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●岩屋天狗と千年王国 <24>
                          インド・ユダヤ人の光と闇_1
                          ヒトラーの教皇_1



 『ザビエルの同伴者アンジロー』の紹介も長くなったが、最後にアンジロー書翰、
 度々論じられる有名なアンジロー(ヤジロウ)の自己紹介的書簡についての興味深い一章を読んでみる。
 

 ■アンジロー書翰

 ・・・中略・・・


 ★過去の翻訳の問題点
 
 本書翰は過去七〇年間にわが国で四回翻訳され、キリシタン史の開幕を飾る書翰として、また日本人がポルトガル語でアルファベットを用いて記した最初の書翰として知られてきた。私も作者がアンジローで、使用言語がポルトガル語であると信じて疑わなかったが、アンジローの生涯を調べる必要上、念のため現存する本書翰のマイクロ・フィルムを南欧三カ国から取り寄せた。その結果、原本が現存しないことから、原本とほぼ同時期に作成された四写本が手元に集まった。これらの写本を比較対照すると、いろいろなことが分かってきた。意外なことに四本ともポルトガル語ではなく、すべてスペイン語で書かれていた。原本がポルトガル語であるとしたら、本国ポルトガルに残す二本までがスペイン語であることは不自然である、と直感した。さらに事実として、アンジローがスペイン語を学んだ形跡はまったくないことから、今まで言われてきたように本書翰の作者がはたしてアンジローなのか、という疑問が生じてきた。そこで私は四写本中、書体から判断して、最も古いと思われるポルトガルのアジュダ図書館蔵写本(ジェズイタス・ナ・アジア部四九-Ⅳ-49、二葉裏~六三葉裏)をテキストとして翻訳していく過程でさまざまなことに気づいた。

 ★書翰の構成と内容分析

 説明の関係上、まず本書翰の構成を述べておこう。本文は上述の書翰中に示したように三部から成り立っている。第一部はイエス・キリストヘの信仰によって得られた救いに対するアンジローの感謝、第二部は曰本脱出から二度の了フッカ行きを経て、ザビエルと出会い、ゴアで受洗するまでの体験、第三部は神の恵みに対するアンジローの感謝とザビエルの曰本布教への協力表明と支援の要請であ これらの各部分を詳細に検討していくと次のような新たな事実が分かってきた。
 第一部は書翰の導入部分であるが、そのほとんどすべてが聖書の語句からなっている(その出典はすでに先学によって明らかにされている。このことから作者は常曰ごろから聖書に慣れ親しみ、自然に聖句が口をついて出るような教養の持ち主であること。
 第一部から第三部までに使用されている語彙は豊富で多彩であり、文体は文中に分詞構文や接続法が自由に用いられ、ヨーロッパ人の発想にもとづく完全な文章体であること。
 第二部はアンジローの体験であり、この内容はザビエル書翰(一五四八年一月二十日付コーチン発)に記されているアンジローにかんする記述と一致すること。

 以上から、私は作者・作成過程・使用言語・史料的価値について次のように考える。

 ★アンジロー書翰への新見解

 作者は従来よりアンジローと考えられてきたが、現存する写本がすべてスペイン語であること、第一部の導入部分の聖句の引用、語彙の豊富さ、文体などから、アンジローではなく、聖パウロ学院において彼の指導者であったスペイン人のパードレ・コスメ・デ・トーレスと考えられる。

 作成過程として、トーレスはアンジローがみずからの体験(第二部)をポルトガル語で下書きしたものにもとづき、第一部と第三部を加えて作成し、アンジローが最後にサインしたと考えられる。
 使用言語はトーレスの母国語であるスペイン語であり、原本はスペイン語であったろう。

この原本から写本がただちに作成されたので現存する同時期の写本がすべてスペイン語であると考えられる。

 史料的価値について、本書翰の実質上の作者はトーレスであるが、第二部はアンジローの体験にもとづいており、このことはザビエル書翰からも裏付けられるので、信憑性が高く、史料的価値が高いこと、第一部と第三部は直接アンジローが書いたものではないがアンジローの立場に立って彼の高揚した気分を代弁したものと考えられること、などからともに史料として十分活用できる。

 現在までわが国で本書翰がアンジローによってポルトガル語で書かれた、と信じられてきた理由は、
 ①ザビエル書翰にアンジローは八ヵ月でポルトガル語の読み書きを学び、ロヨラ宛に詳しい内容の書翰を書いたと記されていること、
 ②過去四回和訳されたが、そのテキストが一五九八年ポルトガルのエヴォラで出版された『イエズス会日本書翰集』(いわゆる「エヴォラ版」)であり、同書の表記がポルトガル語であり、当然アンジロー書翰もポルトガル語であったこと、などの理由から、今まで作者や使用言語にかんしてあえて詮索されなかったからであろう。

 ★エヴォラ版の削除箇所

 今回、エヴォラ版アンジロー書翰とアジュダ写本を比較対照していたとき、エヴォラ版に一カ所重大な削除箇所を見出した。この内容はザビエルとアンジローがマラッカで出会う前に、すでにポルトガル商人がアンジローにゴアの神学校である聖パウロ学院へ行くように勧めていることである。このことはサビエルによる日本開教のいきさつとポルトガル商人の役割を再検討するきっかけを与えてくれた。
 次にこの「アンジロー書翰」をもとにアンジローの前半生を明らかにしてみたい。

 *************** 
 

 アンジローの「前半生」とは、当然一五四八年十一月二十九日附けイエズス会総長・ロヨラおよび同僚宛ての書簡をもとに推察していく「作業」なのだが、次回からは↑の写真の
 ★『インド・ユダヤ人の光と闇』に(主に)拠りながらザビエルその人、時代、ザビエルと「ヤジロウ」との出会い(また「ヤジロウ」に戻す)をみていくことにする。
 (『インド・ユダヤ人の光と闇』 徳永恂・小岸昭 新曜社 2005年7月。)

 ただし、その前に●疑史 第56回 と ●吉薗周蔵の手記(29) の紹介をしておきます。
 

 
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●岩屋天狗と千年王国 <23>
 『ザビエルの同伴者アンジロー』 岸野久 より。

 ■「大曰」問題-アンジロー再評価のために

 
 ★「大日」問題とアンジロー


 従来のキリシタン史でアンジローの評価が今一つ芳しくないのは彼の末路と、なによりも彼がザビエルによる「大曰」使用の元凶とされていることである。彼の末路についてすでに述べたので、ここではザビエル「大曰」使用とアンジローとのかかわりについて述べてみたい。

 この問題に本格的に取り組んだのは☆シュールハンマー神父である。『十六、七世紀における曰本イエズス会布教上の教会用語の問題』(一九二八年)はそれまでまったく知られていなかった「大曰」関係文書を紹介し、それをもとにした唯一の研究であり、今曰まで強い影響を及ぼしている。海老沢有道博士は「大日」使用とアンジローとのかかわりにについて、同神父の研究を次のように紹介している。「シュールハンマーはヤジロウ〔アンジロー〕の曰本宗教知識の貧困と誤謬の多いことを論じ、なかでもザヴィエルにキリスト教の神を『大曰』と呼ぶように教える大失敗を犯した事を論ぜられた」(「ヤジロウ考」『切支丹史の研究』)。またのちに『曰本キリシタン史』(一九六六年)においても「〔ザビエルは〕曰本人伴侶ヤジロウの無学のために、当初はそれを『大曰』=Dainicheと呼ぶような大失敗を犯したのであった」と述べられている。これら二つの文章には多少のニュアンスの違いはあるが、ザビエル「大曰」使用の原因がアンジロー、具体的には彼の「無学」にある、という点では一致している。このような、「大曰」使用にかんするシュールハンマー神父の「アンジロー元凶論」は国内外において反論もなく引用されて今曰にいたっている。

 ☆ゲオルク・シュールハンマー神父: ドイツ人イエズス会士。
  主著は、『フランシスコ・ザビエル―その生涯とその時代』全四巻(1955~1971)。
  次回以降で紹介していきます。
 
 ★「大日」問題にかんする新見解

 私はシュールハンマー神父の研究をもとにさらに南欧各地でえられた文書を分析する過程で、ザビエルによる「大曰」採用のプロセスを明らかにすることができた。この結果、ザビエルの「大曰」採用は従来考えられてきたように単純なものではないことが分かってきた。その詳細については、別著『西欧人の曰本発見』に譲るが、ここでは次の三つに分けて検証してみたい。(1)ゼウスを(に)「大曰」をあてたのはアンジローの「無学」のゆえなのか、(2)ザビエルはゴアで「大日」を採用するさい、なんらかの検討を加えているか、③ザビエルによる「大日」採用の意図は何か、の三点である。

 ★アンジローは「無学」か

 まず、アンジローが「無学」で仏教知識に乏しかったことから、デウスに「大日」をあてたとする見解について述べる。ゴアでザビエルは日本行きを前にして、天地万物の創造者で、唯一・絶対なるキリスト教の神デウスをどのように表現するか、大いに頭を悩ませたに違いない。当時、ゴアでは日本の宗教がいかなる宗教なのか、キリスト教はすでに日本に伝来しているのか、日本の宗教とキリスト教との関係はどうなのか、まったく分からなぃ状況であった。ゴア在住のパードレの中には、日本にもキリスト教が中国(景景教経由か?)から伝わったと考える人もいたほどである。このようなとき、アンジローはランチロットあるぃはザビエルから、日本の宗教における究極の存在について聞かれたとき、日ごろ親しんできた真言宗の知識をもとに、それは大日如来(略して「大日」)である、と答えたのである。大日如来とはマハ・ヴァイローチャナ・タクーガタすなわち、マハーが「大」、ヴァイローチャナが「非常に輝くもの」、タクーガタが「如来」を意味し、これを太陽に喩えて大日如来と意訳したものである。つまり、太陽のごとく、修二絶対なる宇宙の根本仏であり、諸仏の最高位にある仏である。密教の伝統的な考えに「唯一身説」があり、これによれば大日如来は一神教の神に近い存在となる。太陽のイメージは一六一八年十二月二十五日付コンスタンツォ書翰に「彼】ザビエ古はたまたまこの神〔大日〕がキリストであり、正義の太陽であると信じていた」とあるように、唯一にして絶対なるデウスと「大日」とが太陽のイメージで重なっており、アンジローがデウスを「大日」とあてたことはあずしも的はずれのことではない。
 また、のちのことであるが、一三六〇年六月二十日付ロレンソ書翰に「真言宗の人〔僧侶〕は、私たちの説くところをダイニチ〔大日〕であると言い」とあるように、「有学」の真言宗僧侶も「大日」をデウスと同一視しており、真言宗の立場に立てばデウスに「大日」をあてるのは当然のことであった。したがって、今まで言われてきたように「無学」ゆえにアンジローが「大日」をあてたとはいえないのである。このデウスの訳語の問題は一つの文化(宗教もこの一つである)を他の文化に移すときに不可避的に生じる、今日でも解決困難な問題の一つである。このことは幕末以降のキリスト教の神の訳語の変遷をみればよく分かるであろう。

  ★「大日」採用とザビエル

 第二に、ザビエルは「大日」を採用するさい、なんらかの検討を加えているか、について述べる。このような事情を記した直接史料はないが、間接的に解明することが可能である。上述した、ザビエルのために作成されたランチロット編「日本情報」がその材料となる。「日本情報」はランチロットがアンジローから日本に間する事情を聴取し、これらを編集したもので、この文中には編者・ランチロットによるキリスト教的解釈が含まれている。ランチロットの原本はイタリア語で作成されているが、幸いなことにこの「日本情報」にはザビエルのスペイン語訳が存在する。「日本情報」には宗教用語として三つの日本語すなわち、デニチ(大日)、コヂ(荒神-三宝荒神)、カンノン(観音)が存在するので、この三つの単諸にかんする部分のみ、ランチロットの正本とザビエルのスペイン語訳を比較してみよう。

 (1)デニチ

 みな唯一の神を崇拝する。それは彼らの言葉でデニチと呼ばれている。このデニチは、しばしば
一つの身体に三つの頭〔三面一体〕をもって描かれ、それでコヂと呼ばれている。この人〔アンジロー〕は三つの頭の意味が分からなかったが、デニチも〔三面一体〕のコジも、私たちの神と三位一体のように、すべて一つであることを知っていた。・・・シャカは万物の創造者である唯一の神が存在することを教えた。

 (2)カンノン

 
彼らはまた、私たちの処女マリアのような、子供を腕に抱き、彩色された婦人〔像〕を持っている。これはカンノンと呼ばれ、私たちの聖母と同じように、どのような不幸のさいにも、普く守護してくれるものとされている。しかしこの人〔アンジロー〕はこの聖なる婦人の歴史や生涯を説明できなかった。

 以上のうち、棒線部分(*当ブログでは青字部分)がザビエル訳で削除されている箇所である。(1)を見ると、唯一神が「大日」tpあてられたところとコジは原文のまま残されているが、大日如来の化身で
三面一体の〔三宝〕荒神がキリスト教の三位一体〔父なる神、子なる神、聖霊なる神は一体であるという教理〕と解釈される部分は削除されている。②では子供を抱く母子観音が御子イエスを抱く聖母マリアと対比されているが、スペイン語訳では全面的に削除されている。

 以上、ランチロット〔日本情報〕中の日本語の宗教用語を選び、その部分の正本とスペイン語訳とを対照し、削除箇所を示してきた。このスペイン語訳に存在する他の削除部分や書き改めた箇所も含めていえることは、サビエルは「日本情報」を細部にわたって慎重に検討していること、彼は未知の宗教を安易にキリスト教的に解釈したり、キリスト教のものと対比することに批判的であること、が分かる。しかし、すでにお気づきのように、「デニチ」は例外である。「唯一の神」「万物の創造者である唯一の神」に「デニチ」があてられている箇所は「カンノン」の例からみれば、当然、削除の対象となるべき箇所である。にもかかわらず、削除せず「大曰」を残している。それゆえデウスの訳語として「大曰」を用いるにあたってはしかるべき理由があったに違いない。

 ★ザビエル「大日」使用の理由

 第三に、ザビエルが「大曰」を使用した理由について考えてみよう。
 ザビエルは来曰する前に約六年間インド半島や他地域での布教経験があった。その間、インド半島の漁夫海岸ではキリスト教教理のタミル語訳を行い、部下のエンリケスによるその改訂作業も当然知っていたので、教理書翻訳の困難さも問題点も十分分かっていたはずである。インドではザビエルはキリスト教教理をタミル語に翻訳するさい、デウスをはじめとする重要な宗教用語はタミル語に翻訳せず、原語のポルトガル語を使用しており、宗教用語にかんして原語主義を方針としていた。そのザビエルがなぜ曰本においてデウスには原語を用いず、訳語の「大曰」を用いたのであろうか。この問題を考える場合忘れてならないことは、サビエルが未知の国曰本へ最初に入る宣教師であるという特殊事情である。このことを無視しては理解できないであろう。

 来曰前、ザビエルにはデウスか「大曰」か二つに一つの選択肢があった。そのさい両者のそれぞれについてプラス、マイナスの検討があったはずである。その結果デウスではなく「大曰」が選ばれたのは、なによりもまず曰本社会に宣教師が受け入れられ、曰本人とのコミュニケーションを第一義としたからではなかろうか。まず、曰本社会に入って曰本語を学び、曰本の宗教事情をはじめとする諸事情を調べる必要があった。最初からデウスを説いたのでは曰本人との間にコミュニケーションが成り立たず、曰本到着そうそうから活動できない恐れがあった。そこでとりあえず曰本人になじみのある「大曰」を用い、「大曰」をキーワードとして曰本の宗教を知る手がかりとしようとしたものと考えられる。

 来曰後の経過をみると、結果的には「大曰」を説くキリスト教は「天竺宗」として、別の宗教ではなく、仏教の一派と見られたものの、ザビエルらは曰本社会に比較的スムーズに入ることができ、いち早く領主・島津貴久や宗教界の長老・忍室らと親交を持つことができた。そしてその一年後にはフェルナンデスの曰本語も上達し、やがて真言宗の憎侶との対話も可能となり、一五五一年彼らとの論議を通して「大曰」とデウスが同一でないこと、キリスト教と仏教とが互いに異なる宗教であることが分かった。「大曰」は開教期にあって曰本社会とザビエル、仏教とキリスト教を媒介するキーワードとして機能したのである。

 ザビエルの「大曰」使用は曰本布教のパイオニアとして曰本社会に入り、曰本の宗教を認識し、理解するための一つのステップであったといえよう。したがってザビエルの「大曰」使用を従来の研究のように単純に失敗と片付けられないし、ましてやその全責任をアンジロー一人に負わせることはできないのである。

 「大曰」は一五五一年以降布教の場から消えたが、宣教師の仏教研究の場においては生きていた。一五六〇年代初め「大曰」はスコラ哲学の「第一質料」(マテリア・プリマ=万物の基礎材料)と規定され、禅、神道、儒教などの究極を哲学的に分析するさいのキーワードとして用いられていたことをつけ加えておく。

 ■「大曰」問題-アンジロー再評価のために <了>
                   
 



●岩屋天狗と千年王国 <22>
 『ザビエルの同伴者アンジロー』から続ける。 
 

 ■貴久☆の禁教とアンジローの出奔 p198~
  ☆島津貴久(たかひさ):島津家第十五代、「名君」・忠良(ただよし)の嫡男。 
 
 ★キリスト教禁教の理由と経緯 

 
 ザビエルの布教活動について当初は好意的であった貴久がやがて禁教へと変わった理由と経緯について、ザビエル書翰は次のように述べている。

 ・・・これらの坊主(ボンゾ)たちは領主に対して、もしも家臣たちに神への信仰を許すならば、領地は失われ、人々によって寺院は破壊され、冒瀆されるだろうと言いました。というのは、神の教えは彼らの教えと反対であり、神の教えを信ずる者はかつて彼らの教えをつくった聖なる人々に抱いていた信心を失ってしまうからです。そしてついに坊主たちは、その地の公爵〔貴久〕に対して、死罪をもっていかなる者も・キリスト教徒にならないように命じるようにさせました。
かくして公爵はいかなる者も信者にならないように命じました。(一五五二年一月二十九日付書翰)

 すなわち、キリシタンの教えは社会の根幹を揺るがす危険思想であるという仏憎の働きかけによって貴久が禁教へと変わった、としている。貴久の禁教の理由は後述するが、その実態がどのようであったか見ておきたい。内外ともに史料が乏しく、よく分からないのが実状であるが、禁教体制は続いていたようである。次にいくつかの例をあげてみよう。ザビエル鹿児島退去後、同地にキリシタンが存在することが分かっていながら、一〇年間以上も宣教師が派遣されていないことは、貴久の禁教体制が継続していたことを示している。またヴァリニャーノ『東インドにおけるイエズス会の起原と進歩の歴史』に「彼ら〔サビエルー行〕はそこ〔鹿児島〕でとてもひどい迫害を受けたので、もはやなんらかの成果も期待できないことを知り、退去を余儀なくされ、信者たちを大いに悲しませた。そして彼らは平戸へ赴いた。・・・薩摩の信者を慰めるためパウロ・デ・サンタフェが残った。のちに信者の一部は死亡し、一部はパードレから援助を与えられることなく迫害を受けて死亡し、一部はまだ上述のパードレ〔ザビエル〕の偉大な徳と聖性をはっきりと記憶して生きている」とあり、貴久の禁教と迫害の事実を伝えている。なお、文中のザビエルのことを記憶している人々とは市来のミゲルらのことであろう。

 市来も一五六〇年代禁教下にあったことは上述のアルメイダ書翰からも分かる。すなわち夫人も子供たちも信者であった市来城主・新納康久についてアルメイダは「彼〔城主〕がキリシタンとなって信仰をあえて表明しないのは、国王〔貴久〕の許可を得ず他の教え〔キリスト教〕を信ずることが国王に分かったら、やがてこうむることになる損失を彼が恐れているからである」(ローマ・イエズス会文書館、日本・中国部四、二三七葉)言記しており、城主は、貴久の処罰を恐れて、あえて洗礼を受けなかったことが分かる。
 
 
 ★『日新菩薩記』とキリシタン
 
このように島津家の禁教体制は一貫していたのであるが、貴久ら支配者層はキリシタンをいかなる宗教と捉えていたのであろうか。これも史料がなく確かなことは分からないが、貴久の父・忠良の伝記(一五九七年、泰円守貝による)とされる『日新菩薩記』にある忠良の次の御詠歌をもとに推測してみよ

 魔の所為か、天眼拝み 法華宗
 一向宗に  数奇の小座敷

 これらは忠良が魔のなすところとして排斥したもので、ここには法華宗、一向宗と並んで「天眼拝み」があげられている。「天眼」はキリシタンと解されているので、キリシタンは禁止さるべき宗教の一つとされていたのである。このうち一向宗禁止の理由は「父母を軽んじ、仏神を疎んずるもので、神明仏陀を忘れ、父母先祖に背くから、天下国家を乱す」と明白に記されており、キリシタンも、「彼〔忠良〕の鎖国第一義の思考様式、封建的な規範の確立、固定的な臣従関係の確立という当面の目標に合致せぬと判断された」(三木靖『薩摩島津氏』一九七一年)宗教として、一向宗と同類と見なされたことが分かる。確かに、キリシタンの教えには、唯一にして絶対なる神のほか、日本の伝統的な神・仏を認めず『ドチリナ・キリシタン 第七』に「親、主人、司たる人によく随へと云う事は、科にならざる事を云はれん時の事也」とあるように、親・主人への服従も神の掟に反しない限りである、とあり、これは封建体制確立をめざす支配者にとって鎖国の存立基盤を危うくすると
教えと考えられたのである。これまで貴久は父・忠良の指導の下、父子一体となって薩摩統一事業をすすめ、忠良のの貴久への指導力は絶大なものであった。こうした忠良・貴久のキリシタンへの姿勢と仏憎からの要求があいまって貴久の禁教方針が定まったと考えられる。
 
 ★アンジローの教会離脱・出奔理由
 
 以上、不十分ながら貴久のキリシタン禁教の理由とその展開を明ら かにしてきたが、このことを前提として、アンジローの教会離脱・         出奔について市来のミゲルと対比させながら考えてみたい。というのは同じ禁教下にあって市来のミゲルと鹿児島のアンジローは好対照の道を歩んだからである。私はこの問題をすでに明らかにした両者の宣教団における役割を通して述べることにする。

 私はアンジローの同宿的役割、ミゲルの看坊的役割を指摘しておいたが、ヘスース・ロペス・ガイ神父は二つの役割を比較してその特徴を次のように指摘している。「彼ら〔看坊〕には同宿の有する巡回者、布教者の性格はなく、常に教会内で働くものである。その聖務には、特に強調された同宿の宣教的分野はない。看坊の活動は、そのような来信者を対象とするものではなく、すでに信者となった人々の世話に焦点が置かれている」(「キリシタン史上の信徒使徒職組織」『キリシタン研究』一三)。つまり、同宿の働きは異教徒への働きかけを主とする外向きの、組織拡大型のいわば攻めのタイプの活動であるのに対し、看坊の働きはすでに改宗した信者の世話を主とする、内向きの、組織防衛型の、いわば守りのタイプの活動である。このことを念頭において改めてミゲルとアンジローの働きをまとめてみると、ミゲルは市来城の家老職にあり、約一五名の集団(のちには七〇名へと拡大)を指導する看坊役であった。その主たる活動の対象は信者である彼の家族と城主夫人とその家族であった。教会は城中にあり、初め建物がなく信者の集会(見えざる教会)であったが、やがて教会がつくられた。つまり、城中の市来集団は一般社会とは遮断された、一種の「隠れキリシタン」であったといえよう。ミゲルは城外に出て布教活動をした形跡はなく、城中の信者の信仰保持に専念し、貴久ら鹿見島在住の支配者や仏憎を刺激することもなかった。島津氏による禁教下、ミゲルは看坊役に徹することによって、市来集団を半世紀以上にわたって維持することができた。後世の看坊をみると、一七世紀になると国家的な規模で禁教、迫害が実施・徹底され、一六一四年には宣教師が国外に追放されるが、宣教師に代わって、地方の教会を支えたのが日本人の看坊であった。彼らは潜伏下の教会において隠れキリシタンのりーダーとなり、信者の世話にあたり、信仰集団を維持したのであるが、ミゲルはその先駆といえよう。
 
  ★「同宿役」アンジローの悲劇
 
 これに対し、アンジローはザビエルの行くところには常に同伴して各地を巡回し、ザビエルの通訳をし、ときには、ザビエルに代わって説教したり、教理教育をする同宿役であった。彼はミゲルとは対照的に、一般社会に向かって積極的に働きかけるタイプの役目であった。したがってアンジローはザビエルの退去のさい、鹿児島の信仰集団を委ねられてから、禁教へと向かう薩摩の政治・社会状況を配慮して、従来の同宿役から看坊肪役へと役柄・仕事内容を転換させる必要があった。しかしながら、それは実際上、無理であった。というのは、教会のまとめ役としての看坊たるに相応しい諸要素-年齢、身分、地位、
☆教養-のどれをとっても、アンジローにはほど遠かったしもともとアンジローは組織防衛型の看坊として訓練されていなかったからである。アンジローはザビエルあっての同宿役であり、ザビエルの退去により、後盾を失うことになった。にもかかわらず、以前と同じように同宿役として孤軍奮闘するアンジローに対して、社会の風当たりは強く、ついにザビエルより託された鹿児島の信者を放置して、再度、故郷を出奔せざるをえなかったのである。アンジローの出奔理由に彼の信仰心の弱さを指摘する見解があり、もちろん、それも否定できないが、主たる理由とすることはできない。
 
 註:アンジローの教養不足という点について、著者は次の章(★アンジローは「無学」か)で否定している。

 
 アンジローは市来のミゲルのように、外界から隔離された城中に留まって自らの信仰と信者を守ることができなかった。彼には、妻子や母親がおり、ザビエルから信者を託されていたので、かつての召使で独身のジョアネやアントニオのようにザビエル宣教団の一員として再度インドと日本との間を往来し、信仰を貫くこともできなかった。このように、ミゲルにもアントニオにもジョアネにもなれなかったところにアンジローの悲劇があった。アンジローの最期はメンデス・ピント(フロイスも同じ)によれば、八幡(バハン・倭寇)の一員に加わり、中国の沿岸で紛争に巻き込まれて殺害されたということであるが、本当のところは分からない。

 **************

  続く。
                      
 



●岩屋天狗と千年王国 <21>
                          ザビエルの同伴者アンジロー_1

 ●『ザビエルの同伴者アンジロー』  岸野 久  吉川弘文館2001・9・1  
 
 この著の刊行は、前掲『ザビエルとヤジロウの旅』(1999年)と『クアトロ・ラガッツィ』(2003年)のちょうど中間に位置するもので、大住氏は当然参照不可能だが、若桑史は、〔第二章-われわれは彼らの国に住んでいる 「リーズン」〕(文庫版・上・p250)のなかで少しだけ〔アンジロー・ヤジローと【デウス→大日】翻訳〕について述べている(後記)。

 タイトルに偽りなしの本で、「アンジロー」について、簡略だが要点(問題点、課題)はすべて簡潔に述べられており、以下<「アンジロー」の最後>を中心に紹介していく。

 
 ***************

 ■アンジローの末路にかんする史料

 ★アルメイダの薩摩旅行

 一五六一~六二年アルメイダは鹿児島を訪れた。そのわけは、島津貴久がポルトガルとの通商に意欲を燃やし、日本イエズス会の布教長で豊後在住のトーレスにその仲介を求めたのに対して、トーレスがこの要請を受けてアルメイダを使者として、鹿児島へ派遣したからである。そのいきさつと結果については別著『ザビエルと日本』に譲ることにする。さて、アルメイダは六一年十二月市来(いちく、現いちき)を訪れ、ミゲルに率いられた約一五名の信仰集団に会い、その足で鹿児島市内に入ったが、市来に存在したような信仰集団はなく、わずかに数名の信者の訪問を受けたのみであった。この人々の中にアンジローはいなかった。

 ★アンジローの薩摩出奔

 同じ薩摩領内で鹿児島の近くの市来ではミゲルは健在であったのに対し、鹿児島のアンジローにいったい何か起こったのであろうか。彼が鹿児島から消えた理由は何か、その行方とともに大いに気になるところである。というのはアンジローの評価と密接に関連しているからである。
 ところで、アンジローの末路を記した史料は今日まで三点知られている。第一は、フェルナン・メンデス・ピント『東洋遍歴記』(一五七八年ごろ成稿)、第二はルイス・フロイス『日本史』(第一部、一五八六年成稿)、第三はジョアン・ロドリゲス・ツズ『日本教会史』(一六二〇~二四年成稿)である。ここではアンジローの末路を論ずるさい、どの史料によるべきか、その内容と理由を明らかにしておきたい。そのために三点の史料から関連箇所を紹介しておく。
 第一はメンデス・ピント『東洋遍歴記』である。

 ★メンデス・ピント『東洋遍歴記』

 〔ザビエルは〕その教義によってそこ〔鹿児島〕で改宗させた八〇〇人のもとにパウロ・デ・サンタ・フェを残していった。パウロは彼らのもとに五ヵ月以上留まり、辛抱強く教義を説いていたが、坊主(ボンゾ)たちにひどく侮辱されたために、ついにシナに渡り、そこでリャンポー王国を跳梁していた海賊に殺されてしまった。(岡村多希子訳『東洋遍歴記3』一九八〇年)

 メンデス・ピントには誇張癖があるので、とくに数字に注意する必要がある。ここの信者の数字はゼロを一つ落として八○とすると実際の約一〇〇に近くなってくる。しかしアンジローの末路にかんする基本的なデータはそろっている。すなわち、

 (a)出奔の時期-サビエル退去の約五ヵ月後
 (b)出奔の理由-仏憎からの迫害
 (c)最期の状況-中国で海賊による殺害

 である。メンデス・ピントはアンジローをはじめ、ポルトガル商人・アルヴァレス、フロイスとも熟知の間柄であった。一五五六年メンデス・ピントはイエズス会のイルマンとして来日したが、このときフロイスとはマラッカまで同船している。

 第二はフロイス『日本史』である。

 ★フロイス『日本史』

 なぜならば、彼(アンジロー)は〔既述のように〕その妻子や親族のものにキリシタンになるようにすすめ、そして事実彼らはキリシタンになったが、その数年後、「彼は信仰を捨てたのか、キリシタンであることをやめたのか判明しないとはいえ〕、(いずれにせよ)異なった道を辿るに至った。というのは、かの薩摩国は非常に山地が多く、従って、もともと貧困で食料品の補給を(他国)に頼っており、この困窮を免れるために、そこで人々は多年にわたり八幡と称せられるある種の職業に従事している。すなわち人々はシナの沿岸とか諸地域へ強盗や掠奪を働きに出向くのであり、その目的で、大きくはないが能力に応じて多数の船を用意している。(したがって)目下のところ、パウロは貧困に駆り立てられたためか、あるいは彼の同郷の者がかの地から携え帰った良い収穫とか財宝に心を動かされたためか(判らぬが)これらの海賊の一船でシナに渡航した(ものと思われる)。そして聞くところによれば、そこで殺されたらしい。(『日本史・6』)

 フロイスは、在日イエズス会を代表する日本通の一人で、一五六三年来日し、三四年間日本に滞在し、信長、秀吉の通訳を務めた。今日までアンジローの最期を論じるさいにしばしば利用される史料である。アンジローの末路にかんするデータをまとめると、

 (a)出奔の時期-自分の妻子をキリシタンにしてから(一五四九年)数年後
 (b)出奔の理由-よりよい生活または富のための、個人的・現世的動機
 (c)最期の状況-八幡(倭寇)に加わり、中国で殺害

となる。

 ★第三はロドリゲス『日本教会史』である。

 坊主らは、パードレ達が平戸へ出発してから五ヵ月後に、パウロを国外へ追放した。すなわち、パウロはその信仰のために坊主らから受けた迫害が余りにひどかったので、日本にいることができなくなり、再び船に乗ってシナに向かい、彼らの狂暴を避けることにした。そして、フェルナン・メンデ  ス・ピントはパウロがシナに到着する前に途中で死んだと言っている。(『日本教会史 下』)
 ロドリゲスはアンジローにかんするデータすなわち、出奔の時期・理由・最期の状況についてすべてメンデス・ピントによっていることが分かる。私か注目しているのは、アンジローの末路にかんして、彼がフロイスの『日本史』によらず、メンデス・ピントを利用していることである。これはメンデス・ピントの記述に対するロドリゲスの肯定的評価であるといえよう。

 ★三史料の検討

 これら二つの史料(ロドリゲスの記述はメンデス・ピントに含める)のデータをまとめると、

 (a)出奔時期
  ①メンデス・ピント-ザビエル鹿児島退去の「五ヵ月後」
  ②フロイス-一五四九年から「数年後」
 
 (b)出奔理由
  ①メンデス・ピント-仏憎からの迫害
  ②フロイス-アンジロー個人の現世的動機

 (c)最期の状況
  ①メンデス・ピントおよび②フロイスとも中国で海賊による殺害

 となる。

 三つのデータのうち、アンジローがいつ、いかなる理由で、教会を離れ、国を出なければならなかったのか、という最も中心的な部分で二つの史料は相違しているが、いずれに信をおくべきであろうか。まず、出奔理由として、フロイスがメンデス・ピントのように外部(仏憎)からの迫害ではなく、貧困という社会的背景があるにせよ、あくまでもアンジローの個人的な動機に求めている点に私は疑問を感じている。というのは、すでに明らかにしたようにアンジローはザビエル宣教団において同宿役(*後、紹介)という、いわば宣教団のスポーークスマン的役割を果たしており、ザビエルの代役を務めているからである。そのアンジローに対し、ザビエル排斥の急先鋒にあった仏憎たちの攻撃が向かわなかったとは考えられないのである。次にアンジローの出奔時期であるが、フロイスの記述で、アンジローの出奔がなぜ「数年後」なのか理解できない。これに対し、メンデス・ピントのようにザビエル退去後の約「五ヵ月後」であれば、ザビエルヘの攻撃がただちにアンジローに向かったと考えられるので、合理的に説明がつき、納得がいくのである。

 以上から、アンジローの末路にかんする史料として、私はフロイスの記述にはリアリティが感じられないのでメンデス・ピント(およびロドリゲス)の方をとることにし、この記述をもとにアンジローの教会離脱、出奔問題について考えることにしたい。

  続く。                      
 



●岩屋天狗と千年王国 <20>
                           ザビエルとヤジロウの旅 大住広人_1


 ところで、この大内義隆との面談を「仲介」した「ある身分の高い貴人」とは誰なのだろうか?

 窪田一志氏は、「これは弥次郎(ヤジロウ)をさすものと思われる」と言う。
 (『岩屋天狗と千年王国』下巻 p33)
 *ヤジロー=橋口弥次郎左衛門兼清=岩屋梓梁

 また氏は、ザビエルはこの山口の地で「ヤジローとの宗教論争に敗退したため、豊後大分へ移り、ポルトガル船でインドへ帰った」とも述べる。

 真偽は藪の中だが、いずれにせよ、あれほどの期待を抱いて来日したザビエルの離日の動機は不明、不可解ではある。まして、イエズス会指導者の動機としてはいかにも弱すぎるのである。

 『日本史』を続ける。 二度目の山口入りとなる。  


 *************

 
 ●第四章(第一部五章) 文庫版、p50

 ★司祭たちが山口に帰還した後、この地で成果を生み始めた次第


 メストレ・フランシスコ(・ザビエル)師、がその伴侶とともに周防の国に向かい、国主(大内義隆)がその廷臣とともに住んでいる山口の市に戻って来た時に、フランシスコ師は、特に国主の好意と愛顧に与かるために彼を訪問しようと決意した。なぜならば彼は正統な国主であって、その同意と愛顧なしには同地に住むことができなかったからである。そのためにフランシスコ師は彼に捧呈する十三の立派な贈物を選定した。それらは、次のようなもの、すなわち、非常に精巧に作られた、時を告げる時計、三つの砲身を有する高価な燧石(ひうちいし)の鉄砲、緞子、非常に美しい結晶ガラス、鏡、眼鏡などであり、その他、インドの初代司教・ドン・ジョアン・デ・アルブケルケと、別に総督ガルシア・デ・サーからの二通の羊皮紙に書かれた書簡を添えた。ところでそれらの贈物は、いずれも、当時その地方ではかつて見たこともない品から成っていたので、国主は非常な満足の意を示し、ただちに街路に立札を立てさせ、その中で、彼は、その市ならびに領国内で、デウスの教えが弘められるならば喜ばしいとも、誰しも望みのままにその教えを信じてよいとも宣言し、それを周知せしめた。同時に彼は全家臣に対して、汝らは伴天連たちをなんら煩わしてならぬと命じ、フランシスコ師らに対しては、彼とその従者が居住できるように、一寺院(パコーデ)を提供した。さらに国主はインドヘの贈答品を携えて、一人の仏憎、もしくは俗人を自らの使者として派遣することを希望した。

 メストレ・フランシスコ師がもう一度国主を訪れた際、フランシスコ師は、はなはだ大型に作られており、ことのほか豪華な挿絵入りの聖書(ビブリア)と、新しく、かつ美しく華麗な注釈書(グロザ・オルデイナリア)を携え、これらの書物の中に私たちのすべての聖なる教えが記されていると語りながら、それらを彼に示した。国主は司祭が携えた緞子の(ミサ聖祭用の)祭服を見たがった。そこで司祭が提示すると、国主は彼に着用するように願った。ところでそれは非常に国主の気に入り、彼は手をたたき、「本当に、この伴天連は、我らの神々の一つに生写しじゃ」と言った。ところで数名の仏僧が同席していた。・・・略・・・ 

 
 以降、ザビエルと数名の仏僧の対話(教義論議)が続くが、片や〔三位一体〕此方〔真言宗〕(フロイスによれば、大日如来を本尊とする宗派となる)では、論争は成立しようもない。

 「仏僧」は、ザビエルの説に始めのうちは「笑う者」もいたが、そのうち論争自体を拒否(「彼らの僧院」へザビエル一行が訪れることさえ拒否)しだし、遂には「デウスのことに憎しみを抱き始め」た。

 ザビエルは、追放・暗殺などの虞れも感じたが、委細かまわず説教を続け、名望ある内田殿とその親族が入信したことを契機に「聖なる福音はその市(山口)に弘まりはじめた。」

 琵琶法師・ロレンソ=日本で初めてのイエズス会修道士=の入信もこの時であった。

 山口での布教は続くが、ザビエルはトルレス師とフェルナンデス師の二人を留めおいて、

 豊後の国へ向った。★

 フロイスは、その理由を「福音の種子を多くの諸国に蒔く」ためと記すが、すぐこうも書いている。「(ザビエル師は)ドゥアルテ・ダ・ガーマのポルトガル船がそこ(豊後)に入港したと聞いていたのである。」★

 豊後国主・大友義鎮はザビエルについてポルトガル人達を通じて以前から聞き知っていて、対面を待ち望んでいた。

 若き国主の歓待で布教の拡大も期待できたが、ザビエルが「インドへ旅行せねばならなくな」ったので、大友義鎮は一人の使節を派遣することにし、またインドから豊後への司祭の派遣を依頼した。


 **************

 『日本史』を続ける。
 フロイス版、パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)の棄教と彼の「最後」が示される。
 


 ●第五章(第一部六章) 文庫版、p60。


 「・・・司祭が豊後を出発するに際しては、右↑の使節のほか、インドとヨーロッパを見物することを願った他の二名の日本人を同伴した。そのうちの一人はマテウスと言い、山口の出身であった。彼はゴアの学院に数ヵ月滞在した後、病気で倒れた。もう一人のベルナルドという教名の日本人は、薩摩国の出身であった。彼は善い性格の持主であり、その徳操、敬虔、およびキリシタン信仰に対する愛によって一同を教化したとはいえ、容貌はいかにも優れなかった。メストレ・フランシスコ師が(インドを出発して)シナに向かったことについては追って述べるが、彼が出発した後、このベルナルドは〔司祭(フランシスコ)が当時インド布教長であり、ゴアのサン・パウロ学院の院長であったメストレ・ガスパル師に残して行った命令に基づいて]、アレシャンドゥレ・フェルナンデス修道士の伴侶として、彼とともにポルトガルヘ派遣され、聖父(ローマ教皇)の御足に接吻するために、そこから一行はローマに赳いた。彼は同所で目撃したもろもろのことにいたく感動した後、ポルトガルに戻った。そしてそこで病気となり、我らの主に召されて他界した。


 パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)が最後にどのようになったか。
を知りたいと思うのも当然である。それは人知の及ばぬ、計り知れないデウスの御裁きについて私たちの心に少なからぬ驚嘆と怪訝の念を生ぜしめずにはおかぬものがある。パウロは、この未開懇の葡萄園(日本)の発見者であるメストレ・フランシスコ師に日本の諸事情について知識を与えた最初の人物であった。彼は司祭たちをインドから日本へ導いた人であった。彼は彼らにこの国の言語や習慣について教えたその人であった。彼はまったく変身し、信仰に関することどもを十分教育されてインドから戻って来、人々がその円熟みと知識に期待していたとおり、あの当時、実際に良い模範を示した。ところが後になって幾人かは彼について(譬え話としてこんなことを)言ったのである。彼は賢人たちを東洋(オリエンテ)からよく導いて来たが、彼らといっしょにベツレヘムで厩の中へ入らなかった星のようだ、と。なぜならば、彼は〔既述のように〕その妻子や親族の者にキリシタンになるように勧め、そして事実彼らはキリシタンになったが、その数年後、〔彼は信仰を棄てたのか、キリシタンであることをやめたのか判明しないとはいえ〕、いずれにせよ異なった道をたどるに至った。というのは、かの薩摩国は非常に山地が多く、したがって、もともと貧困で食料品の補給を他国に頼っており、この困窮を免れるために、そこで人々は多年にわたり八幡(バハン)と称せられるある種の職業に従事している。すなわち人々はシナの沿岸とか諸地域へ強盗や掠奪を働きに出向くのであり、その目的で、大きくはないが能力に応じて多数の船を用意している。したがって目下のところ、パウロは貧困に駆り立てられたためか、あるいは彼の同郷の者がかの地から携え帰った良い収穫とか財宝に心を動かされたためか判らぬが、これらの海賊の一船でシナに渡航したものと思われる。そして聞くところによれば、そこで殺されたらしい。おそらく彼は死に先立って自らの罪を後悔し、立派に死んだのであろう。だがそれは不確かなことであるし、私たちは彼の最期について以上の情報以外のことは何も知っていない。

 ************** 


 では、フロイス『日本史」以外の、パウロ・デ・サンタ・フェ(弥次郎)の「最後」はどのように
 記されているのか? 次に確認したい。


 因みにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「ヤジロウ」にはこうある。

 「・・・その晩年については不詳であるが、上記フロイスの記述によれば、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば、仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという(岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー』、191-197頁。)」

  続く。 





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