)と過ぎて弘化嘉永(十九世紀後半)に差し掛かり、尊皇攘夷論が漸く高潮してくるに連れ、政策としての現実的を帯びてきた。

 すなわち天保の改革に失敗した水野忠邦の後を受けて、弘化二年(一八四五)老中首座に登った阿部伊勢守正弘が、新井白石が唱道した公武合体論を実行に移したのである。阿部は政体徳川幕藩体制の運用を一部改め、将軍と少数の譜代・旗本による寡頭政治から、親藩・外様の雄藩との連携合議方式に変えた。言ってみれば、譜代党による一党支配体制から、親藩党・外様党を含む大連立体制に移ったのである。かくて連立政権に入った雄藩から、阿部は水戸藩の老公(前藩主)徳川斉昭を海防参与(外交顧問)として幕政に招聘したが、他の雄藩諸侯すなわち尾張藩徳川慶勝、越前藩松平慶永、薩摩藩島津斉彬、長州藩毛利慶親、土佐藩山内容堂、肥前藩鍋島閑叟、筑前藩黒田長溥、宇和島藩伊達宗城らも幕政に発言権を持つようになった。彼らは謂ってみれば、政調会の委員のようなものであろうか。

 雄藩諸侯のうち阿部正弘の公武合体的政策に最も協力したのは島津斉彬で、その真摯重厚な性格からして朝廷からも幕府からも信頼最も厚く、家系的にも公家と将軍家に深い血縁を有していた。すなわち島津家は、家祖・忠久の因縁で摂家筆頭の近衛家と親しかったうえに、先々代・重豪は将軍家斉の叔母保姫を正室に迎え、自らの息女茂姫(後の広大院)を家斉に嫁していた。斉彬も島津安芸の息女で従妹に当る篤姫を養女にし、阿部正弘と相談の上で重ねて近衛家の養女に入れ、将軍家定の御台所に送り込もうとした。斉彬の狙いは篤姫を通じて将軍家定を操り、その継嗣に英才を以て聞こえた一橋慶喜を据えることにあったと言われる。

 時に安政三年(一八五六)斉彬腹心の下級武士西郷吉之助が斉彬の密命を帯びて上京、近衛家老女・村岡と相計らって養女縁組をまとめた。維新を主導した改革者西郷隆盛も、このころは主君の公武合体思想を尚んでいた。公武合体の推進に打ってつけのキーパーソン島津斉彬に対して、水戸老公以下の前掲有力諸侯が一致協力し、公武合体の理念の下に画策していれば、新国家体制の 樹立も円滑順調に行われたであろう。

 
 ★二つの対立軸・外交政策と譜代対親藩・外様勢力争い 

 
 しかしながら、現実の維新史が波乱曲折の幕末現象を現出せざるを得なかった主因は、何を措いても外交政策の不一致である。それは老中首座(首相)・阿部正弘ら開国派と海防参与・水戸斉昭ら鎖国派の意見の対立から生じた。すなわち嘉永六年(一八五三)、突如浦賀へ来航した米国東インド艦隊のペリー提督が呈出した米国大統領フィルモアの国書へ対応せんがため、阿部が海防参与(外交顧問)を委嘱した水戸斉昭の、水戸学の伝統をかざす攘夷論は極めて強固で、閣内不和の決定的要因となった。

 しかもこの頃、幕末現象をもたらす第二の対立軸が生まれていた。従来幕政を壟断してきた譜代党と、幕政に新しく参画した親藩・外様党の勢力争いである。江戸城内の伺候席の中でも有力譜代大名の居る溜之間は、儀式の際に老中の上に座すほど格式が高く、重要事項に関して老中から諮問を受ける立場であった。その溜之間上席で譜代筆頭の彦根藩主に嘉永三年(一八五〇)、井伊直弼が就いた。譜代党のリーダーとなった直弼は、阿部が先例を破って海防参与に起用した水戸斉昭が、攘夷論を唱えて閣内を乱す有様に反感を強めていたが、翌七年ペリーの威圧に屈した阿部が日米和親条約を締結せんとするや、これを攻撃する斉昭と溜之間詰上席の直弼との対立は頂点に達した。斉昭は阿部に、開国派の老中・松平乗全と松平忠固の更迭を要求し、安政二年(一八五五)阿部はやむなく両名を解職する。これに対し直弼は、溜之間詰から新老中を起用することを求めたので、阿部は天保の改革時の老中で漸進的開国主義者の堀田正睦を再登用して首座を譲り、自身は幕閣の実権を握ったまま老中として残った。

 外交問題をめぐる次なる対立は安政三年で、老中首座・堀田正睦が米国総領事ハリスから迫られた日米修好通商条約の調印問題である。安政四年(一八五七)阿部正弘が急死した後、名実ともに老中首座になった堀田正睦は、直ちに松平忠固を老中に再任して次席格とし、溜之間詰主導による堀田=松平の連立幕閣を形成した。この連立幕閣は、安政四年十月二十一日ハリスを江戸城内で将軍家定に謁見せしめ、その要求してきた日米修好通商条約を翌安政五年を期して調印し、六月中旬より実行することを約した。この時堀田は、同じ開国派の越前侯・松平慶永の意見を容れて、遅れ馳せながら朝廷に上奏して勅許を得るとともに、内容を全国の諸大名に示して利害得失を論ぜしめたので、ここにおいてか条約締結是非の論が国を挙げて沸騰する。

 堀田はまず、林大学頭を先発させて条約締結の経緯を上奏するが、既に決定し後に勅許を乞う不埓を詰られるのは、朝廷の背後に諸大名の支持と澎湃たる世論があったからである。安政五年一月自ら上京した堀田は、条約締結時の苦しい事情を朝廷に開陳し改めて勅許を乞うたが、侍従岩倉具視の暗躍により中山大納言以下八十八人の下級公家が結束し、列参して上奏讒訴したため、折角の上級公卿買収策も水泡に帰し、空しく江戸へ引き上げてきた。

   続く。
 








上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。