カウンター 読書日記 バロン薩摩・薩摩治郎八
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●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (4) 
 ●『わが半生の夢』 を読みながら、幾度となく

 【天才佐伯祐三の真相】 Vol.11 を読み直した。  

 **************

 第九章 吉薗周蔵のパリ 第一節 ネケル氏の正体 

 二つの「物語」を往復しながらの思考の旅は何とも刺激的で心地よい。  
 

以下、一部引用紹介します。

 **************

 吉薗周蔵の渡仏に必要な小山建一名義の旅券は、昭和二年十二月二十四日付で交付された。旅立ったのは同月二十五~六日と思われる。翌年四月に帰国した周蔵は、渡欧中の事項を「周蔵手記」をまとめた。

 昭和三年四月末ピ。カノ数ヶ月ノマトメの条、要約。

 (吉薗)周蔵は渡欧に先立って、満洲の奉天で予備陸軍中将貴志弥(彌)次郎と会い、幾つかの頼み事をした。貴志もまた上原元帥の秘密の配下で、今回の周蔵の渡欧行に関わっていた。

 昭和三年一月二十八日にパリに着き、一人で同志ネケル氏の家に行った。

 その時、何より驚いたのはネケル氏の恰好であった。幼女のようなオカッパ頭で、頭髪を目の上まで垂らし、揃えて剪下げていた。周蔵は、初めて会った時、自分はネケル氏が誰かは知っていたが、出てきた人物が日本人とはとても思えなかった、と後に云う(「周蔵手記」昭和九年条)。

 藤田嗣治の父嗣章は大正元年に軍医総監(陸軍中将相当)となり(*軍医としては最高位)、大正三年に予備役編入している。藤田はもともと学校成績も優秀で、入学した東京高等師範付属中学は、佐伯の北野中学をも凌ぐ当時最高の秀才校であった。家筋と才能と学力が揃えば、道筋は自ずから決まる。藤田は、大谷光瑞師が佐伯に用意したのと同じ道を、佐伯より十年ほど早く進まされていた。★大正二年、二十六歳の時、画学留学生としてパリに渡り、表の顔はエコール・ド・パリを代表する画家として豚児たちのリーダーとなり、裏では薩摩治郎八を自家薬籠中に入れて、踊らせていた。甘粕正彦のパリ在住の友人とはすなわち藤田で、大正四年頃の甘粕の秘密フランス留学の折に知り合ったものと思われる。周蔵は大正六年渡欧の帰途にフランスにより、上原閣下も欧州に草を張っているのを見たと記しているが、藤田もその一人であったことになる。甘粕の紹介で、★コード名ネケルの藤田と周蔵は大正十二年以来、暗号手紙で文通していた。

 周蔵は、パリに到着した当日、佐伯のアパートに行った。今回の渡仏の建前は、佐伯の陣中見舞いなのだから、それを真っ先に終わらせたかったのである。聞くに、薩摩治郎八は佐伯の面倒をよく見てくれているらしく、佐伯は令夫人の千代子ともつきあいがあるようだ。
 呆れたのは、周蔵の顔を見るや否や佐伯が「救命院日誌」の記帳と金のことを言い出したからである。尤も記帳の方を先に口にした。佐伯は、書いた物を周蔵に渡し、「ここに分かりやすくまとめておいたから、ホテルでゆっくり記帳してくれたらいい」と云う。内容を読んだが、不可解なもので、なぜか周蔵が早くも一月初頭にパリに到着したことにされている。次に、佐伯は薩摩の妻君とは大分親しいようで、内容は前にも増して妙なものだが、分量は少ない。これくらいなら、暇を見てやれば、何とか書いてやれそうだ。
 その夜のうちに藤田は、薩摩に舵を取らせて友人たちを紹介してくれる。藤田自身はスイス側との連絡があるため出席せず、治郎八に任せて、ジャン・コクトーなどと会食した。前もってコクトーのことは、藤田から説明を受けているが、所詮は誰一人信用するなと、のことである。

 ★藤田が云うに、薩摩出身の画家もおり、これはなかなか只者ではないが、会わない方が良いだろう。周蔵は、自分もそう思う、と云った。薩摩(鹿児島)というからには「海」であろうから。すると藤田は、自分は関係ないと思って調べてはいないが、その画家は佐伯の妻君とは接触があるかも知れないということだ。しかし、自分は、役目以外には深入りしないようにしている。佐伯君のこと(ガス事故のことであろう)も耳にしているが、関わってはいない、とのことであった。

 (* 『わが半生の夢』には、「・・・藤田の最も愛していたのは、★海老原喜之助だったろう。この南国児も20歳前の若年で巴里に乗りつけた。有島生馬画伯の息がかかっていたとかいうが、彼は直ちにピカソ研究に取組んだ。いわゆるアバンギャルドで、彼の画論には生地鹿児島の桜島の大噴火的熱焔があった。彼こそは切歯抱腕、藤田のブルジョア転向を慨嘆した。ムーラン・ルージュ、ミュージック・ホールの踊り子と熱くなって、正式の結婚にまで進んだものの、連日連夜の大立廻りで、頭を冷すつもりか、南仏カンヌに退陣し、カンヌ港雪降りの珍図を持って巴里に舞戻った。・・・」p103とある。
 また、東郷青児もサツマである。)

 薩摩治郎八に関しては、馬鹿だ、と断言した。金のあるうちは利用してやろうとばかりに、舞台を作って踊らせるだけで、馬鹿を見抜かれているから大丈夫だ、と云われた。その主役がコクトーだ、と云う。コクトーなる人物は宗教の道の主頭(藤田はシュトウと云った)であり、只者ではないとのこと。なれど治郎八に対しては、ただの呑んだくれの詩人面を見せている。自分は信用したいと思うが、思うだけでその辺りは自分で判断してくれ、とのことであった。「日本と違って、毛色の違い(民族性)をどう計るか、難しい処であろう」と周蔵は感じた。

 意外なことに、薩摩治郎八は夜が早い。千代子夫人は化粧が濃く、肌の地色が見えなかった。治郎八はパーティに招かれたと云って消えてしまい、周蔵は、千代子夫人の通訳でコクトーから絵画の講義を受けた。そのあとは、千代子の愚痴を聞くことになる。あっけらかんとした婦人で、今は岡なる学生に恋している、と云う。そういいながらも米子の悪口を言い敵対視するあたりと、佐伯の保護者のような言い分は、佐伯にも恋をしているようだ。このことを後日藤田に問うと、「それは恋に恋してるんだ。飾りものは、飾り窓の女も、一人の男の女も、飾りものには違いはない」と云う。まさにこの人物は冷静な人だと、周蔵は改めて思った。

 ・・・

 以下は、左のリンク先 ★佐伯祐三調査報告 から、どうぞ。

  


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●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (3) 
 ● モンパルナスの秋 へ進む前に、
  
 目次の紹介等を。
 

 ~目 次~
 わが半生の夢

 半 生 の 夢
 モンパルナスの秋

 せ・し・ぼ ん
  炎の森
  夜霧の娼婦
  謝肉祭の夜の女
  ロマンティック
  デルフの呪詛
  転落の沈黙

 ピガル通り
  リンゴの花

 ロマンティストの花束

 砂漠の無冠王 (T・E ローレンス)
 
 美の烙印 (イザドラ・ダンカン、タマール・カラサビナ)

 ムッシュウ・サツマとぼく  柳沢 健

 あとがき  大櫛 以手紙

 ***********

 せ・し・ぼ・ん-わが半生の夢-
 定価1,500円(本体1,456円)
 改訂新版印刷発行
 平成3年3月1日
 著者:薩摩治郎八 
 発行者:太 田 道 之
 発行所:山 文 社
 〒151東京都渋谷区初台l-23-97 電話 03-3379-0627

 ********** 

 ●モンパルナスの秋
     
 華ひらく国際美術センター

 モンパルナス駅から、有名な詩人の溜りだったカフエ・デ・リラの角店のある天文台通りがいわゆるモンパルナスの称号で、一躍国際美術家センター化したのは、第一次大戦後であった。

 わたしが1920年、はじめてモンパルナスに足を踏み入れた当時は、この大通りを山羊乳売りがラッパを吹きながら、道端で乳を搾っていた。こんな牧歌的な雰囲気がこの一角を包み、モンパルナスの中心、カフェ・ロトンドもうらぶれた貧乏画家相手のビストロで、白木のベンチには浮かない顔をしたモデルが1杯のコーヒーも払いかねる相手を茫然と眺めていた。藤田嗣治と一緒に裸踊りをやって、パンにありついていたという黒女アイシャも、この辺を地盤にネバっていた。モデルとも舞踊家とも私娼ともつかぬ彼女には、画家達も半芸術家的の態度で接していたが、事実、彼女は寝技の精巧者だとの定評であった。

 「私はマリー・ローランサンのモデルだった」という女友達がアカデミーで画を描きだしたので、よく彼女をドームの片隅で待ち受けた。われわれ仲間でメリサンドと仇名した彼女は、感覚的な詩を書き、マチスの家に出入して、画はいわゆるマチス張りな色彩派であった。

 この美人友達には当時パリ讃美者群が取巻いていてモンパルナスの作家ミッシェル・ジョルジュ・ミッシェルは彼女の宣伝係、名優ジェミニは彼女を一世の女優にと熱を上げ、マチスは画道で一旗上げさせようと力んでいたが、美貌自慢の彼女は蝶々のように飛び立ってしまい、神出鬼没、それに加えて体自慢の露出趣味とあったので、モンパルナス通りを自作の裸体自画像のカンバスを小脇に抱えて、私とのランデブーに飛びこんでくる始末、流石のペリアス気取の私もペッチャンコ。さながらストリップのサンドウイッチマンよろしくの役割で、彼女の後ろから絵具の生乾きのカンバスを捧持して従った。

 その頃からモンパルナスのブームが芽ばえてきた。私が「タンドル・ストック」と「夜開く」の劃世的作品で売出したポール・モーランとしっくり話したのも、ロトンドの白木のベンチ上だった。仏外務省の文化事業課長だった彼と私とは、人種的相異にもかかわらず、他人の空似でしばしば間違えられたのもその頃で、カレー行の列車の中で、レディ・ロバートと称する貴夫人から 「ルイスとイレエン」の1巻を差出されてサインを求められ、偽モーランでごまかしてしまった珍事もあった。

 一介の文字青年だった私が一躍「夜開く」の流行作家に、たとえ一瞬でも転身したのだから早速モーランに話しに出かけたところ、彼は微笑しながら、1冊の豪華版にサインしてくれた。

「2重の花」(フルール・ドウブル)の限定版で「菊花薫る国の2重の花の園丁に」と達筆で走らせてあった。

 こんな仏蘭西的なタラスコンのタルタランやチューリップのファンファン式の空気が、この1角には立籠もって龍っていた。巴里のアメリカ人が乗りこんできてもカルチェラタンの1角には作曲家小松耕輔がルイズ礼讃で日を暮し、天文台の下宿の1室では、洋琴家林龍作がタルチニの古曲を愛玩のブレシヤの名器で奏でていた。だがこのモンパルナスは、ほとんどポンペイの最後の日の速度で急変してしまった。1925年頃までのアメリカ景気と、法貨(フラン)の下落で、この1角に外国人の津波が押し寄せた。英米人、北欧人、日本人、この後者だけでも千数百名の有名無名の画家達が、当時の巴里のセーヌ河水で顔を洗ったという盛況なのだから、モンパルナス村に基地的大変遷の起きたのも当然である。

 詩王ポール・フオールの没落、ジャン・コクトオの出現、モンパルナス王・藤田の君臨をきっかけにこの1角は国際的色彩で塗りつぶされてしまった。

 ★パリの日本画壇

 先ずこの新モンパルナスに咲いた夜の花は、キャバレーのジョキーだった。売り出しの藤田を中心に、キスリング、パスキン等が先頭でモデル・キキや、藤田のユキの相棒ツキ等のエキサントリック振りで、この「咽喉切り」的ボアットは徹夜のドンチャン騒ぎを演じた。

 藤田の名声はこんなモンパルナスを背景にして拡大されていったのだが、彼が一介の新進画家として発見されたのは、モンパルナスのブームの前夜であった。女流画家フェルナンド・バレーとの結婚生活で、家庭的安定を得た藤田を買ったのが、ボエシー街の小画廊の主人・シェロン老人だった。

 シェロン画廊の飾窓には、藤田の初期風景、マドンナ型の少女、静物、猫、等が並べられた。当時の価格で小猫が1千法(フラン)、しかし当時の1千法は相当な価格で、ユトリロの小品がラフィット街のウェイ画廊で900法で手に入った頃であり、マリー・ローランサンの6号が1500法だった。

 藤田の作品と並んで坂東敏雄の静物、バレー夫人の愛人・小柳の花鳥が展覧されていた。当時の藤田の画面には1種の異数的な妖気が漂っていた。仏蘭西のプリミチブと、税関吏ルッソーとフオーコニュの影響や手法を歌麿の線と混交して、彼1流の原始的個性を打らこんだ藤田の作品には、ドビィッシーやローランサンの音楽的焔がひらめいていた。薄ネズミの白乳色のバックから浮き彫りされたマドンナ型の少女の表情も、異端的であったが、彼の傑作の1図「人生」の画面、それは現在巴里大学都市に転化してしまった旧城壁の前を、淋しい葬儀馬車が過ぎてゆく、その道傍には、乳母車がとめられていて、城壁の崖の芝生には1組の男女が恋を語っている。手法はルッソーの影響もあるが、この辺モンスリー公園はルッソーの好んで描いた1角なので、ルッソー風の雰囲気に包まれているのは当然である。

 こんな作品が、この小画廊の飾窓に巴里の好事家ではなく、特殊な異教的存在を深めて行く一義的線上を行く画家として評価されていた。若し藤田がこの線上で終始したと仮定したならば、大衆的立場からはいわゆるモンパルナス王にも祭り上げられなかったろうし、国際的人気者にもならず、あくまでも芸術面でルッソーやスーラー等の孤立的作家となったであろう。

 日本の画壇でも岸田、梅原、藤田といったワクにはまったろうが、★彼の運命はユキとの出会いによって転化してしまった。

 自分は「藤田の悲劇」を描こうとは思わないが、彼の運命がモンパルナス自身の運命と関連している一事を、始終念頭から消し得ない。藤田の宿命がモンパルナスの宿命であった。モンパルナスの転変が画家藤田を【画工藤田】に転身してしまった。世評の毀誉褒貶は別として、藤田は人間的に天衣無縫の幼児的性格者であり、多くの天才が非物質的であるように、彼には画筆1本だけで満される無限の内面的豊富さがある。その彼藤田を【画商人的性格者】にしてしまった★彼の宿命はフェルナンドとの結婚にその端を発した。

 フェルナンド姐御は、藤田の画を最初にシェロン画廊に持ちこんだというが、とに角彼女に内助の功のあったことは事実であろう。

 そこに藤田の弟子小柳が出現したのである。
 小柳は北海道産の、色白の早川雪洲ばりの好男子だった。雪洲は当時の欧米を風靡した人気スター、ことに巴里人の趣好には、彼の横顔は女殺しの定評があった。バレー姐御がこの「偽雪洲」にゾッコンほれこんで、藤田との共同生活のアパートに小柳を引っぱりこんでしまった。

 藤田は、裏庭のガレージを画室に改造した1室に閉居して、2階の窓を見上げていた。彼でなくてはできない芸当である。そして最後の夫人帰還の望みを、彼とフェルナンドとの肖像画「家庭」に注ぎこんだ。この大作は秋のサロンで全巴里好画家の絶讃を買ったが、フェルナンドは終に帰らず、自暴自棄の精神状態に陥った彼に雪が飛びこんだのである。

 雪の肉感的な裸体が、売出した30男の彼の手に触れたのだ。

 雪は文学読書癖があり、マックス・ジャコブの熱読家であった。これが後年第二次大戦中独警のキャンプで病死してしまった共産詩人・デスノスとの結婚にまで結んでしまった原因であった。

 ★雪の本名はリューシー・バドードといった。バドードすなわち野次馬嬢。彼女はその姓のように物見高い遊蕩女性で、シャンゼリゼの裏通りあたりの酒場あらしを業事としていたいわゆるドミモンデンだった。

 とはいうものの、ロトンドやドームの小使臭い女の肌しか知らなかった藤田には、腐ってもシャンゼリゼの遊び女、彼が乱作のデッサンを売り出して旅手な英国地でカットした上衣を結構ジゴロ気取りでひっかけて、シャンゼリゼのセレクト酒場に通いだしたのも、雪の肌の引力であった。そして酒1滴飲めぬ聖人・藤田が盛り場の遊蕩児に混って、雪と深くなって行くのをフェルナンド姐御は藤田のボェーム生活に対する反逆だとモンパルナスをどなり歩いたが、彼に家庭を離れさせてしまった罪は彼女自身の私生活であった。

 だが彼の初期の画面には、まだまだ異教徒的な焔が燃えていた。雪が感覚的なポーズで十字架を首に下げて、つっぷしている面画などには、藤田の円熟した感覚がゆらめいていたし、少女モデルから女モデルに転移した性的神秘がもられていた。

彼の最大傑作の1つであろう後身の裸女の図を、マドレン広場のベルネームジョン画廊の名家展で見たが、その線の美しさと、音楽的旋律は、私と同行したモーリス・ラヴェルの観賞眼をくぎづけにしてしまった。

 「こんなに海の感覚を出している画はないね。それでいて裸体の線だけなんだがね。」
 と、観賞眼の高かったラブェルは感嘆した。事実、この画のモデルには藤田の最高技術と芸術的感覚が表現されていた。モデル・キキの追想と雪の肌があった。

 私はこの裸作画が藤田芸術の最高潮だったという印象を未だに持っている。ベルネーム自身も名作だとわれわれと一緒に観賞した。

 藤田の名声があがり、文部大臣ド・モンジーが彼にレジョン・ド・ノール勲章を贈った。丁度その前後に彼の画室に出入していた坂東敏雄のオートバイに同乗した藤田が、転落負傷してシャリテ病院にかつぎこまれた。脚部に負傷した藤田は、それ以来坂東と面白くない関係となり、坂東は自分の画風の模倣者であるとシェロン老人ともゴタゴタして、両者とも手を切ってしまった。

 そして全快退院した藤田は、河岸を変えてしまってセーヌ左岸の古巣を捨てて、右岸パッシーのマスネー通りに貸アパート住いをしてしまった。

 当時、藤田の側近だったエビ公こと、海老原喜之肋、坂東敏雄自身でさえ、彼等の尊称だった「オヤジさん」のパッシー妾宅住いを慨嘆した。

 ある日、私がシェロン老人に出会したら「実をいうと藤田が死んだなら、彼は税関吏ルッソーに比敵する伝説と名声を残したですよ。」 といった。ある意味からいったら、このシェロン老人の言葉は単なる復讐的言辞ではなく、芸術家藤田に対する真心からの讃美と愛着の表示であった。

 ★脚光浴びる藤田嗣治の周囲

 藤田はかくて大衆的人気の絶頂に登っていたが、芸術的には彼独特の詩的神秘感覚は枯れていった。私が数年後、当時の30万法(フラン)を彼に提供して貰った終生の大作、巴里日本会館の大壁画にも、画工藤田の卓越した技倆や構想は表現されているが、シェロン画廊の小さな飾窓に置かれた「人生]や、ベルネームの「海」にみられた芸術的焔は消えてしまった。

 板東敏雄は美術評論家として権威的なアカデミー・コンクール会員レオ・ラルギェから現代のシャルダンと買われた。ミニチュア的画風の静物画家で、若し藤田派なる1種のアカデミーが成立していたとしたら、その第1人者となるべき人物だった。重厚な性格で、細密な静物を藤田風に描きつづけていた。彼は現在でもパッシーの画室で克明な画風をつづけている。

 藤田がお山の大将的性格の反対に、当時彼の側近者だった★板東敏雄、鈴木龍一、海老原喜之助、高野三三男、高崎剛、岡鹿之助等を包含する藤田派なる1派を実現したと仮定したら、巴里画壇の1角に日本画壇が出現していただろうし、お山の大将で生涯孤立の藤田で終始してはしまわなかったろう。現在巴里に踏み止まってしまったのは、板東、鈴木の2人だが、鈴木龍一の巴里入りは華々しい覇気のあるものだった。ブラジル在留の銀行家の愛息だった鈴木は、詩人・堀口大学にも知られ20歳前に巴里に到着した。ブラジルの野性的な風物が、少年鈴木を夢想的画境に引き入れたのは当然だろうが、彼はすでに完全なフォーブ派で、真赤な夕日の照りつける原野でオルゴールを廻す片脚の人物、海底の魚類の大合戦などを荒い筆法で生々しく描きなぐっていた。

 彼の感覚的な青春にアンドレ・サルモンが着眼して、サルモンの紹介文をカタログにこの少年画家は個展を開いて巴里画壇にデビューした。早熟な彼は既にモデルと同棲生活をしていた。その鈴木夫人マドレン・メナールも画筆で郷里ブルターニュの海辺の田舎家の室内等をルッソーはだしで描き、サロン・ドートンヌに見事入選した。鈴木はその後、岡鹿之助と同家屋に落着いたが画風も変化して前世紀末の風俗画風の女図を、彼1流の才筆で発表した。これを1期として、多才の彼はシュールリアリズムに転化した。彼の作品が仏蘭西政府によって買上げられたが、彼の最も光彩のあった作風は風俗画風の才筆であった。

 この小夫婦というのは、彼も彼女も小型中の特製でマドレン夫人がかいがいしくオートバイにまたがり、彼女の豆彼氏が背中にカジりついて、画具箱を肩にゆわいつけ、モンパルナスの人通りを爆音を立てて写生旅行に出発する勇姿は、彼の奇想的画面以上の傑作であった。巴里占領中マドレン夫人は、青物商を開いたとかで、解放当時も猶太人タイプの彼だけは結構赤旗組からも歓待されたと自慢していた。

 その頃の巴里の特異的存在の1人は長谷川路可であった。この土佐派の画人には藤田も1目をおいていた。人物としても面白く、ブルターニュの田舎住いで百姓娘と相思相愛の仲となったがガンコにかけてはブルトンという位の娘の両親は、どうしても結婚を許可せず、路可の近視眼がますます茫然として、悲恋を抱いてスペインの涯まで放浪したとやら。錦を飾って帰朝する瀬戸際にも、フェミニストの彼は、1等旅費を彼女の墓前だか、懐ろだか、アマリ判然としないが、捧げて3等船室で舞い戻ったとかの美談さえ伝えられた。白耳義、伊太利の勲章を路可が拝受したとかいうが、彼は当時のボエームの代表的人物だった。

 藤田の最も愛していたのは、★海老原喜之助だったろう。この南国児も20歳前の若年で巴里に乗りつけた。有島生馬画伯の息がかかっていたとかいうが、彼は直ちにピカソ研究に取組んだ。いわゆるアバンギャルドで、彼の画論には生地鹿児島の桜島の大噴火的熱焔があった。彼こそは切歯抱腕、藤田のブルジョア転向を慨嘆した。ムーラン・ルージュ、ミュージック・ホールの踊り子と熱くなって、正式の結婚にまで進んだものの、連日連夜の大立廻りで、頭を冷すつもりか、南仏カンヌに退陣し、カンヌ港雪降りの珍図を持って巴里に舞戻った。

 どんな視覚の狂いか、漁夫はナポレオン帽をかぶり、その帽子の大きさが漁船の2倍もある傑作を、彼の画論に捲かれて買入れたが、この名画は知己友人の話題となった程で、とうとう真青な区役所の図とカケ換えたが、これまた窓から屋根よりも大きな三色旗が勇ましく翻っている有様だった。

 ピカソ気取りの彼はバッサリと黒髪を額にタラして黒の山高帽といったいでたちで、ロトンドに鎮座し、俗称ジャンギリと呼ぶカマトト女画学生にゾッコンほれこんで、ジロリ、彼女を睨みつけていたが、グーの音も出ず、あげ句の果てに女には、近所の商人の彼氏がついたとあって、清純なるジャンギリ嬢のショートカットをまるめて、尼寺へでも祭りこむ程の感傷ぶり、ブーラール街切っての名物男であった。

 ★高野三三男と高崎剛

 彼の街角を廻ると、ダゲール街で、いずれおとらぬ貧乏町、その11番地のアトリエに高野三三男夫妻と、巴里で客死した奇才・高崎剛が陣取っていた。

 私が初めて高野三三男に出会ったのは藤田の家で、高野夫妻は独逸から巴里に着いたとかで、一寸画家には珍しい道筋だと、しげしげ2人の顔に眺め入った。藤田から彼の経歴をその数日後に聞かされたが、彼女は女子大卒業の大インテリ、彼は商船学校を中退、上野の美校出で彼女のために堀にまで飛びこんだが、水泳達者でこと切れず、這い上ってきた程の純情家だから気をつけろとのことだった。

 この藤田の気をつけろといった意味は、未だに疑問だが、ウッカリ彼女をカラカウな、大インテリだから貴様などはお茶の子だという意味か、それとも彼が純情家だから、注意して物を云えとでもいう意味であったろう。

 彼の最初のサロン・ドートム出品画は、鹿が青葉の風景中に遊んでいる物優しい図だと記憶しているし、彼女は花の静物を出品した。

「文学的な画だね」
 と私か藤田に話したら
「うん大したインテリだよ。]
 とあくまでインテリ扱いにしていた。

 ところが、その翌年のサロンにインテリ高野は爆弾的美人画を出品した。2人の大女がのびのびと、クネクネと、寝ころんでいる。しかもそのフォーブ的画面から受ける感じは、歌磨の青楼美女の感覚なのだ。サロンの真中で、このシロシロが悠々迫らぬ妖体を展開している。私はこれは日本画家の作品だな、と直観した。が、よもや高野三三男の作品とは気がつかず、買ってみたいと近寄ってみたら高野三三男のサインが眼を射った。

 この画が高野三三男の画家としての出発点であり、彼の名声は、巴里好事家間にグングン拡大していった。

 高野三三男は当時相当な怪奇趣味で、アンソールの画風などに親しんでいた。私が日本に持ち帰った初期の裸女の図は、堀口大学が好きで友情のしるしに贈ったが、惜しくも戦火で焼失してしまった。

 その後彼はいわゆる巴里批評家の称する今様グルーズ的の画風に進展し、ヴェルレーヌ的詩想で、仏蘭西観賞家の趣好に投じた。彼の趣味はあくまで巴里人趣味で、彼の讃美歌は、彼が1種の巴里女の型を造りあげた、といっている。粋人的好事家からも珍重され、批評家からも買われた彼は、稀にみる幸運児であった。彼だけは何時巴里に返り咲いても、めしの喰える日本画家である。その高野の2階のアトリエの下には温室式のアトリエ長屋があり、その1つに奇才高崎剛が万年床にアブサントを浴びて、プカリプカリ、ゴーロワーズのパイプの煙を吹き上げながら奇想天外の名画を描いていた。珍しく、実家から送金を受けている身分の彼には、洋行費の義理のパトロン関係もなく、金が着けば1晩にパーツと使ってしまい、彼の豪遊はロトンドの女達にも、月1回の一夜大尽として期待されていた。

 なじみの街娼が持てあましてもちこんできたと云う珍犬が、チョロチョロ彼の後について歩いていた勇姿は、チャップリンそのまま、この貧乏町に適わしい添景だった。

 彼はスキー場夜景の図にこり出して、マッチ棒のようなスキーが縦横無尽に走り廻る光景に、サーチライトを照らしてみたり、消してみたりしてひねくっていた。

 「君一体この夜景はどこで見て来たんだね。」
 と私は尋ねた。
「ほとんど、毎晩この夢ばっかり見てるんですよ。それがね、ほとんど夢にも見られないようなサーチライトの廻転でね。まあ百種位の色彩に変って行くのですよ。」
 と彼はパイプに火をともした。

 この高崎の死は最も印象的だった。最後の床に見舞った時、アマリリスの真赤な花弁を熟視して
「ああ、綺麗だな。」
 と、1言して、眼を閉じた。

 ★マロニエの枯葉に夢を追う

 鈴木、高綺におとらぬ小男で、藤田の側近だった岡鹿之助は、これ又この1群中の異色、インポ型の勉強家で、彼は音楽で縮んでしまったんだ、なんて失礼千万な噂さえ伝えられた。

 彼がはじめてサロン・ドートムに出品した城の画が、彼の創作の第1作品であった。シャンチィーの城をモデルにして、前景にカトレアの蘭花の大輪を配したこの作品は、音楽的で自分の発見の動機であった。この画も、現在では、プラーグ美術館に保存されてあるが、その彼はバスク海岸の明るい帆船の風景を描き上げた。この時代の作品が彼の芸術的最高潮であった。彼の技巧は結局スーラーの点描で、技巧上で伸び難い難関にブッかっている。要するに感覚の強い作品はこの技巧でも光っているが、少し低調な作品では、技巧的の苦労だけが目にしみこんでしまう。時間的にいっても、大変な作風である。全精力をブチこんでしまわねばでき上らない作品で、全く動きの取れぬ画風を成立してしまったのが、岡鹿之肋である。彼が若し先覚スーラー、シニャック等の技巧を意識したならば、恐らく、あんな苦しい技巧的な表現はさけたであろう。

 もっとも、先覚の2大作家もこの技巧の虜となってしまっていたわけだが、岡鹿之肋ほどの苦しみは見えない。彼の作品こそは描くのでなく、突き上げるのである。その意味からも、奇特家として敬意を表するに価する画家である。彼が1義的芸術線をはずさぬ限り、巴里が育てた特異な日本画家と云えよう。こんな具合に藤田の側近に育った画家達は、各自の個性を発揮して、巣を飛び立つ小鳥のように四散してしまった。社会的には高野三三男が巴里画壇では1番恵まれた地位を築いた。日本画壇では、海老原も、岡も、各々地位を得たが、万一このグループが藤田派なるものが確立して、巴里に踏み止まったと仮定したら、巴里日本画壇も築かれただろうし、このグループを相手にした日本画廊の1つ位は、実現していたろう。

 外国崇拝の日本の画壇では、外来傾向にばかり注意して、日本画家の巴里画壇獲得に無関心である。

 そんな意味から、日本画家の国際的価値は藤田は別として、高野三三男、版画家の長谷川潔の恵まれた2人を除いては、全然未知数なのである。

 物質的に極端に恵まれた現代の日本画家たちは、途方外の内地市価に安住してしまって、彼等の作品の国際競争場裡にその進出を考えもしないだろうが、日本の古美術ばかりでなく、現代画家の作品が、マチス、ピカソ、ブラック等と肩を並べる時代出現こそ、日本文化の国際レベルにまで引上げられた確証であろう。

 その意味で、日本の一流画家の、巴里、倫敦、伯林等への国際市場へのデビューは必要で、その点で、多少なりとも、国際的空気を吸った藤田と彼の側近画家の足跡は、その第1歩ではなかったろうか。

 こうしたモンバルナスの隆盛期は、今次大戦直前までつづいたが、独軍占領で、流行の中心は未来派、フォービズム、シュール・リアリズムの温床モンパルナスを去ってしまって、実存主義の中心サン・ジェルマン・デ・プレに移遷してしまった。

 実存主義の絵画的表現は恐らく未出現に終止してしまうことであろう。だが、往年のモンパルナスは火の消えたような画家村に転化してしまい、ロトンド、ドーム、クッポール等は土地の商人達やお上りさんの集会所に転落してしまった。

 画家連中も四散してしまって、わずかに藤田が全盛期の幻影のように、カンパンプルミェ街のアトリエに老躯をさげて仕事を再開した。私はこのさびれはてたモンパルナスの大通りを、20年代の幻を追いながら天文台の方向へ歩いていった。マロニエの枯葉がコソッと音を立てて歩道に落ちた。この大通りには口紅の匂いさえしない。冬枯れに近い晩秋の淡日が自分の影を路上に落していた。

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 まだ、アラビアのロレンスとの交友を描いた★「砂漠の無冠王」 や、ギリシャ回帰の夢と幻想を、イザドラダンカンの妖艶なダンスとふれあいを通して追想する★「美の烙印」 等々、紹介したいエセーや回想録が続くが、最後に復刊に尽力された人の文章を紹介して、終わりにしたい。


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 ●ムッシュウ・サツマとぼく    柳沢 健 (元外交官・随筆家)

 ぼくが初めて薩摩治郎八氏に会ったのは、ぼくがバリの大使館の情報部長として働いていた折のことで今から20数年前になる。
 その時彼は新婚の麗夫人・千代子さんを日本から同伴してきた。ぼくはムッシュウ・サツマの強烈な個性と豊かな才能に魅力を感ぜずにはいられなかった。その彼の魅力がぼくを急激に彼に近づけていった。ぼくは彼の家にもよく招ばれて行き、又夫人をまじえて郊外にも屡々出掛けた。

 その後何年か経って、ぼくが東京の本省勤務をしているとき、彼は大学都市総裁のオノラ氏を連れて帰朝したので、久しぶりに旧交を温めることができた。

 その頃ぼくは本省で専ら国際文化事業なるものに専念していたが、既にその方面の行動人であった彼とは最も話が合う仲となった。そうしたある日彼は言ったものだ
『柳沢さん、僕も10年位経ったら親爺から財産が貰えるかと思う。そうしたら国際文化基金を作って、その仕事をあなたにおまかせするつもりだ。』そこまで文化事業を一生の仕事にしようとしている彼の念願をそのとき初めて知ったようなぼくではあったが・・・。

しかし、間もなく彼は、オノラ氏と同道、再びパリに戻ることとなった。
 それから10数年、その間ぼくはヨーロッパとアメリカと東南アジアとに日を過したものだったが、彼と面晤のチャンスはなかった。絶えずその消息は耳にはいり、その動静は懸念の的だったが、今度彼の帰朝で実に久しぶりに顔を合わせあうことになったのである。

 千代子夫人は一昨年かに不帰の客になられた。
 彼は『半生の夢』と題して、その自画像の素描をしている。
 彼は富裕の家庭に育った人である。それだからこそそこに書かれたような「美の探究」を一生の仕事とするような夢も実現できたと言えよう。しかしぼくの周囲には彼よりもっと富裕に恵まれながら、1歩もサラリーマン的な平々凡々の生活の埒外から出なかった人々が、むしろ多いのに驚く。ムッシュウ・サツマにとって富は確かに彼の夢を実現する上に大切な手段ではあったが、それがあろうとなかろうと、彼の抱く夢自体には変りはなかったのであろう。ぼくは自分の周囲を広く見廻しても、彼程の夢想家、彼ほどの浪漫主義者を到底発見できない気がする。(しかも、彼は実業家の祖父の血を承けて、おそろしく現実的・行動的なのだ!)すくなくともわが日本で、彼ほどの行動的な夢の探究者をぼくは求め得ない。(辛うじて彼に近い者に★大谷光端師がある。が、光瑞師には彼ほどの現代的な飛躍や美と苦悩との感覚はなかった。あるのは古風とも言える事業家的な夢と熱情とだけだったようである。)

 彼とパリで親しくしていた高野三三男画伯はぼくに彼の平均(エキリーブル)の破綻を語ったことがあったが、正しく我々から見ると彼は1箇の偉大なるエキリーブルの破綻者である。そうしてそのことが彼の夢の大きさを物語るものであり、富と生活とには恵まれているように見えながら、実は最も悲劇的な存在とも言うことができ、また人生の失敗者とさえ目し得ると思われる点がある。

秀れた芸術家が多くそうであるようにこの運命は1つは先天的なもので、彼の父祖の血のなかにそれがあったのであるが、更にこれを大きく育成したものは後天的と言ってよく、幼少にしてイギリスに渡り更にフランスに遊び、専ら芸術や美の探究の世界に専念したその長期の境遇のせいである。随って彼のような存在は西洋ではいざ知らず日本では唯一的のものであると言えると思うが、尚更敗戦を喫した貧困の日本の今後に彼のごとき型が現われることは到底期待できないであろうことは確かである。

 それにしてもぼくは、彼が戦後の、何もかもがメチャメチャになってしまったフランスでの生活で何をして暮していたのかと訊くと、文筆でだという答えを貰ったときほど見当がつかなかったときはなかった。言うまでもなく彼の豊富な生活環境なり才能なりは充分に知っていたつもりだったが、文筆というのは1つの職業的年期を入れることが必要で、単なるアマチュアが飛び込んでもそう容易に物になるものでもない筈なのに、日本よりは逼かに点数の辛いフランスやイギリスで物を書いて収入があるというのは、ぼくには容易に合点がゆかなかったが、その1例を見せて貰うつもりで一読した彼の短篇『シクラメン・ロアイヤル』(仏文で書かれていた)でぼくは文字通り喫驚した。これはまったく玄人ならでは書けぬ小説である。それに彼の駆使するフランス語のうまさは、完全に日本人離れだ! なるほどこの1篇が、フランスでも凡作を掲載することのないと言われている歴史ある『文芸週報』に載ったということは、さもありなんである。

日本とか日本人とかが顔を出すいわゆる異国趣味の作品でないだけに、これに載ったということは一層サツマの名誉と言える。
  その後あちこらの雑誌に彼の作品をみかけたが、それらの中にはポール・モーラン風のテクニックとニーチエ哲学の香気が濃く漂っているようである。

 或る日ムッシュウ・サツマはこんなことを言った。
 「僕には不思議と予感が当るのですよ。僕と親しくした女は皆死んで逝くようなことになるのです。御覧なさい。千代子もそのひとり。『半生の夢』の中に書いたエドモンド・ギー、あのパリ第1の美人女優は、思いがけず死んだって数日前パリから電報を貰いましたよ・・・」と。

 ともかくこの人は、我々にその本質が解るようで解らない許りでなく、自分でも自分自身が解らない不思議な存在なのである。

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 ★あとがき  バロン・サツマの会、 会長 大櫛 以手紙

 バロン・サツマの会が昭和54年12月18日に結成されていらい、5年になろうとしている。「この会はバロン・サツマ(故薩摩治郎八氏)の業績を通し、在パリの日本館のより充実、発展を期すると同時に、徳島とフランスの文化の相互理解を深めることを目的とし、それに沿った諸事業を行う」と会則に明記してあるように、かつては日本館充実のための募金運動を県下一円にわたって実施、相応の成果をあげたり、また、パリ祭には【徳島のパリ祭】として種々趣向をこらした催しを持ったりしている。会員数170名、会費も「必要に応じてその都度徴集する」というまことにおおらかで楽しい会なのである。

 ではなぜバロン・サツマの会が徳島に? これは昭和34年、当時まだお元気だった薩摩治郎八氏が夫人の利子氏と共に郷里の徳島に帰り、ちょうど名物の阿波踊りが繰り広げられていたので見学中脳卒中で倒れられたのである。一時お回復され渡仏されたこともあったが51年2月22日、他界されるまで、17年の間に徳島に住まわれたのである。私も主治医として治療にたずさわった縁を持っている。こうしたことから徳島の人たちも、治郎八氏の日本人離れしたスケールの大きさをより学び、知ろうという人が多くなり、以後この会が誕生したのである。

 会の仕事のひとつとして遺著である「せ・し・ぼん」の復刊の話が持ち上がり、堀口大学先生や柳沢健先生の文章もそのままに上梓することにしたのである。加えて最近日本館を訪れた徳島市の写真家・吉成正一氏(二科会員)の写真3葉を加えた。

 私もこの「せ・し・ぼん」を熟読して実のあるところが多かった。もし、大方の同意を得られたら、第二巻、第三巻と先生の旧著を復刊して、1人でも多く、先生の姿を知ってもらいたいものと願っている。

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 『せ・し・ぼ・ん わが半生の夢』  <了>。

 




●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (2) 
 ●『わが半生の夢』 薩摩次郎八 
 

 日本から巴里に帰って来ると、国際情勢が悪化して行った影響で、日本の対外為替禁止であった。愈々自分も貧乏美術家なみに、森の草を摘んでサラダをかじることになるのかと、それを考えるといよいよ面白くない。まあいいさ、何でも来るなら来い。が、その前に1つ素晴らしい別嬪さんにでも惚れて、老後の慰めにしようなどと不心得な考えを起し、印度のマハラジャ・カプクラ殿下のお供をして、悪友某氏の愛妻で巴里第1の裸体ダンサー、コレット・アンドリス夫人の家へ押しかけた。その夜の歓楽は、古代希臘の夜宴もなんのその、巴里凱旋門を一目に見下す屋上庭園の噴水のほとりで、コレット・アンドリスは軽羅をヒラッと投げて素晴らしい曲線美で並びいる面々を脳殺したものだったが、しかし、その夜の歓楽の極みの中で、誰かこの女の粛条たる最後を予想した者があろう。私がこのコレット・アンドリスと最後に邂逅したのはアルプス山中のシャモニーの1旅舎であった。その時彼女は既に肺を侵され見るかげもない、生ける屍で、これが全巴里の好事家を魅了した一世の美姫コレット・アンドリスだと気の付く者は誰1人なかった哀れさであった。私は彼女のさし出した痛々しい手に接吻し、この世での最後のアペリチフを飲み合った。巴里大学の希臘文学科を卒業し、自らをアフロヂテの犠牲にした彼女との交友は思っても儚かった。

 恋は異なものとは昔よりのたとえ、話は前に戻るが、巷間決闘事件として伝わる、或る女をめぐる騒ぎを書きとめよう。1924年のことになるが、私はとある劇場で1人の美姫を見出した。

身元をさぐると別に卑しい女ではなく、第1次欧州大戦に故郷ローレンを追われて巴里に出て来ると、名優サラ・ベルナールの弟子となり「エーグロン」の妖女(ニンフ)に扮して好評を得た。さる侯爵と、婚約の間柄であったにも拘らず、私と親しくなったという噂がひろがった。すると或る時、そのBという侯爵から決闘状が舞いこんだのである。私は友人のM侯爵とS侯爵を仲介者として相手に承諾の旨を伝達した。そして巴里郊外ヴェルサイユ宮殿に近い「サッフォー」劇で有名なヴィルダブレ、名画家コローの好んで描いた風景の池畔にあるその侯爵の庭園で相手とピストルを交わした。その結果は相手のB侯爵は右手に微傷を負って、握っていたピストルを取り落してしまい、そして両者の介添人の話合いの結果はB侯爵は婚約をその日に正式に解消す可しということになった。B侯爵は旧領地ブルターニュの古城へ引揚げてしまい、私は私で彼女の最後の決心の固まるまで、南仏の海辺に隠棲してしまった。その後、暫くすると彼女は劇場を去り、カンヌ海岸に私を訪ねて来、やがて私たちは同道して巴里に戻った。

 愚と罵る者は罵れ、狂人とそしる者はそしれ、私の生活はこの事件を機にして、転回することになった。恰もアルチュウル・ランボーがヴェルレーヌを射撃して、生活に一転期を画し、巴里生活の残滓を捨て去り、不毛の地エチオピアの高原ハラーに1植民として去ってしまったように、私は南方シャムの原始林に埋没された某金鉱発掘の冒険旅行に旅立った。

 光の都を捨てて熱帯の大原始林をめざしたことは、友人間に色々話題を賑わして、半信半疑であったらしいが、私の決心は固かった。いかにも唐突な、単なる1時の思いつきと、或いは疑う人があるかも知れない。しかし、私の血の中には2人の祖父の事業家的計画と父母から受けた芸術家的熱情とが流れていて、自分の生活をオノラ氏が評した「放浪的性格」のように印象づけてしまうらしいのである。で、この決心を促した抑々のおこりは親友のGから届いた手紙でそれには
 「君の知っているカンボジアのアンコール・ヴァットの往古発掘せられたる一大金鉱がシャムの大原始林中に埋没されているのを発見した。現地に於ける技術的調査の結果は驚嘆に値するものである。若し君の協力によって発掘事業成立が可能となるならば共同事業として君の支配に委任する、云々。」
 とあった。私はこの手紙を手にして、体がふるえるような誘惑と魅力とを感じて、思いは1瞬熱帯シャムの奥地の大原始林に走った。クメール族の聖地アンコール・ヴァットの幻影が、熱気と湿気のむせ返る雰囲気の中に巨大な蓮の花のように浮び上る。何千という無数の奴隷と捕虜の大群が大伽藍建造に死力を尽している。金色燦爛たる大仏像群があの大尖塔の頂上に引き上げられ燃ゆるような太陽に輝き出しているのが目に浮ぶようであった。思うにこの詩と現実の夢幻境は同時にまた私の生涯についても云えるかも知れない。私は熱に浮かされているような自分の半生の生きかたを顧みないわけではない。しかも、私は到底人生の傍観者ではあり得ないし、そうありたいとも願ってはいない。熱に浮かされているうちに、自ら計画もし、方針もたてて、自分は自分なりに、絶えず何かしないでは生きていられない。しかもその生き方の哲学は、例えば、血の気の多い山師とか壮士又は命知らずの特攻志願者などという手合、腕づくサービスで旦那の金ちゃくを切る芸者、女給、青春のしなやかな肉体をピッタリ不良老年の太鼓腹に押しつけて世渡りするダンサーなんて不心得者の方に同情のバランスがかたむくような按配である。俗にいう大山師の仲間入りしてシャムくんだりまで落ちて行ったと云う者には云わしておけで、当時私は乱暴にもランボー気取で、ヴィーナスの曲線美や、やわ肌が因で惹き起したチャンバラの思い出も深い巴里を後に、南方に旅立ったのである。

 さて原始林の主都、盤谷(バンコク)へ再来してみると懐しの旧友達は今を時めく顕職についていて税関もヘチマも吹き飛ばしてしまう大勢力であるらしい。メナム河□に満潮待機で停船する。遥かな山々を見渡せば、カンジンの原始林どころの騒ぎではない、大禿山が焔々たる熱帯の太陽にイキンでいるような風景である。さては大山師、上手には上手があって、親友フランスの富豪G君1派のインチキ財閥のペテンにかかったかなとギャフンとなる間もなく、ゴトンゴトンとモーターエンジンが再びかかって、1万トンの美船――と云ってもこれは輸出面の安ビリケンやキューピーチャンやシャム美人の折角の曲線美をムサムサとかくしてしまう鐘紡の人絹等もしこたま船底につめこんだ荷物船である。次第にスピードも加わって涼風海面に巻き上り、四方を見渡せばこんどは聞違いの無い原始林、ホッと1息つくまもないうちに熱帯の夜の帳はこの大自然を包みはじめた。ウイスキーをひっかけて、いったん船室に入って錠を下ろして見たものの、中々寝つかれぬ。デッキに出て夜風にあたっているうちに、明けやすい熱帯の夜の過ぎるのはまことに早く河面には点々と小舟さえ目につき始めたころ、キューピー丸はコトンと停船した。とみるや遥かの河岸より真ッ白なモーター・ランチが1隻、矢のように私の船を目がけて走り出して来て、ピタリと船腹に寄りついた。水上保健警察のランチであるらしく、粋な白服に金モールの制服は、野呆臭い日本のこの手合の恰好などが足許にも寄りつけないモダーンなものである。数名の署員が船橋に乗ると、中の大将らしい1人が、デッキに首を伸ばしていた私のそばにやって来て、
 「貴殿は薩摩男爵か?」
 と、忽ちシャム男爵に昇格している。一寸面喰っていると、今度はシャム語でうやうやしく
 「盤谷のワーフには外務大臣代理リュアンブ・ミトラカム閣下(これは本物のシャム男爵)がトントール殿下とお出迎え申上げている。」
 との挨拶である。やれ、コレラの注射よ、種痘のことよと面倒な手続はオクビにも出さず、同船した他の船室まで俄男爵閣下の余光に与りオーケー、オーケーで如才なく片付けられ、いささか面目をほどこしている間もなく再び船のモーターがかかった。河面は紅の朝焼けに映え、河幅も迫って来た。無数の小舟から小鳥のさえずりに似たアクセントのシャム語が聞かれた。椰子の木の森林を綴る赤、紫、白など色とりどりの熱帯の花の上を鷲の群が飛び交っている。極楽の風景とはこんなものかも知れぬと思う。盤谷の名将ワット・アランの優しい姿がだんだん近く迫って来た。終に船が桟橋に横着けになった時、私はシャム兄弟とも云い度い間柄のトントウル殿下の丸顔がひょっこり倉庫の蔭からデッキを見上げているのに気づいた。

「ハロー、ジョー」
 と彼は私を呼び、トントンと段梯子を登って甲板に来た。後に白洋服の男を従えていたが、これは儀典課長のリュアング・ミトラカムだと、紹介された。
 「まあトロカデロヘ行って1杯のんで、ブラヂットが待っているから一寸外務大臣邸へ行こう。」と云った。段取りだが、何しろ暑い。殿下はケロリと涼しい顔して
 「哀れなジョー、哀れなジョー。」
 と慰める。何が哀れなんだと反撃したいが暑くて□も利けない。まさに河童が上陸したような恰好で外務大臣邸にコロガリ込むと、ブラヂット閣下、友あり遠方より来ると大歓迎で、それから大変なもてなし方である。私は単刀直入、来意を告げた。すると
 「まあアワテルナ、アワテルナ。いずれゆっくりメナム河にハウスボートでも浮べて聞こうじゃないか。」
 と、流石は革命で旧政帝権をひっくり返しただけの腕前を見せて、巴里クンダリから泡を喰って原始林に飛びこんで来た我輩などとは段違いである。私は
 「コブチャイ、コブチャイ。」(有難う、有難う)
 と地獄で仏に遭った恰好、俄か仕立てのシャム合掌で引下ってしまった。

私は外相官邸を辞しそれからトントウル殿下につれられて、郊外フヤタイのラクシャミ・ラヴァン女王殿下の邸に走る自動車に乗った。ラヴァン女王はラマ6世陛下の御愛寵の人で、30人ばかりの女を従えて御出迎えになった。ジャスミンの香気が馥郁と漂って、流石の私も何となく正気をとりもどしたかたちだった。挨拶をすませてから、蓮華の他のほとりにある離れ家トントウル殿下の住居の方に案内された。が、ひと息つくひまもなく、盤谷記者団の襲撃を受けた。彼等は私を「巴里から来朝した日本の金鉱殿下」として取扱うのには弱った。シャムの男爵から次は1足飛びに殿下に昇格したのはどういうことであろう。私はトントウル殿下に目くばせして、体よく記者団を帰して貰った。それからパクナム颪しの夜風が涼しい食堂で、シャム音楽の伴奏で踊る美しい美女群の大舞踊を見物した。遠来の賓客歓迎とばかりにシャナリシャナリと金鉱殿下の御身辺にすりよって、その御首にジャスミンの花環をかけられたのかけられないのってさながら生仏さま御光来の観があった。

 さて肝心の原始林1件はどうなったかというと、これは宛らシャム舞踊劇の舞姫の歩行の如く徐々として進行甚だ緩慢である。
 「薩摩の企図は平和的国際提携事業だ。」
 と大いに理解共鳴してくれた日仏政府の外交筋が大いに後援して、大宴会等催してくれてシャム当局を動かすことにつとめ、その回答を待機した。その間、外務大臣とラヴァン女王の兄君でこれも旧知の外務最高顧問の顕職にあるヴァンヴァイデア、ラヴァン女王の弟君の招待で、仏聖地プラバットに巡礼したりしたが、さて容易に返事が得られない。そのうちに、来年の春までには何とかはっきりした返事をするから、それまで待ってくれとのことである。それにしてもベンベンとそれを待って、こんなところにジッとしてはいられないと考えている折から、仏領印度支那のラオス山中リュアンブ・プラヴァン国王の招待をユートロプ弁理長官が伝達して来たので、願ったり叶ったり、日頃憧憬の地上天国を訪問して来ようと、アンコール、プノンペから西貢(サイゴン)に出て、新開通の全印度支那鉄道の乗心地を是非試してくれというガシエ土木長官の好意も受けて旅行をした。そして、その昔オノラ親分の褌をかついで下った街道を見ながら河内(ハノイ)に入り、ガシエ長官邸に泊った。ところが私の着く数日前日本の1陸軍将校がスパイのかどでつかまりブタ箱に謹慎中である。日仏親善上にも面白からぬから、総督が個人的に君と話してなんとか顔を立ててやりたいということだが・・・と甚だ仏蘭西式人情提議である。どうせロクな密偵ではあるまいとは思ったが、折角先方の好意を無にするのも心もとない話だと、ブレビエ総督に敬意を表しかたがた拝謁してみた。ところが、その経緯をきくとこうだ。この和製、いや国産口―レンスは、不心得にも仏語練習を表面の理由にして混血女を引っぱりこみ、色仕掛で巧みに懐柔策を試みたがかの女は逆にこの日本陸軍の大尉から河内攻撃戦法書類一切と地図まで盗み出して届け出たというのである。私は総督からその書類を突きつけられて、いかに私も同じ日本人と雖も弁護弁明の余地がない。ところが当方の形勢不利と見てとった総督は飽くまでも人情的のうわて外交で
 「いや君が来ると聞いていたので、この男の仕業もたわいない子供戦法だし、こんな書類は我々側にしたって、何の参考にもならず、軍事的価値など全くゼロです・・・」
 と笑って、簡単に片付けてくれた。

思いがけない余興が終ったところで、愈々神秘境ラオスに旅立つ事になった。この行、目指す目的地はリュアングプラヴァン王都である。別段用件を持った旅ではないので気はいたって楽だが名にしおう天下の未開地である。途中珍しい経験が無くもなかったが、旅行地としては何かしら気味わるさが先に立って長く滞在して楽しめるところではない。リュアングプラヴァン王都入りをする日、この街道は片道通行で生憎今日は向う側の日だが、ユートロープ弁理長官で特に向う側の通行を止めてやるという。ということは目くら滅法フッ飛ばしても絶対安全を保証してくれる大特典なわけだが、この光栄を利用するには自動車が老朽している。大原始林の真中でエンコでもされた日には一大事と、慎重極わまる歩調で漸く日没の頃、夢幻境を謳われているリュアンブプラヴァン王都に乗りつけた。既に宿舎バンガローには王宮儀典長官、仏地方長官等が待機していて、早速翌朝の王宮に於ける年賀式の打合わせがあって、日が暮れてしまった。

 リュアングプラヴァンの朝は、まだ薄暗い内から僧侶の群で賑わっていた。その何となく原始的風景に感心していると、王宮儀典長官が迎えに来て、これから王宮の拝賀式に案内するという挨拶である。服は昨夜の打合わせにしたがって白服の旅行服で結構だが、勲章だけは特っているのをありったけブラ下げてくれとのことである。だが、本勲章を持って旅行する程の心懸けは流石の私にもない。それで略章で勘弁してもらうことを納得させて王様用の車に陪乗して王宮に乗りつけた。正面階段を登りつめると我が眼の前には宛ら歌舞伎の舞台をラオス化したとでもたとえたらよかろうか、正面の雛壇には向って左に王様、右に畏友ユートロープ閣下が、金ピカの白い盛装で金塗りの椅子に腰掛け、その左右に色彩とりどりの絹地の腰巻(サンボー)きらびやかに、著けたも著けたも宛ら蘭化植物の展覧会そのままの勲章を胸に燦めかした重臣達が床に坐り1隅では宮廷楽師の1団がラオス調をゆるやかなリズムで奏している。その中をわがシャム金鉱殿下は、単身突入の態勢で静々と玉座に向って進み、最敬礼にあたる、片膝を床につく礼をする。王様は、するとやおら王座より降壇され、1儀典官の恭々しくさし出す「百万象白傘勲章」を御手ずから私の首にかけさせ給い、ラオス語でムニャムニャと御勅旨。するとこのとき儀典官が1本のかんじよりを差出すと、それを王様は自ら私の右腕の手首にムニャムニャと仰有りながら結びつけられた。ユートロープ長官はにこりと微笑しながら離席して、私の腕を握り
 「唯今陛下より本官の奏請により貴下に『百万象白傘勲章』を下賜せられ、バン(これはカンジンヨリのこと)を結ばれ給いて貴下の御幸福を祝せらる。真に歓喜に耐えない。」
 だいたいまあ、こんな意味のことを云った。そして奏楽が笙ひちりき式のメロデーを奏でる中を、私は百万象白傘勲章やその他ありったけの略章をジャラつかせて「光栄身に余り感激に耐えず云々」のセリフよろしく仏蘭西語で
 「ソメデット・フラ、ショウ・シサヴォング、ヴォング、権勢ある神聖なる陛下、神聖パン像の主都リュアンブの百万白傘の絶対支配者云々。」             
 と奏上した。それから宿舎に戻り百万象白傘を首から下し、略章をひと纒めにしてカバンに突込み、待構えていた儀典長官の案内で町に出た。リヤアングプラヴァンにはその濃厚な地方色によってひとたびこの山都に足をふみ入れた者には忘け得ぬ印象を与えずには措かないであろう。
 
原始的な茅葺屋根が調和よく並んで、淡紫色の光線がボーッとソフトフォーカスに全体の空気を包んでいる。その中を髪の毛を一寸横にずらして杏の花をさした娘達が日傘の蔭から小鳥の囀るように甘い声で「あなた蝙蝠の干物いかが?バッタのつけ焼おためしになりませんこと?」と客を呼んでいる。

 お寺様の庭で、グロテスクなお面に簑をつけてラオス祖先人の服装をした連中の踊りを見る。見ながら、唐茄子が真二つに割れて生れ出たと信じているラオス民族のお正月に来合せたことがバカに嬉しくなる。われも薩摩芋から段々堕落してきて到々唐茄子に惚れてしまったかと1種の感慨をもよおした。晩になると、私は真白な夜会服をまとい、百万象白傘勲章を首からブラ下げて王宮の夜宴に参内した。宮殿の大食堂の天井には扇風機がプンプン唸っていたが、その暑いこと暑いこと、王様の左側に座を占めた私は、全身水に浸ったような感じだ。畏れ多くも王様はどんなアンバイだろうと横目で仰ぎ見ると、汗1滴もない御姿、汗腺が無いのではなかろうかと疑った。

 ところで、麗わしの王妃はと仰ぎ見れば、ユートロープ長官といとも涼しげなる御表情にて会談中であったが、私の方をふりむかれ
 「妾は生れて海と云うものを見たことがない。勿論汽船に乗ったこともないので、今長官に河内に案内して海を見せてくれるようお話しているところです。」
すると、そのあとから王様は
 「海は海だが、薩摩氏、日本から歯医者を1人よこしてくれたら大助かりだ。」
 との御言葉である。食事が終ってから王宮の露台に座を占めて庭前の舞踊劇を拝観し、身に余る光栄をいただいて引下った。そしてその後、後勅命の歯抜き職人を物色する間もなく大東亜何々の連中がこの地上の極楽で血祭り騒ぎを演じてしまったのは残念至極の至りと云う外はないだろう。皇太子サヴォン殿下には、その翌日私を舟遊びに招待して下さったのを名残に仏長官の提供してくれたモーターいかだでヴァイアンチャンへ向け大メコンの急流を下り、ヴィアンチンで再び、飛行機で1足先に着いたユートロープ長官と一緒になった後、タケックより総督府差廻しの自動車で安南山脈を越えてこの旅行を終り、ともかく巴里へとシャムラオスを後に帰路についた。




 巴里に戻ってみると、原始林の野獣どころではない。ナチスの独逸からヒットラーが、全欧州をヒットろうとばかり、もの凄い勢いでムッソリーニと相呼応して大宣伝戦を始め、世界平和は日ましに危殆に頻しているといった状勢である。日本からも大島だか小島だか云う面構え甚だ面白くない軍属が、成りも成ったり駐独大使のふれ込み、ふんづけられた豆つぶみたいな恰好でナチスの野獣共に拍車をかけているといった始末である。シャムだの金鉱だのラオスの花などと、夢みたいなことを云っている場合ではない。私は勇気を起して今や最も危険地帯になっているチェコスロバキア方面に乗り込んで形勢をさぐり、演説の1つもやって平和を説きたいと、このことをオノコフ総裁に相談すると

 「お前の腕でチェコとルーマニアとユーゴスラビアの3会談がまとまるかどうかさぐって来て貰えば、万一その方面にヒットラーが暴れ込んで行っても、その前にわれわれの大学都市にスラブ系の文化戦線が張られ、自由に勉強しようという決心のある学者学生達のオアシスともなろうから、先ずプラーグまで行って様子を探って来たらどうか。お前は大学都市の国際人だし、それにお前のような日本人が出て行けば、今日の日本の社会でも啓発され、共鳴する人が出て来ようし、又我々の方も日本人にこんな考えの人間がいると三国当局を説く助けにもなろう。是非行って来い。」
 という話になり、大学都市に就いての講演をプラーグ仏蘭西学会の主催ですることに決定し、その旨、出先の日仏外交文化代表に照会すると、仏側は勿論のこと、日本側も文化問題に理解をもっている小川昇代理公使から、極力援助しようというハッキリした回答があった。恰も小川君はプラーグ美術館に日本美術部を設けたいと計画をしていたので、私はそれならと、巴里と日本に私有している古今の日本絵画の中から目星しいものを寄附する旨を申し出て、プラーダをさして旅立った。仏側はナヂャール公使が、日本側は小川昇君が手落ちなく面倒を見てくれ、文部大臣やその他の関係方面への接触にも尽力してくれた。当時としては相当思い切った私の講演も別に忌諱に触れることもなく済んだ。小川君とはカルスバットまで行って、ボヘミアの空気を腹いっぱい吸って巴里に戻って来た。話の序でだが私が約束した日本絵画は無事先方に届いて、小川君の計画は達せられたことを書添えたい。だが折角の会館計画はナチスの侵略によって無残にも水泡に帰してしまった。日華事変が突発し、ナチスの波蘭(ポーランド)侵略が始った。そして日ー日と戦火は拡がる一方である。私はナチスの国際犯罪に対する憎悪のしるしに、わざと敵国の勲章の略章を佩用し、ナチス独逸の連中と事業上の用務で接触を余儀なくされるごとに、全人類の名誉と、自由独立の名を以ての反抗と抗議をせずにはいられない私の動かし難い意見を表示して己まなかった。

 1937年の夏、英国皇帝陛下戴冠式の盛典に列席のため、盤谷(バンコク)からラクシャミ・ラヴァン女王殿下がトントウル殿下同伴、令妹バンチャード殿下と義女イン嬢を引き連れて来欧、私もお伴をした。その頃日華事変が起きたのだ。ガル・ド・リオンからマルセーユまでの汽車中で1中国画学生と乗り合せた。彼は私が大学都市の薩摩であると聞き、自分はこの不幸な事変のためにやむなく学業を中止して帰国するのだと語った。私は不幸な中華民国に対して、日本人としての恥ずかしさと国際人としての憤りをこの青年の言葉から痛感せずにはいられなかった。

 マルセーユで仏郵船に乗ったら、丁度日本に行くという仏蘭西翰林院会員★フロード・ファレール老と会い西貢(サイゴン)まで彼と同船した。ファレールとは古いつきあいの間柄だったが、この航海中、私は、彼がほんとうに日本と日本人が好きでどうにかして中日間の問題をお互いの顔が立つように言論の力で解決出来ぬものかと心痛していることを知った。彼は右傾の思想を持った人物だが、飽迄も独立的な非コンフォルミストで当時の独伊に対しても日本に対するのと同様な考えを持っていた。不幸第二次大戦が起ってしまった後は、一切筆を捨てて、バスクの閑居に立籠もってしまった。彼の仲間が戦後、独伊に協力したかどで挙げられたり、殺されたりしたが、彼のみは全く何等の非難も受けなかったと云うのは、仏海軍々人の経歴をもった彼が最後まで仏蘭西人として終始したにほかならない。この態度は私が不幸な時代にとった日本人としての態度でもあったので、私には殊更彼の心理が理解される。だが終戦後、真っ先に当時の反日的仏蘭西の与論を顧みず、堂々と日本に同情的な文章を書いたのは彼と★ポール・クローデルの2人であった。クローデルと彼とでは全く性格が異なってはいるか、日本を愛し、日本人を理解している点では2人とも一致している。

 西貢(サイゴン)でファレールに別れ、私は一路自動車でプーンペ、パタンバン経由で国境アランヤに向った。盤谷では再び1ケ年振りでフヤクイのラヴァン女王邸に落着き、シャム政府との交渉にかかった。ところがシャム当局のスローモーぶりは目に余るものがあり、そこへもって来て、私は少し健康を害したので、単刀直入農務大臣と会見し、最終提案を出して回答を求めたが、議会審査中とか金鉱令作成中とか、兎角の理由から更に数ケ月の猶予を求められた。それにしても、私の病気をほおっておくわけにもいかず、最後に提案受領書を取り、試掘権保留を認めさせる事を考えついてこれを果すと、私はかかりの医者の忠告にしたがって、日本で数ケ月待機する事に意を決し看護を申し出た旧知の仏蘭西婦人に附添われて★1938年5月、フェリツクス・ルツセル号で神戸に到着した。

 京都の別荘に数日を過したのち、大磯の別荘に着いた。そして日増しに悪化する国情に嘆息しながら、病気静養を理由にして蟄居していた。国内は大勝利の馬鹿騒ぎに酔っていた。戦死者の遺骨が増加していった。親交ある友人たちが追い追い私から離れて行き僅かに鈴木九万、内山岩太郎、佐藤尚武、有田八郎(外相)等の諸氏が親交を続けてくれた人々であった。周囲の馬鹿騒ぎにひきかえ、私の病勢は募る一方である。私は不愉快な大磯生活をたたんで箱根小湧谷の閑荘に登ってしまった。軍部の悪質宣伝は井の中の蛙大海を知らぬ馬鹿共を踊らせ、満州政府に入らんかと勧める者があるかと思うと、身内では伯父様はデマばかり云ってると侮辱され、周囲の状勢頗る面白くない。私が付添いの仏蘭西婦人を巴里に発たして間もなく、かねて予期した欧州第二次大戦の火蓋が切られた。巴里大学都市全体が仏軍に徴発され、佐藤日本会館長は既に荷物をまとめて巴里を引揚げたとの報道が伝えられた。オノラ総裁からは事態急迫至急帰巴をうながす飛行便がとどいた。私はこの危機をどんな事情があっても傍観してはいられぬ。畳のうえで犬死は出来ぬ。切っても切れぬ関係のある仏蘭西、また少年期を育んでくれた英吉利のこの一大危機にあたって、帰欧は当然の義務である。英仏は独逸に宣戦を布告した。日本は独伊に対しては、軍事上中立を保持している。帰欧して働くのはこの時を措いて又とない。好機逸すべからずと、奮いたった私は先ず当時外務省に居た鈴木九万君に旅券下付の了解をつけて貰うよう依頼し仏蘭西大使に対しては渡航便宜方を懇請した。鈴木君が如何にして旅券下付に口添えしてくれたか、恐らく当時の時局下では余程の理解がなくては引受けられぬ話だが、その話もまとまり、英国の査証もカニングァム総領事の厚意で容易に許可され、英国の親友連からも私の如き人間が出てくることは、多年の日英親善危機の際気強いとの激励状が伝達されてきた。どうせ沈没するならナチス共鳴者の軍部やその太鼓持の骨無し官吏などと心中するのは心外千万と安全中立な郵船を捨てて、私は特に友邦仏蘭西のアンドレ・ルボン号を択んだ。潜航艇にやられて水死するにしても、私としては日仏親善のため、正義人道のため、連合軍と心中するのは本望だと病状の思わしくない体で神戸港に着くと、ドペール仏蘭西領事は私の決心に感激して、最後の晩餐に招待してくれた。さてオウヘイな日本税関をパスして乗船すると、乗組員一同珍客とばかり大歓び、そして私は特別船室を提供されたが、これは仏蘭西の厚い友情からであった。船室に入ると2通の電報が届いていた。佐藤尚武大使と鈴木九万君とから発信されたもので航海の安全前途を祝すのメッセージだった。両氏は最後まで私の理解者であり日仏親善の支持者であったのだ。

 神戸港内には独船ションハーストが出港準備をしていた。熱狂した哀れむべきボッシュ共がウヨウヨしていた。船員の1人が私のそばに来て「日本海まで追いかけて1合戦我々と交わすつもりかな。」と云った。私は一笑に附したが船員たちは緊張していた。日本近海に出るや直ちに英仏軍艦が現わして護送した。上海で同船の1フランス令嬢と上陸したが、日本の海軍兵が中国人の労働者を殴り飛ばしている有様を目撃し、日本人自身必ずこんな目に遭う日が来ると私は暗い気持で令嬢に話した。彼女は大東亜政策を看板にして居乍らこんな暴行を黙許している日本政府の態度が解らぬと答えた。

 香港で友人の1英国士官に出会った。彼はこの戦争で日本が独伊と手を切って連合国側に加担するであろう。これが唯一の日華問題の自然解決法でもあり、日本の外交もそのへんから曙光を見出すであろうと云って、それに対する私の意見を求めたが、私は唯、そうなるであろうことを希望すると答え、すぐそのあとからそうなるべきであると訂正した。彼は微笑して私の手を握り「では国の友人達に逢ったら、日英同盟は既に香港で成立したと告げてくれ。」と言った。

 西貢(サイゴン)に着いて様子を見ると、動員動員の大騒ぎ、まるで7月14日の仏国祭日のようだと、冗談を云って笑ってる人もあった。シンガポールでも、知人の1英将校に会った。
 「西貢の様子はどうだね」
 と訊かれたから
 「お祭り景気でおどろいた。コンチネンタルなんかは舞踏者で一杯だ。」
 と答えてやったら、彼は
 「変な戦争だが僕はこんなことではすまぬと思うよ。日本の軍部は必ず馬鹿をやらかすと思う。我々は必ず攻撃されるよ。現在欧州に行く君は、まあ命がけだな」
 と悲観的意見をもらした。後日彼は日本軍の捕虜となり、収容所で病死したと風の便りで間いた。神戸マルセーユ間97日間と云うレコード破りの長航海。夜間は全然燈火を許されず非常時態勢の旅行で一等客僅かに数名、婦人客は万一の場合にと昼間の服装のままで寝に就くと云う始末、旧知の間柄である同船のド・シャンポー伯爵夫人を励ましながら、ともかく事なきを得て巴里へ帰着した。

私はオノラ総裁をはじめ、仏外務省文化事業局長マルクス氏やピラ氏その他要路の人々に面会して、相談の上日本会館残留財産一切を本部国立財団の保護管理下に置き、病気静養のため南仏カンヌに転地した。カンヌにひと先ず落着いた私は、唯1人の日本人だったので、仏人は勿論のこと英米人からも広く交際を求められ有力な人々とも個人的意見を交わす機会が多かった。しかし私の意見がいかに正しくても、又私がいかに積極的な行動人であっても、地中海沿岸に在って遠く日本の政治を行うわけにはゆかぬし、そんな力があろう筈もない。日本の情勢が、一途に転落に急ぐのを坐視しながら、私は手も足も出ない悲しさで、唇を噛む思いだった。そして、こうなったらせめて自分が個人の力で関係した日本の文化事業だけでも死守するほかにはないと考えた。巴里を去る前に、私は当時日本から戻って来た★藤田嗣治を訪問したが、彼は既に逃げ腰で、独軍が侵人した場合は逃亡すると云った。私はそれには何とも返事をしなかったが、藤田のように仏蘭西の愛寵を受けた人間が、都合のよい時代だけは巴里で金儲けして、いざ第2の故国仏蘭西の危機が迫ったとみるや、友情をかなぐり捨てて逃亡するとは、情ない心情だとひそかに彼を憐れんだ。藤田が戦後仏蘭西の与論にたたかれ、日本が左前になると故国を捨てて再び巴里に逆戻りしようとした時、仏当局がその査証をハネツケ、米国経由で入国して巴里に到着した際、新聞記者に大争いが起り、危く停車場で袋ダタキにされそうになったのは、仏蘭西側としては当然の気持だと思った。藤田に別れてから、これ又相当売れた某画家に会ったとき、私は芸術を仏蘭西で育てられた彼などは、義勇軍にでも入って独逸と戦うのが、日本男子の意気の示しどころではあるまいかと話したが、彼も又愈々独軍侵入と聞きこむと、藤田と共にシッポを巻いて逃亡してしまったのは、たとえ当時の大使館の指示によるとしても、余りに非人情非武士道的行為だと思った。私は事重大と感じたので、いつものホテル生活を切りつめようと、名もない小ホテルに引移った。独軍侵入と同時に英米人には至急引揚げ命令が下った。私の友人たちは別荘、ホテルの生活をたたみ、哀れな姿で、海岸通りのベンチに着のみ着のままで英国荷物船の到来を待機する有様だった。私は言葉では尽せぬ感慨で彼等を慰めはげました。

 「残留した老人や子供の世話は必ず見る。如何なる事態が起ろうと友情は友情である。国際愛を信ずる我々は飽くまでも正義人道の味方であり、必ずお互いに再会の日があるだろう。」と。
 未知の1英老婦人が私を呼びとめて
 「私は若い頃日本で幸福な生活をし、私の夫は日本で亡くなって日本に埋められている。日本人は正義の国民であるから必ずや我々と共にナチスを敵にすると確信している。これは私が日本を去る時、日本の友人から貰った記念品で一生肌身を離さず持ち歩いているメダルだ。東郷元帥が凱旋の時出来たものと聞いている。どうぞ英国の日本に対する友情と信頼の印に取っておいて戴きたい。」
 と桜の花を彫刻した黒ずんだメダルを私に差出した。すべての人々が非常に感傷的になっていた際ではあったが、私はこの未知の英国の1老婦人の日本に対する温かい友情を感激して受取った。そしてその足でカトリック教会に詣で、仏蘭西守護聖女ジャンヌ・ダルクの聖像の足もとにそのメダルを捧げ、カトリック教徒でもない私の平和願望を訴えた。

 私はニースに移った。伊太利軍が入ってくると、私は数日外出もしなかったが、伊太利軍人の仏人に対する非常に控え目な態度から、私は彼等が嫌々戦争に巻きこまれた、ファシストとは全然縁の無い平和を愛する市民であり、同時に独軍に対しては好感を抱いていないことを知るようになった。

 その頃ヴィシーから年の若い日本の1外交官補がニースにやって来て、ニースで語学の勉強をすると云って訪ねて来た。気持のサッパリしたしっかりした若者だった。彼は当時の日本の空気の中で育った青年であるだけに、枢軸国に対して相当強い熱情を持っていたが、私はその点では何事も触れないようにしていた。そして彼の持ってくるヴィシー大使館製の情報は甚だしく実状と相違しているのを見出したが、そのことについても彼には勿論私見などは述べなかった。彼にしても私が反ナチスだぐらいは賢明な頭で想像していたことと思う。いずれにしても彼はあらゆる方面の人々に愛敬され、仏人に対しても非常に親切な態度で接していたし、私は彼の紹介で独伊の主脳者を知る機会を持った。

 伊太利の人々は甚だ社交的で親切に交際してくれたが、或る日某副領事が
 「薩摩氏は恐らく、我々の今日の立場に対して好感を持っておられぬと思う。だが実は自分達も大いに不満なのだ。独逸は決して伊太利の味方ではないのだし、日本の味方でもない。彼等の軍事的規律は尊敬するが、自分達には彼等のイデオロギーは全く文明に反したものとしか考えられない。自分からこんなことを云っては、貴下に罠をかけてつりこむように取られるかも知れないが、我々の友人は非常に若い人だし、正直に我々が独逸と非常に親しいと考えて居る様子だから一寸貴下だけに申上げておく」

 と前置して散々独逸の悪口を云った挙句、自分は国の反抗団体と連絡があるから、万一の際は何でもすると友情的に云ってくれた。私は微笑して聞き流していたし、勿論某君には一言もこのことについて口外しなかった。マヂノ戦線が崩壊して独軍が洪水の如く侵入し、ペタン老元帥の声がはじめてラジオに響いた時は、私といえども無量の感慨に打たれた。軍事的に、既にあの当時欧州大陸では如何なる反撃も不可能だったのである。ペタン元帥によって一般仏蘭西国民は救われたと直感したのは当然である。又、事実ペタン元帥により当時の仏蘭西国民は己の貴い伝統的文明の偉大な美の再発見をし、所謂腐っても鯛の自信を以て侵入者・独逸に対する事を得たのである。最も悲しむべきことは現在の日本でも見られるように、仏蘭西自身の内に、仏蘭西は完全な敗戦国だ、ヒットーの情によって再興するよりないと宣伝し、長いものには巻かれろ式のオポチュニスト的コンフオルミストが出て来た事である。誰もが真剣に何とかして老元帥の期待に添い、努力に酬いたいと考えたのは当然で、私は文化的に日本に於て仏蘭西文化の地盤を守れと当時の外務大臣のボードワン氏を励ました。事実第三共和政体はデマゴーグ的政治家連の手で軟化してしまって、文化的にも枢軸の宣伝戦に押され気味だった。若し仏蘭西文化の伝統が1時の国難のため、その高貴な価値を忘れられ、失われてしまったとしたら、それは全人類の取り返しもつかぬ不幸なのである。「お前達は敗けたのだ」とは何事だろう。軍事的に大いなる手違いが生じたかも知れぬし、政治的には1政体が崩壊したには違いない。だがそれが文化的精神的に仏蘭西が敗けてしまったとは云われまい。敗けるどころか、仏国民はペタン元帥の出現により己の持った崇高な伝統の美とそれから放射される偉大なる仏蘭西精神によって再生したではないか。私は嘗て仏蘭西を敗戦国と考えたことはない。ペタン元帥でさえ仏蘭西は重傷を負ったのだと明言したが、負けたとは云っていない。ヒットラーは単に軍事上で勝利を得ただけで、仏蘭西が講和条約に調印しない以上は唯だ休戦状態に立った儘で、最後の勝負の軍配は決定していなかったのである。ド・ゴール将軍が宣言したように仏蘭西は単に1合戦を失ったばかりであるというのは単なる負け惜しみではないのだ。当時の私は「敗戦」を宣伝する者達が、唯目先の事しかわからない連中で、彼等こそ仏蘭西を共産主義のクーデターに導いてしまう分子だと考えた。仏蘭西人大衆が敗戦的心理状態に陥ってしまい、精神的独立性を失ってしまった時、共産系の反抗団体に「我々こそは真の仏蘭西国民であり、我々こそは敗戦を信ぜず最後の勝利及び仏国の政治的独立は我々の流血で死守されたのである」と見栄を切られて、グーの音も出せないのは、彼等敗戦主義者である。共産系の反抗者連は仏蘭西の原野で現に血を流しているのだ。彼等はたとえ仏蘭西赤化のために戦っているのであろうとも、現に狂暴ナチスに反抗し、自分の血を洗っているではないか。口のみで愚痴をこぼし乍ら、侵入者の鼻唄をうかがい、ペタンにでもド・ゴールにでも、場合によっては共産のトレーズにでもいつでも旗色を塗り替えられる旗を持っていたブルジョア階級は、当時の私には最も哀れむべき「敗戦者」と感じられた。ペタン派ならペタン派で理由もあろう。ド・ゴール派ならド・ゴール派で理想があろう。いずれも仏蘭西人であり仏蘭西人でありたいために、彼等は一方はヴィシーに立て籠り、一方はアルジェに待機しているのではないか。共産系の反抗団体にしても、たとえ、それがモスコーの赤旗の下で行動しているとしても、彼等には彼等の主義主張があり、正邪はともかく祖国愛を標傍して、尊い血を流しているのである。だが不愉快な敗戦国宣伝等には国民的節操など爪の垢ほどもない。ナチスでもなく、共産派でもなく、ペタン派でもなく、ド・ゴール派でもない。「長い者には巻かれろ、自分さえよければ、どうだっていいのだ。」である。オポチュニスト以外の何物でもない。その朦朧性がまことに不愉快である。

 モントワールのペタン元帥とヒットラー会見後、オノラ総裁は最後の上院投票に於てペタン元帥に対し棄権を敢行した。それに依ってヴィシー駐在日本外交代表との関係も自然疎遠になり、オノラ総裁は郷里アルプス山中バルセロネットに一時引籠もってしまったが、やがて関係事業の責任からも、また巴里に戻って来た。私は頭を下げて独占領区域に入るのを飽くまで拒み、南仏ニース、即ち自由仏蘭西区域に踏み止まる決心をかためた。ということはヴィシー要人と会う必要も無く、当時の日本大使館に交渉しなければならない用事から遠ざかったことを意味する。

  日仏文化事業にはナチスの息がかかり、独逸からゲッペルスの後援で来仏した1朝鮮人の指揮者の大音楽会が、大使館後援で巴里のプレーエルで演奏されるまでになり、到底私などの顔を出せる性質のものではなくなった。「オノラは仏蘭西の国賊、薩摩は日本の国賊」と呼ばれてるなどという風のたよりが二―スに伝わってくる有様で、ヴィシーなどに行けるものではなかった。そうこうしているうちに独軍の形勢もロンメル元帥のアフリカでの敗戦で下火になって来た。英国の粘り強い反抗は逆に段々力を加えて来た。日本の参戦によって1時パツと咲いた南方の花火もつづかず、おりから英空軍の爆撃が日増しに盛んになって来た形勢に、私は万一の場合を考えて自由区域内通行許可証を仏官憲に願い出た。勿論、仏蘭西に残留希望の邦人の責任は一切負わず然るべく・・・とサインまで取りに来た大使館に今更厄介になどなりたくない。通行許可証がいっこうおりないのでその催促にニース警務部長に面会を求めたところが、これがはからずも旧友ド・マルテル伯爵(元駐日仏大使)の部下だという。話はよく通じて、ではひとつ出来る丈骨を折ってみようとのことである。序でだから大使館の一札の件も話したところ
「いや今にそっちの方が通行止になりますよ。」
 と微笑した。数日経つと刑事2人が私の住居にやって来た。
 「実は通行証の件で来たが、貴下の御身分はよく承知しているが、宗教その他を伺いに上った。」 という。
 「通行証と宗教と何の関係があるのだ。独逸占領区域ならありそうな話だが、仏自由区を歩くのにそんな看板が必要になったとは実に奇怪千万、だが御必要とあらば申し上げる。私の宗教は世界平和四海同胞であって神も悪魔も引きずり込み・・・」
と終らぬうちに、私を制して
 「では貴下はカトリックでも無ければ、プロテスタントでもなく、回教徒でも無く、要するに猶太教ですな。」
 ときた。
 「いやそれならまだましだが、私は日本で生れたのだから神道でバテームをし、仏教を教えられて育った者、まあ面倒なら神道としておきましょう。」
 これを聞いた両刑事殿顔を見合わせて
 「それじゃあまあパイヤンと云うわけですね、だがパカニズムは現世紀の初めに姿を消してしまったので、それじゃ一寸困るのだが、貴下はいったい何を信じて居られるのだ。」
 との再質問
 「世界平和四海同胞を信じている。それで通らぬのなら仰せの如くパイヤンなんだから、太陽を拝し、月星を敬い、犬猫猿鳥はおろか、大自然の創造したものは独人であろうと猶太人であろうと清濁合わせ含んで尊重しますよ。」
 と皮肉ると
 「ではまあ古代のエジプト人式宗教ですね。」
 「まことに然り」
 「では何んと称したらよいでしょうか。」

「まあ、動物教でしょうな。」
「成程、では動物信者とでも云うのですね。」
「その通りその通り。」
ここ迄突込んで2刑事殿やっと得心がいったとみえて
「いや、大変御邪魔しました。では亦いずれ何んとか沙汰があるでしょうからそれまで・・・」
 と仏蘭西人特有の円腰御挨拶に大いに好感を感じた。それから数日経って待ちに待った通行証が届けられた。そして私の姓名の傍に「動物信者」と堂々と記されていたのには私も参った。だがその時、この天下一品の仏蘭西自由区域許可証が後日私の身辺に一大悲喜劇を引起そうとは、流石の動物信者も犬猫のカンに劣るものであった。

敵前上陸の噂ばかりがこの南仏の海岸の住民を刺戟し、脅やかしていた。英空軍の襲撃は日増しに激烈の度を加え、殆ど全国の鉄道網は蜂の巣をつっついたように乱れ、自由区域も有名無実、独軍は仏蘭西全土に進駐の形勢となった。そんな折から仏はアルプス山中のスキー地メジェーブ村に伊太利軍により看視滞留になっている友人の英人C君から、次の様な急信を受取った。
 「伊太利軍は既に引揚げ準備中で、独軍進駐はここ数時間の問題と思う故、伊太利軍最高司令部を訪問して自分及び自分の家族一同の当地滞留許可を引続き許されるよう独軍に対し、手続きしてもらいたし。」
 この急信を受取った私は、直ちにニース市の伊太利軍総司令部のリチ大佐に面会を求めた。そしてホテル・エルミターヂュの司令部に到着した私は、直ちにリチ大佐の応接室に案内された。来意を単刀直入に告げると、大佐は微笑して
 「貴下の御親友の高名は自分も知っている。だが今日英国の国籍にある国民が如何なる考えでその家族と共に独軍の占頷下に残留するのか自分には理解出来ぬ。万一貴下の云われる如く、我が伊太利軍が引揚げると仮定したら、何故に我々と共に伊太利に入国し、連合軍占領区域に行かれないのか。だが当人の御希望とあらば我々伊太利軍として何等反対する理由も無いが、唯独軍の手に渡られたら我々がしたと同様な待遇は受け得るか否か、その点は明言出来ない」
 この時大佐の副官が扉をたたいて入室した。大佐は振返って口早やに伊太利語で
 「では自動車の準備は出来たのだね、荷物も全部乗ったか、ガソリンは充分だね、有難う。」
 そして私の方に向き直り
 「いや、一寸伊太利迄行って来るので、では御友達に特に御伝え下さい。英国は伊太利の最大の親友国だとね。」
 大佐は微笑して私に握手した。室を出ると、あたりのザワめいた様子から、引揚げが直前に迫っていることが感じられた。果せるかな、その夜、伊太利軍は国境を越してしまった。

 数日後にC君から手紙で独軍が到着したことを知らせてきて、相変らず看視滞留の身故万一の場合は急報するから宜しく頼むと云って来た。それから間もない日の或る朝、電話がけたたましく鳴り出した。受話器を耳に当てるとC君の夫人の声が響いてきた。

「大変な事態が起った。ここに看視滞留になっている英米人全部が独警察(ゲシュタポ)の手で押えられ、今コンピエン指して出発したが、聞くところによると独逸に追放されるとのことである。夫だけが丁度村に買物に出て留守中だったので逃れた。今戻って来て家に隠れている。直ぐ来てくれ。自分達が万一救われるとしたら、それは貴方の手によるよりほか何等の望みも他にはない。では一生の御願いです。」

 予期はしていたものの現在眼前にC一家が危機に曝されているとあっては、じっとそれを坐視してはいられない。直ちに独軍リオン総司令部長官ニエホフ将軍に急電して、シャモニーの独警察支部に紹介を請い、ファイエ行列車に飛び乗った。家を出る前に、C夫人に電話をかけ、今直ちに発つから、如何なる方法を取ってでもCをシャモニーまで発たせて待ち合わせるよう、これが最後の望みだとダメを押した。カンヌを出てアゲーに差しかかった列車は、その日の早朝、空襲で破壊された個所の手前で停車し、旅客はバスでサン・ラファエルまで運ばれ、そこで待っている列車に乗換えよとのこと。荷物を引っかついだ乗客が一斉にバスに向って突撃して数台のバスは真黒な人の山になってしまった。私は辛うじて屋根の上に這い上り、荷物の蔭に身をひそめた。

 「誰も屋根の上には乗って居ないだろうね。」
 と警察の声が聞こえた瞬間、バスは動き出した。私は首を持ち上げて警察に
 「確かにこの通り。」
と叫んだ。バスの中に寿司詰めにつまった旅客から
「ブラボー、日本人」
 の歓声が起り、警官はしてやられたといった表情で「おお、畜生。」とこぶしを振り上げたが、再び起った。
 「旨くやったぞ」
 と私に味方する旅客達の歓声に
 「ごもっとも」
 と仏蘭西式に逆に出てからこんどは私を見送って
 「では御無事にいってらっしゃい。」
 と叫んでいた。

 翌朝ファイエにたどりついて、登山鉄道に乗り換えると、初秋の山の空気が窓から流れ込み、私は楽しかった戦前のこの辺りの旅の思い出に耽っていると、列車はいつの間にかシャモニーの駅に停車した。私の降りたのを1人の青年が見つけて、C君は確かに安着、停車場の外で待っていると告げた。出口を出るとすぐCの姿があらわれた。私はCを抱擁して、隠れ家となっている或る下宿に昼食をとろうと、そこへ行く途中で、2人の女連れがあとをつけているのに気がついた。「山の中にも狼が居るね」とCに囁いたが、Cは唯一途に、自分の身の上に就いて考えているためか返事をしなかった。食事をすませて独逸警察に電話し、至急に所長に面会を求めると
「ああその話なら既に承知している。御来訪になることもリオンの本部から知らせてきて御待ちしていたところだからすぐ御越し下さっても結構。」
 と鄭重な挨拶であった。そこでC君を引き立てて、早速町はずれの、アルプス杉の深い林の中に一別荘を占領している独逸警察の扉をたたいた。

 「貴下のC氏に対する御親友関係とC氏の日本に対する旧い友情などと考え併せて、このたびのお願いごとは真にもっとものことと思いますが、C氏は英人であり、然も先日我々の眼を逃れてしまった関係上、今日となっては人質候補であり、自分として知何とも致し難い」
 と云われた。話が困難と見てとったので、Cを庭園に出し、万一の場合は目くばせして逃走の陣立をし
 「だが貴官にも申上げるが、C氏は独軍に対し何等抵抗もせず、平和なる市民であり、仏蘭西に生れたC氏の叔父は独逸人と結婚し、C氏の夫人も仏人であり、今日まで平穏な生活をしていたので、何ら追放にかかるような人物ではない。私が保証するから何卒元に戻して貰いたい。」
 と突込んだが馬耳東風である。
 「では如何なる方法を取ればよいのか。」
 と追撃すると独人は声を落して
 「貴下の保護で瑞西(スイス)国境に発たしてしまうより方法は無いのだ、折角貴下がここまで来られたことだから今晩までは貴下を信用する。その間に・・・」

私はこの意外な提案の前で一寸ためらった。というのは、Cがその家族と直ちに国境破りをするなどということは全然不可能事で、たとえば、かりに若し彼1人が国境を越え得られたと仮定しても、残された夫人とその一家は如何なる待遇を受けるだろうか。これまた計り難い・・・そんなことを考えているうちにふと頭に1案が浮んだ。
 「だがC君は長年の肺病で、この際たとえ瑞西に入ろうと入るまいと到底長くは生命が保てまい。どうせ死ぬのなら第2の故郷仏蘭西で・・・とはC及びC夫人の願望だと思う。たとえ貴下方の手で押えて追放してみたところが、恐らく途中で死んでしまうだろう。いや全く生きた屍の御蔭で貴官にまで御面倒をかけて・・・」
 と空とぼけると
 「いや、そんな人とは知らなかった。ではCは肺病ですな。」
 「然り、然も不治性のですよ。」
 この言を関いた所長は、仏人の女秘書を呼んだ。
 「ヂュルメン夫人、英米人関係の書類を一寸・・・」
 女秘書が現われた時、私はそれが今朝登山鉄道の停車場前から私たちをつけた女連れの1人の顔だと再認した。所長は女秘書にCの肺病患者であることを告げた後、私の顔を見て
 「では医者の診断書が有るでしょうな。それがあれば先ずリオンに送還して取調べの上、何んとかニエホフ大将の口添えで人質だけは免れるかも知れぬ。」
と折れて来た。

「だがあんな病人を方々引っぱり廻してみたところで始まらないではありませんか、そのくらいなら一層ひと思いに今夜にでもバッサリ人質でやってしまった方が当人も助かり・・・」
 「いやいやそんな真似は出来ない。」
 と考え込んだところを女秘書が
 「所長、折角の薩摩氏の御話なのですから、どうにかしてあげては。」
 「そうですよ、人道的に考えてね。」と私が附け加えた。
 「では一応C氏の診断書を拝見して見よう。」
 と益々軟化、というのはそろそろヒビの入った来た独軍現状、万一の場合には反対にこっちから助け舟を出して貰う心算もはたらいたのだとみた私は、Cを呼び戻し、用意してあった診断書を出させると、何と十数通が机上に並べられたではないか。流石の所長も苦笑して
 「まあ1つ2つで結構ですよ。」
 これで懸案が解決した。
 「では御望み通りひと先ずメヂェーブまでお戻しして、いずれ本部の指令を待って薩摩氏までお伝え申上げよう。それまでは私の責任だから間違いのないようお願いしたい。いや、随分御苦労なさったことでしょう。個人的には御同情しますが、これまた戦争故で・・・」
 との人情深い態度である。

「ではこれから私自身附き添ってメヂェーブまで送り届けるから、途中で間違いのないよう通行許可証をお願い・・・」
 と云いかけた私の言葉をさえぎって
 「いや、それには及びません。丁度しばらくメヂェーブには行かぬから、私自身これから自動車でお連れしてよく出張所長に話して置きましょう。御安心下さい。」
 それからコーヒー迄出してくれる親切さに、呉々もCの身柄を依頼して私は宿舎に引揚げた。

 難関を突破した後はニエホフ将軍にでも依頼して口添えして貰えばC一家は款われようと、私は一風呂浴びて旅の疲れを流し、昼寝して目覚めた時は、既に夕日が雪峰の後にかくれて、涼しい山おろしが谷間の白樺の木立をゆすぶっていた。私は夕暮迫る町、幾たびかの滞在で知りぬいていたこの懐かしの町に立ち、赤い燈のともった浴場に何気なく立寄った。北国生れらしい、プラチナに髪の毛を染めた美人のマダムにコックテールを注文して、高い掛椅子に坐るや否や1人のブロンドの女が雪外套(カナデアン)に包まれて、私の側に座をしめた。
 「今晩は、山には珍しいお客様ね。」とマダムに挨拶して、それから私の方にすりよった。
 「珍しいお客とは私のことですか、お嬢さん、」
 と私は微笑して彼女の横顔を見るや、これ亦今朝停車場前から私たちをつけた例の女秘書の連れの女と気付いた。
「ええそうよ、こんな山奥に巴里の贅沢な香水を匂わした紳士なんぞ、夢にも見られない時代ですからね。」
 そこで私は単刀直入に
 「だがその夢は、今朝登山鉄道の駅前から見ているのではありませんか。」
 と突込んだ。
 「まあ、では。」
 「そう、私は貴女のような美人を見すごす程ボンヤリはしていないし、まあ御立派なお腕前と御見受けはするが、まだまだお若い。」
 彼女は自分の一言に兜をぬぎ、
 「C様の1件は巧くその外交で片附きましたね、だが薩摩さん、悪い事は申し上げませんが、この山の夜は貴方のような立派な紳士が越されるような場所じゃありません。決して悪いことは申し上げませんから、これから直ぐお立ちなさい、もう終列車は出てしまったから、妾がサイドカーを手に入れます、直ぐこの足で・・・」
 と言うと声を落して
 「ここは奴等の地獄、大変なことになりますよ、一刻も早く、ねえ妾が・・・」
 「御親切は有難いが御承知のCは救われ、私は旅に疲れた。今晩はゆっくり休んで、明日か明後日発とうと決めているのですから、・・・それに何事が起ろうとね、私1匹の身の始末ぐらいなら・・・」

 彼女はこの言を聞いてうなずいた。
「では2人だけの間でCの放免を祝い、旁々シャンパンを空けましょうか。」
 マダムに目くばせして私は彼女の肩に手をかけた。
「お嬢さん、失礼だが貴女は独逸のどこからお見えですか。」
「まあ、一寸当りませんね。」
 と彼女はハンド・バッグの中から5通の旅券を取り出して、酒場台の上に放り出した。
「いや、そんなことだろうと思いましたよ。」
 私は旅券に目を落した。
「なる程、仏、瑞、独、英、それに伊太利、大したコレクションですね」彼女はほほ笑んだ。
「まあ、どれが本物か知らんが、貴女は美人ですよ。」
 とシャンパンの杯をタッチした瞬間、彼女は私の手を握り、紅い唇を耳につけ
「さあ、これからが一芝居だけれど、妾は貴君の味方。」
 と囁いたとたん、ガラーンと入口の鉄扉が下り、酒場合の横の扉が開き、ハッと思う間に私は数人の独兵に取り囲まれてしまった。

 恐らく之を読まれる読者は野郎小説を書き出したな、ハリウッドヘでも売りつけて小使銭でもひとかせぎする気かと思われるだろうが、私のゴマ塩首にかけても、これは小説じゃない、小説どころの生やさしい話ではない。私は独軍の捕虜になってしまったのである。そして酒場の扉の奥の1室の真中には蝋燭がともり、1独逸将校がコニャックの瓶を前において私の方を見ながら怪しい仏蘭西話で声をかけた。
 「貴下に一寸お話したいことがある。」
 私は相変らずブロンド嬢と坐ったままシャンパンのコップを彼の方に上げた。
 「お話があるなら私の方へ。」
 すると彼は、
 「いや私の方が1杯差上げましょう。ではこちらへ。」
 と急に丁寧な口調になった。
 「御招待なら話は別だが、先ず貴官の御部下方折角の御入来故、シャンパン1杯差上げて・・・」 とマダムに目くばせした。兵士達は意外な言葉に間の抜けた形だったが、その内の下士官らしい1人が、
 「では日本天皇陛下のために。」
 と気を利かして座をつくろった。
 「世界平和の為に。」
 と私は追っかけて云い、それからブロンド嬢の手を取って、将校のすゝめる席についた。
 「実は貴下に申し上げるが、残念乍ら貴下の御生命は本官がおあづかりしておることを御承知願いたい。」
とピストル2挺をコニャックの瓶のそばに放り出した。

 「有難う、名誉ある貴官の御保護とは勿体ない、ではどうぞよろしく。」
 と突っ込んでから再びマダムに目くばせしてシャンパンを抜かせ

 「ではよろしく。」
 と白ばくれた。中尉殿がそれから何をしゃべったかは、ここでは話し切れぬので割愛するが、掻いつまんでお話しすると、彼は自分自身でCを押えに行ったが、Cは逃れてしまい、恐らく瑞西国境を越してしまったことと思い、そのように報告しようとしたら、私に出し抜かれてしまいCはウマウマと私の力で独逸警察から釈放されてしまった。独将校としてこんな恥辱を受けたことは無い。その上これ亦厚顔にも独軍専用の酒場に入りこみ、彼が惚れこんで結婚まで申しこんだブロンド嬢と仲良いところを見せつけられては男が立たぬ。日本市民と称して敵仏蘭西の最高勲章を独軍の前で佩用し、英国市民を日本の旧友と称して弁護するに至っては言語同断云々、と云うことがクドイ。

 「ハハーン。」
 と聞き流し
 「おい、中尉殿、少しお静かに、貴官が独逸軍人なら私も日本の軍籍を汚した光栄を持っている。仏勲章1件で文句が有るなら、ペタン元帥に問い合わせろ、ヒットラーから貰ったクロワ・ギャメとは違った筋道、貴下の令嬢1件は小生の存ずるところではない、独警察の密偵ぐらいのこと
は貴官から承らずとも、とうににらんで惚れてしまった。」
 と高飛車に出てブロンド嬢の頬にキッスした。するとこれを見た中尉は、既に酔が相当まわっていたが、カッとして、机上のピストル2挺を雙手にふりかざし、天井目かけてブッ放した。ガラガラと電気の装飾具が私たちの頭上に散った。

 「いやこの一発でお気が晴れれば後の始末は私が・・・」
 と再びマダムに目くばせし、シャンパンをつぎ足して、実に総計13本。流石の中尉もベロベロに酔い倒れてしまった。そのすきを千法札30枚をマダムにつかまして「御世話様。」とブロンド嬢の嬌笑でけん制して、山の麗の森の中にあるブロンド嬢の家へところがりこんだ。

 「御苦労様、貴女の魅力の御かげで・・・」
 と唇を彼女の手にもって行った。その瞬間ハッとした。ブロンド嬢の指が欠けているではないか。愕いた私の顔をまともに見つめた彼女は
 「大変な美人でしょう、実は私は波蘭土の独軍の労役場で・・・」
 と意外な過去を語り出した。彼女は英国人を父に持ち、独仏混血女を母に持ち、北大西洋上の仏蘭西船上で生れ、婚約した仏将校は40年に独軍の捕虜となり、彼女は語学の達者なのを利用してブルッセルの某国領事館に入り、捕虜になった婚約将校にあてたタイプの手紙の写しが独警察の手に落ちて波蘭土に追われ、1冬を夏シャツとショーツの半裸姿で雪かき労働をさせられ手足も凍結してしまったところを1独老将校に助けられ、独警察に働くならばと、命がけの密偵になった。だが彼女の思いは仏蘭西にあるので、秘かに反抗軍と連絡していたのだが、どうせ終りはナチスの手で殺されるに決っているから、それを思うと、せめて貴方を救って出来ることなら一緒に逃げおおせたい・・・」

 と告白した。これを聞き終わるか終わらぬうちに、扉をたたく者があって、それと共に独語の会話が聞え、またあの中尉が姿をあらわした。そしてこんどはいきなり彼女にピストルを突きつけた。これを見るが早いか、私は彼の手に1撃喰わして、ピストルを叩き落した。そして靴で踏みつけておいて

 「何を乱暴をするんだ。これが独軍人のする事なのか。酒の上とは云え、こうなったら承知しないぞ。」
 と、ベロベロに酔っている奴を、便所の中に押し込み、外から錠を下して彼女を連れて外へ出た。それから
 「僕の宿に行こう。」
 と、彼女を誘って数歩行くと、いきなり背後から首っ玉にかじりついた者がある。ブロンド嬢の叫び声で、さては、また執拗い中尉が来たとさとった。体をかわして彼の手を振り放し、顔面にアッパーカットを喰わすと、彼は道の真中に倒れてしまった。私は彼女をつれて旅舎に転げこんだ。朝の3時頃であった。夜が明けるまでの間をトロリとする間もなく、仏警察から警部が2人やって来て一寸警察まで来てくれと、引き立てられてしまった。署長は机の向うで腕組みしていた。私を見ると
 「いや、大変な騒ぎです。今朝、独将校が街道で酔い倒れていたのを署員が発見して、聞いて見ると日本人とゴタゴタしてとのことだが、日本人といえば昨日ここに着かれた貴下以外にはない。一応旅券、通行許可証を拝見した上、独軍司令官まで報告しなければなりません。沙汰あるまでは気の毒ですが、ここで御待ち願いたい。」

 と云う。もうこうなったら仕方がない。私は身分証明書や通行許可証を出して、彼の机の上に放り出した。彼は旅券を調べた後、通行許可証に目を通した。巴里大学都市理事、オフィシエ・ド・レヂオン・ドヌールに目がとまったと見えて、彼は一寸顔を上げて私の赤色の略章を見た。
 「貴下はレヂオン・ドヌール勲章を。」
 と急に態度が改まったが、さてその側の「動物教信者」のくだりに視線を投げると、彼は愕然としたらしかった。
 「これら何んの宗教ですか、動物教信者とは一体・・・」
 と彼は口の中でくり返してつぶやいた。動物教信者には私の神経がゆるみ、笑いが思わずこみあげてきた。そして、私は堪らなくなって、動物教信者には私の神経がゆるみ、笑いが思わずこみあげてきた。そして、私は堪らなくなって、ハハハと大笑いしてしまった。が署長は何か何やら見当がつかずに苦り切っている。そこヘブロンド嬢の声が扉の外から聞えて来た。
 「失礼しました。薩摩さんは私の方でいただくことにします。」

と云って、彼女は何か書類を出した。私の処置を持て余していた署長の顔にホッと微笑が浮んだ。

 ブロンド嬢に促されて独司令部に出頭すると、気持の悪い程の丁重さで、今朝は酒の御馳走にあずかりながら、隊の者どもが大変失礼いたしましたと挨拶を受けた。答えに窮していると、エブリン嬢(ブロンド嬢の本名)が、さあこれで、もうすべてがすみましたと云う。余りアッケないので、こんどはこちらが気抜けしてしまった。

 後日、11月末になって、再びエブリン嬢を訪ねた。雪のチラチラする山中に、C一家をも見舞って、明ければ大戦終了の年の春のことである。ニースを追われてボーリュの高台に避難していた私に突然電話がかかって来た。エブリン嬢の声で、モンテ・カーロの祖母に面会のため、特に休暇を取って出て来たが、今日午後の独軍軍用列車で山に戻る。一寸でいいから是非お目にかかりたいと云う。

約束したニースの停車場前のカフェに駈けつけてみると、エブリン嬢は何だか元気のない顔で、コーヒーをすすっていた。
「お目にかかれるのも、これが最後かもわからないわ。」
 そう云う彼女をはげまして、真っ黒な軍用列車の内に送りこんだ。それが私の見た彼女の最後の姿であった。彼女は独軍退却の折に、サランユ山の中で独軍の手で殺害されてしまったらしいという噂を、後になって耳にした。

 そしてあの中尉は私との事件で、その後東方戦線に廻され、そこで戦死したらしいと、これも噂話である。残ったのはCと私と2人きりで、当時を追憶するたびに、シャモニーの秋風と、白樺の林と、そしてエブリンの思い出が我々の胸に蘇った。

 巴里の日本会館も再開され、白耳義(ベルギー)の財団も再開され、巴里事務局長・萩原徹二君の来巴を迎えた。

 豪華船ラ・マルセイエーズで12ケ年振りで故国の土を踏んだ私の半生記―今様浦島物語を 「歌を忘れたカナリヤ」の日本語でタドタドしく書き綴ってみた。             (昭和26年5月)

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 ●『わが半生の夢』ー半生の夢 <了>。

 ●『わが半生の夢』ーモンパルナスの秋 へ続く。
 


● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (1)
 ● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八  
  
 ★薩摩君のこと          堀 □ 大 學

 閑院の宮、西園寺公の昔は知らない。
 僕の同時代人の中では、薩摩治郎八君が僕の知る限り、ヨーロッパの社交生活に、長期に渡って一番派手に金を使い続けた日本人だ。M侯爵夫妻のロンドン、パリに於ける大使館づき陸軍武官としての金活は随分華やかだった。だがこれは期間が短かった。H侯爵と実業家のM氏も随分金を使われたが、これは美術品の蒐集に使ったので、純粋の消費とは言えまい。一種の投資だから。ところが薩摩君のは、只なんとなく使ったのだ。ヨーロッパの社交金活を楽しむために使ったのだ。自分も楽しみ、人を楽しませる以外の目的なしに只何となく使ったのだ。この点に僕は感心する。それも30年の長きに亘ってだ。金を使うことはいいことだ。使った本人の身に何かがきっとプラスされる。少なくとも儲けることよりはいいことだ。儲けた人の身につくのは金だけだから。薩摩君が20代の若い日にパリの大学都市に私費を投じて留学生のために日本館を建設したことは人も知る通りだが、あれに使った金高なぞは、薩摩君がこれまでに費った金の千分の1にも当るまい。他の千分の999は只何となく使われたのだ。薩摩君の身には随分いろんな教養がその血と肉となってついているが、これは貴重なものだ。他の日本人には誰にもないものだ。

 薩摩君は早熟な少年だった。15歳の時、『女臭』と題する3百枚の小説を書いて、当時崇拝していた水上滝太郎に見せに行ったという。男道の同性愛が主題だったという。女臭という題名は稚児の体臭に由来していたという。水上滝太郎は一読の後、薩摩君の早熟ぶりに驚いて、<君がせめて25歳になっていたらいざ知らず、現在これをどこに発表しても、誰あってこれを君の作だと信じる者はあるまい。>と言ってかえしたという。薩摩君は信頼し切っていた師ともあおぐ人の言を聞いて、その原稿を焼き棄ててしまったという。惜しいことをしたものだ。水上氏は知っていたであろうか、この時ともすれば、自分が日本に生れたレーモンラディゲを、二葉の時に嫡みすててしまったかも知れないと。

 薩摩君はその後小説の筆を折って、短歌と詩を作った。堀口大學の歌集『パンの笛』と詩集『月光のピエロ』の影響だと本人は言っている。兎に角非常な<大學ファン>だったことは事実だ。薩摩君の歌集『銀糸集』と詩集『白銀の騎士』はこの傾倒の今に残る形見草だ。『銀糸集』の寄贈を受けられた与謝野晶子先生は長文の礼状をよせて、<大学(ママ)は子のように思っている自分の歌の弟子だから、今後あなたを孫と思いましょう。勉強して下さい。>とおっしゃったという。

 薩摩君の一生には絶えず夢があった。大きな夢が何時もあった。事業の夢、政治の夢、外交の夢、芸術の夢。夢はその時々によってちがった、同じではなかった。ただ一つ同じだったのは何時もそれが金を使う夢だった点だ、事業の夢も、政治の夢も、外交の夢も、芸術の夢も。

 夢よ、薩摩君の夢よ、いつまでもまどかなれ。

             1955年8月4日未明 葉山森戸川のほとりにて記す

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 ★ま え が き

 この小冊にもられた「半生の夢」「せ・し・ぼん」「ロマンティストの花束」の諸扁はフィクションではない。私自身の30余年の海外放浪の体験記だ。

 私は今日でも、人間にはあらゆることが可能であるという夢を持ちつづけている。私かパリで税閲吏ルッソーの描いた旧城壁の荒廃地を世界無比の国際平和都市と化したのもその夢の現実化の1例にすぎない。だが人間には機会という気紛れ者が必要なのだ。夢と機会が偶然交触することによって人生の蜃気楼は生れ出る。

 私の半生が20世紀の初年から半世紀間の大変転期にまたがっていたということも、この体験記を色彩と冒険で満たしたことは確かなのだ。

 とはいうものの、私がマトモな人生コースの軌道を歩いていたとしたら、こんな男にもなっていなかったろう。ところが血の気の多すぎる私は地球の涯から涯まで、さながら尻尾に火のついた猫よろしくの姿で駈け廻ってしまった。まるで蜃気楼の幻像のような人生を喰い潰してしまった痴人の告白書!

巻末に出版者が拾いだした「ムッシュ・サツマとぼく」の筆者の言葉通り、私自身にも解らない謎の人生の連鎖なのだ。

 永遠の美女の裸形を帯にして、笑ったり、泣いたりしながら、夢と現実の探究と冒険に「せ・し・ぼん」の嘆声を投げつづけて、到々浪漫的白髪の黄昏にまで漕ぎつけてしまった精神分裂症患者のたわごと。これが「せ・し・ぼ・ん」かどうかは、これも事実私自身にさえ解らない人生劇の1幕なのだ。“一巻の終わり”と結ぶには、まだまだ私の瞳底にはあまりに見果てぬ夢が多すぎる。私の人生はいまだに未完成交響楽の1章に過ぎない。

 千年も古りしわれかと疑れるどころではない。まだまだ私には人生が喰いたりぬ。「せ・し・ぼん」の人生劇がだ。

             1955年8月  薩 摩 治郎八

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 以下、本文引用。

 
●わが半生の夢  半生の夢

「治郎チャン、君は何になる、大きな商船掻き集め・・・」

 私の幼年時代、母方杉村家の大庭園の大池でボートを漕ぎながら、当時、高商の学生だった叔父が勇壮な声で唄ったのをいまだに憶えている。隅田川と神田川の交流点にある、1万数千坪の旧大名屋敷のこの大池には、東京湾の満潮に乗って無数の魚が流れこんで来たが、私はこの水のうえで、幼い子供心に大海に浮んだ大汽船を夢想し、想いを世界にはせたものである。というのも日頃、明治実業界毛織物工業の創始者であった母方の祖父と綿業王と称された父方の祖父の英姿に親しんでいた私にとって、この世界はあらゆる冒険と英雄的行為に満ちた楽土であったからである。

 駿河台の自邸は、1町あまりもある石垣に囲まれた大名門のある大邸宅で、老木鬱蒼と茂り夜番の老爺は未だチョン髷の所有者だった。庭内の稲荷山には大きな狸が巣を喰っていて、暗夜女中部屋の鉄格子の窓から大入道に化けて出現し、女中達の悲鳴に、老執事までが腰を抜かすといったような浪漫的な雰囲気の中で、私は「坊っちゃん」としてあらゆる我儘と勝手な空想を恣にして育った。

 こんな旧時代的空気がまだいぶっている一方、時は、明治初年期である。東京から横浜大阪にかけて外国商館と盛大な取引をしていた祖父は、進歩的な事業家で、当時東西の事業界を風靡した所謂近江商人の第1人者であった。日本で最初に避雷針を屋上に設置したり、ゴム輪の人力車を最初に用いたり、自邸の西洋館披露式には海軍音楽隊を招いて、在留外人知名の士と共にワルツを舞うといったような半面を持った明治型の紳商であった。

 封建的と自由進歩的な思想が交錯して出来上った家庭で、朝は祖母の膝に抱かれ、人力東で上野東照宮や不忍池の弁天堂に詣り、帰邸すると、巌谷小波の「世界お伽噺」を女中に朗読させるのが、幼い私の慣わしであった。そして「治郎チャン、君は何になる」に異国への思慕やるかたなく、小さな胸を躍らせたものだが「商船主なんかになるより、いっそヴェニスの大運河に浮んだような豪華なフレガートに乗って、世界一の美姫と一緒に神秘な月夜の航海がしてみたい」と秘かに願ったものである。

 既に私の詩人的性格と理想美に憧れる精神的要求が無心の内に芽生えていたと云えよう。

 この幼年期の東京に残した唯一の私の足跡を、嘗って上野不忍池弁天堂を訪れた人は、堂前に立っている1地蔵に見出されたことであろう。というのは「3歳の1児童、此の像の首の欠け居るを慨き、首を新刻せしめて奉献す云々」とある。此の3歳の児童が即ち、当時祖母に手を引かれて参詣し、地蔵の首無しを慨(嘆)いた私であったからである。

 幼稚園を経て九段下・精華学校の小学部に進んだ。もちろん男女共学で、子供の世界にも既に恋愛的感情の交錯があり、ものの哀れを知ったのは実に小学3年生位の頃からであった。その頃祖父が他界した。その葬儀には、各国の知人から送られた花環が邸一杯になった。花環にはそれぞれ送り主の名を書いたリボンが結びつけてあったが、それらの外国人の名はおそらく百を越していたと思う。外国から送られた友情のシンボルである花々の美しさは、私の子供心に深い印象を残した。その後父の時代になると、商業的空気は家庭から一掃されて了った。庭園の1隅には熱帯植物と美麗豊艶な蘭花植物の温室が英国風な花壇を前にして出現した。そしてこれを預る若い園丁は、西洋草花類の栽培研究のために英国渡航を夢想している青年だった。又、906番号の自動車を購入すると共に邸に入って来た運転手は、立派な技術家的手腕を持ち乍ら、あたら酒のために運転手に堕ちたという変り者であった。彼の浪花節の薩摩琵琶をよく聴かされた。蘭の花と洋書に凝った父は、日本古美術に関心をもっていたが、それやこれやで家庭の話題は芸術的なことに花が咲くほうが多かった。

 中学に進んでからの読物は「平家物語」「源氏物語」「ポールとヴィルジニー」「レ・ミゼラブル」などで、ワーズワースやシェレー等を読み出す頃になると、1も2もなく英国に行きたくなってしまった。

 その頃激烈な顔面神経痛に悩まされた私は休学して大磯の別荘に移って養生することになり、殺風景な中学校通学を自然解消してしまった。そして、英国渡航を理由に、毎日その準備と称して、田園生活と外人との交遊を楽しんだものである。大磯の家は、伊藤博文公が母堂のために建てた流水園清琴亭なる家を父が譲り受けたもので、私の少年期の前半がこの地で終る頃には、第一次欧州大戦も終った。それと同時に私の年来の憧憬は実を結んで、私は英国と巴里をさして故国に別離した。

 郵船会社欧州航路船・北野丸に乗ったこの浪漫的な少年は、マルセーユに着き、そこから英国に向った。ロンドンに着いたのは、折から霧深いクリスマス前夜であった。カーロス広場にあるコンノート・ホテルに数日宿泊しているうちに、洋服が仕上がり、黒の山高帽に金の把手の洋傘といった純英国型貴公子姿で、ハンプシャーのホイットチャーチというところで私を待っていてくれたハービー老牧師邸にたどり着いた。

 銀柳の多い牧場の朝霧を透して、談い太陽がもれる冬の片田舎の風景は、恰もコンステーブルの画中で呼吸しているようであった。が、生活そのものをいうなら、この老牧師邸の朝夕は、多感な少年の私にとっては余りに単調なもので、窮屈で暗い牧師邸の生活には到頭辛抱し切れず、体よくここがら逃れることを企んた結果、ロンドン日英協会副総裁アーサー・デーオージー老の紹介で、ロンドン郊外、リッチモンドのノックス博士邸に落着くことになった。博士は米国の大学で殆ど半生を教授生活で過した人であるが、その人が私に対する忠告は、先ず仏蘭西語を習得せよということであった。仏蘭西と聞けば、これぞわが憧憬の地の事ゆえ、早速一英老婦人に就いて始めたが、爾来30年に亘る巴里生活を経た今日にあって、なお私の仏蘭西語が未だに英国風のアクセントから抜けきらぬのは実にこの老婦人のレッスンが崇って了ったものである。少年期の耳の影響は全く驚くべきものがある。

 故国の両親には大学で法律経済を研究していると云って安心させ、その実私は専ら希朧(ギリシャ)文学と演劇、ことに当時欧州を風靡したデアギリフの露西亜舞踊に熱中した。タマール・カラサビナは私の偶像で、パラデアムの楽屋では同夫人の大理石の如き手に接吻するまでの熱狂ぶり、昼は大英博物館の希朧彫刻見物、特にタナグラ人形室が私の世界であり、夜は露西亜舞踊に浮身をやつした。これを知ったノックス博士は「汝芸術より他には立身の途無がるべし。」と嘆息した。

 テームズ河を見渡したリッチモンド公園に近いオンスロー街29番のノックス博士邸の「東洋の貴公子」だった私には、未だ現実的恋愛は無かった。けれども倫敦(ロンドン)のミュージック・ホールであるエンパイヤー劇場の舞台で見染めた美しい舞姫で、小歌劇の歌手ミス・ハミルトンの流し目に、小さな胸を焼いたのが抑々私がこの種の女性に対する感情の最初のものであったろう。

“my life and love” 私の半生にはいかなる瞬間に於ても永遠の女性が見守っていて、所謂レディースマンとしての人生の客観者でなく、自ら人生劇の1役者として終始してしまった、わが半生の「人間的なあまりに人間的な」性格は、少年期から青春期に益々濃厚になって行った。

 だがその頃の私には未だハッキリとした恋愛はなく、有るのはただ憧憬であり、ボティチェリのそれの如き幽婉華麗な世界の夢があるのみであった。富裕な家庭に育ち、洗練の極致をのみを求める両親の影響が、そのころの私を希朧神話的女性美の探究に導いたのは当然の結果であったろう。法制経済の教科書はいつしか忘れられて了い、それに代ったのが華麗な18世紀の版画で、フラゴナアル・モロールジョン等の筆になる幾枚かの風俗画であった。なまめかしく上品な侯爵夫人を豪華な寝室で半裸形にして見せたそれらの風俗画は、神秘的な微笑をたたえる希朧タナグラ人形と並んで、私の小部屋のマントルピースを飾ったものである。

 これを要するに美の探究、これが私の一生の、そして、唯一の仕事であり、現世を美の楽土として生活する私の信条であった。私には凡ゆる女性の微笑が、恋人のそれに思われた。倫敦の劇場は私にとっては美の作業場と化した思いがあった。そしてこのような日々の間に、私はやがて多数の知己親友を英国の若い芸術界に得る機会を得た。父のために需(もと)めたデムラー(ダイムラー)の自動車は、わが家の定紋である揚げ羽蝶を金色で刺繍した制帽をかぶった英国人の運転士によって、当時の 「東洋の貴公子」をボンド・ストリートの美術店に運んだもので、ここで英国の貴族社会の淑女等とも知り合う機会が生れ、自然私は所謂英国型流行紳士の仲間へと導かれて行ったのであった。

 若し当時の私に美麗な英国の貴族富豪の娘でも出来ていたら、恐らく私の一生は平和幸福な古城の中で夢の如く過ぎてしまったであろう。★だが私の胸の底には、自由を要求する仏蘭西的生活への憧憬が潜んでいたと同時に、少年期の読書から培われたトルストイや、新しき村が主張した人類的理想への憧憬の芽がいつしか育っていたのである。時あたかもジュネーブの国際連盟に全人類の平和への熱望が集中されていたころで、このような国際情勢下に青春を生きた私に、ユートピアン的な高い理想と美の探究とが両立して心を占めたことに何の不思議もなかったと云えよう。

 私はしばしば仏蘭西に渡った。そしてピサロの画に親しんだり、ヴァン・ゴッホの平民的・美術修道者的な風格を懐かしんだものだが、このようなことがその頃の私の性格に与えた影響は非常に大きく、私は南デボンシャーのトーキー海岸で英国の貴公子的享楽生活にピリオドを打ち、やがて巴里に移った。
 私が巴里の土をふんだのはあたかも春の初めのことで、ミカレームの祭日であった。グラン・ブルヴァールを花車をひいた群衆が盛装の「マドモアゼル巴里」を乗せた車を取り巻いてお祭り騒ぎをしていた光景を、当時巴里に滞在していた巴里育ちの一条公爵夫人に同伴して見物し、夜はモンマルトルの歓楽場の盛り場にあったキャバレーで裸体女の活人画を見たのを記憶している。

 当時の巴里には前田侯爵夫妻、一条公爵夫妻等が華やかな交際社会に出入しておられ、帝国大使館には石井子爵を筆頭に、若手外交官としては芦田(前首相)夫妻や沢田節蔵氏等が活躍しておられた。特に当時芦田書記官夫人は巴里社交界でも最も美麗優雅な日本女性の代表の評判が高かった。然し、いずれにしてもこのような空気の巴里の社交気分は私にとってあまりに派手すぎたので、私は間もなくパッシーの片隅に日本人との交際をさけた生活をはじめ、音楽会、演劇、美術展覧会のみに足を運び、かたわら巴里女をモデルにして彫刻をやったりして暮した。1920年の頃で、今にして思えば、まことに文字どおり、国にも人にも★黄金時代であった。
 (ブロガー註: 大正デモクラシー 成金時代 大戦間のヨーロッパ主にパリの思想界については、
 ①・『日本の百年』 5・6ーちくま学芸文庫 
 ②・櫻井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』 以下の三部作ー平凡新書を。)
 
 音楽批評家の★岩崎雅通氏は私の交際していた唯一の日本人であった・又天才的バイオリニストと謳われた古典趣味の林龍作氏を紹介されたのもこの頃であった。当時自分にとって最も深い印象を与えた邦人芸術家は、漸く売り出した★藤田嗣治である。英国流のエチケットの抜け切れなかったその頃の私には、藤田の異彩あるポエム趣味の容貌は近づき難かったが、或る日マドレン広場のベルネーム画廊で、氏のうしろ向の裸婦図を見てからは、氏に心を惹かれ、ついにモンパルナス、ドランブル街の画室の戸をたたいた。其頃の藤田青年はフェルナンド・バレー夫人に失恋していたが、巴里画壇の新進として売りだしたばかりの頃であった。藤田は私を大変歓迎してくれ、従弟だと称してモンパルナスの芸術家達に紹介してくれたが、モンパルナスの画家やモデル達は私のような英国風な風采の者には、むしろ冷淡だった。私を友人として、その画室の扉を快く開いてくれたのは海老原喜之助氏ぐらいのものだった。彼は当時古ぼけた服に山高帽子、ピカソ気取りの真黒な毛をバサバサさせてロトンド・ドームの令嬢風なモデル女に鹿児島人的熱情を捧げている様子だった。私の巴里生活から、イザドラ・ダンカンの舞踊レシタルに感激して日本の雑誌に紹介したのもその頃のこと。又バイオリニストのジャルヂュ・エネスコの神技・・・あの古い黄金の噴水盤を思わせるような幽美な音色に心酔して巴里オペラ劇場に毎夜日参したのもその頃の生活の1面であった。

 華やかな22年、23年は夢のように過ぎ去って、1924年4月の忘れもせぬ15日、巴里社交界の花形P夫人の茶宴で青年期の★最初の恋人に邂逅した。春雨が煙るエトワールに近いP夫人のサロンで初めて会った彼女は、雨宿りを口実に、玄関口で私の帰りを待っていた。当時売り出しのマリー・ローランサンの理想的なモデルとして描かれた美人で、彼女を通して私はロンサールを知り、ルイズ・ラベを愛誦した。そしてヴェルサイユ宮殿の奥深い庭園は我々2人のランデブーの場所となった。ということは、彼女との交際はやがて恋愛に変って行ったことを意味する。かのアンリー・ド・レニエのうたったヴェルサイユの庭は夕闇に包まれていた。「若し今夜薔薇の香をかぎながら貴女に私の胸を打ちあけたならば・・・」の古池のあたりの夕霧の中に私たちはいつまでも立ちつくした。宛ら18世紀の王朝時代の絵に描かれた歓びをそのままに、夜の帳りの下りるのも忘れていた。いつか大庭園の扉も閉じられて2人はようよう月光にすかして裏木戸をたずねあて、影のように忍び出る。待ちくたびれて眠ってしまった運転手を揺りおこし、それからモンマルトルの丘上のチルトル広場の辻奥に住む1老詩人の家に立ちよりギターの爪弾きで彼が静かに唄う古歌に我等が恋の情緒を味到したものである。

 その頃、巴里流行界を風靡した衣裳創作家ポール・ポアレの店で催された「印度夜会」に彼女と招待を受けたことがある。私は印度の服を着、リュー・ド・ラッパのベルリオーズ宝石店提供のダイヤ、ルビー、エメラルド等をちりばめたチュルバンを輝かし、彼女は半裸体の印度の舞姫に扮した。列席客は印度王族カプタラ殿下をはじめ、パリ社交界の美男美女たちをすぐったが、その中で当時人気の頂点にあったオペラ女優ジェネヴィブ・ヴィクスと私の彼女とは2つの星のように輝いて、某ラジャーから結婚の申込みを受けるという騒ぎまであった。

 私はまたこの頃、巴里作曲界の秀星モーリス・ドラージュの家でモーリス・ラヴェル、フローラン・シュミット、ダリウス・ミローなど所謂巴里6人組を中心にした作曲家の仲間に入れてもらって彼等と度々会合する機会を持った。モーリス・ドラージュは1913年印度や日本を巡遊して有名な「印度詩曲」を作曲、これを以て欧州楽壇にその鬼才を謳われていた名人肌の作曲家である。彼はクロード・ドビュッシーに愛され、又ラヴェルやストラヴィンスキーの無二の親友で、当時の彼の家は欧州楽界巨星の集会所の観があった。そして、若年の私がラヴェルを始めこのような楽壇の巨星たちと親しくなった経緯も、話せば限りなくあるが、しばらく措くことにして、さて話を戻そう。幸福だった彼女との交際も、私の欧州滞在期間が終りに近づくと共に当然別離の日が来るべきで、南仏イェールで最後の夜を明かした。それから私は仏蘭西政府から仏蘭西近代音楽紹介の使命を託されて、青春の巴里をあとに★帰国の途についた。1924年12月13日であった。

 大震災の後の東京に戻った私には、すべてが殺風景で、焼跡に巴里風のvilla mon caprice を建ててみたとは云え、自分の嗜好を満足させるようなものは僅かに大川端の茶亭の小座敷と伝統的な角力(相撲)のみで、たまに能楽や六代目出演の世話物狂言ぐらいが、旧江戸時代の歌麿、栄川、国貞等の幻の世界を展開してくれる位であった。

 巴里と別れた私は、せめては生粋の日本人になりきって、日本伝統美の世界に生きたいと願い洋服を捨て、和服、白足袋、角帯とこの特種な世界の雰囲気に調和するよう全くの江戸の町家の若旦那になりすまし、柳橋、浜町あたり旧大江戸の面影を追い求め、雪の朝の置き炬燵(こたつ)、夏の涼みは向島と、屋形舟仕立てて、凝りに凝った遊び方をした。然し江戸の粋筋を夢想していた私にはすべてが幻滅で、江戸の小唄を話せるような女からして既に皆無、めまぐるしく変る時代と共に亡びる江戸文化の名残をさえ探し当てることは容易ではなかった。ただ雪の晩の浜町河岸とカラリと明けた翌朝、えもん竹にかかった女のなまめかしい襦袢を、せめて大江戸の名残と眺めたその頃の感傷が今も記憶に残っている。

 角力に対して関心を寄せるのも、私の懐古趣味のあらわれであろうか。兎に角、私は当時体重が25貫余(90キロあまり)あった。謂わば角力そこのけ、三段目の小力士幡瀬川を発見して、徳川家達公に推薦し、将来の関脇と極め付けたが、果して幡瀬川は神技妙術を会得して一代の名力士となったことは、まだ人の記憶に残っていることだろう。いずれにしても、こんな風に懐古的な趣味の世界に入り込んでしまった私に、何の干渉をするでもなく、趣味は趣味として許してくれていた私の家庭は、あくまでも自由と個性を尊重しようとする芸術家肌の父の大きな抱擁力に支えられていたと云うべきであろう。

 さて、仏政府の委嘱と巴里の友人たちの期待をあつめた本邦に於ける欧州近代音楽紹介事業は有名なラヴェル作曲演奏家のピアニスト、アンリ・ジルマルシェックス招致によって実現された。これ又理解ある父の財政的援助に俟つ(まつ)所が多く、私が執筆出版した解説書は、当時にしては豪華版であり、帝国ホテル演芸場に於ける6回の演奏後、皇后陛下(大正)の御前演奏を仰せつかったことは、主催者の私にも、仏蘭西政府にも光栄であった。と同時に★徳川頼貞侯、稲畑勝太郎氏等が特に協力を借まれなかった事は忘れ得ぬことである。とにかく当時の独逸古典、浪漫派作品のみしか入っていなかったわが楽壇に、ラヴェル、ストラヴィンスキーの洋琴テクニックを紹介することは原爆投下的計画であったので、この文化交換を念願する私の事業が、当時の若い日本楽壇に与えた刺戟と感銘は、いつぞや犬養健氏に会った際、同氏から「未だに思い出す」と語られたことからでも御想像願えよう。この事業も一段落付くと、その後更に一つの大事業が託された。と云うのは帝国政府が駐仏大使によって調印した★巴里大学都市日本会館建設の実現策が私に相談されたことを指すので、この案を持って来たのは、元西園寺公望公秘書・★松岡新一郎で、外務省側は★広田弘毅氏(当時欧米局長)であった。私は直ちに牧野伸顕伯の意見を求めに行ったところ、大賛成である。西園寺老公また大賛成、大いに鞭撻された。牧野伯からは特に★佐分利公使(当時参事官)と合議の上事業を進めたがよかろうと親切な忠告まで受けた。いまだ25歳の私に、このような本邦最初の計画である国際的大文化事業の責任を委託された光栄は多とするが、さて資金調達には当時の日本では手も足も出ず、渋沢栄一子爵に相談の結果、我々父子が私力にて御引受けする事となってしまった。

 巴里の自由な生活に浸って、芸術家気分で暮して居た私には、わずかに伝統的な花柳界の朝夕のみが東京に対する唯一の執着であったから、結婚問題は、私にとっては青春の墳墓としか考えられず、社会的習慣から独身者の自由を結婚によって失ってしまうことは私には耐えられなかった。だからそのような話は聞き流しておったものの、巴里へ再渡航のことが決ると、この問題をウヤムヤにするわけにはいかないことになった。その結果、伯爵山田英夫の娘★千代子と婚約を結ぶこととなり、かくて千代子はマダム・薩摩として同行し、巴里生活を共にすることになった。

  巴里大学都市日本会館寄附行為は、同市総裁である前文部大臣で、夏期時間の発案者であるオノラ上院議員に依り、巴里大学総長の名によって受諾され、私は宮腰千葉太書記官同道、オノラ氏を訪問することになった。そしてこの会見は爾来30年に亘る同氏との親交の出発点になった。

 日本会館は薩摩財団の名により、文豪ヴィクトリアン・サルドゥの長男ピエール・サルドゥ技師によって設計された。外部は日本の城の面影を伝えた建築物で、定礎式には当時外遊中で、おりから巴里に居られた李王殿下夫妻の御台臨の栄を得、邦人側からは河合代理大使、宮腰書記官が、又フランス側からは仏大統領代理としてオノラ総裁以下関係者一同が列席して盛大に挙行された。当時文部大臣で、後首相になった仏蘭西政界の巨頭エドワード・エリオ氏の祝辞の後、私は巴里大学都市の国際的平和事業に対し、日本を代表して挨拶した。そして定礎の儀は先ず李王殿下の手で行われたのである。これは1920年10月12日のことで、欧米各国はプレス・ニュース・映画等で、日本の文化的国際連盟である巴里大学都市加入を伝えた。

 花の巴里、ことに世界的好景気に恵まれていたその頃の巴里生活の華美だったことは追憶するだに夢の如き感がある。私が妻に造ってやった特製の自動車は、純銀の車体に淡紫の塗りで、運転手の制服は銀ねずみに純金の定紋、妻の衣服はリュー・ド・ラペのミランド製の淡紫に銀色のビロードのタイニールであった。これでカンヌの自動車エレガンス・コンクールに出場し、瑞典(スエーデン)王室その他の車と競って、特別大賞を獲得した。こんなことで日本のために気を吐いたのも、こんな時代であったからこそ出来た話である。あの時のマダム・サツマの自動車はマリー・アントワネットの儀装馬車以来だったという冗談がいまだに伝わっているのも、今は昔の夢である。こんな私の生活ぶりは贅沢だ、虚栄だと世間からは指弾されるであろうが、私としては生活と美を一致させようとした一種の芸術的創造であると考えていた。シャンゼリゼやボア・ド・ブローニュで、この芸術品は人目を驚嘆させ、巴里エレガンスの先端をゆくものだと新聞雑誌にも云われたものである。人生まさに28歳、冬は南仏カンヌのホテル・マヂェスチック、夏はドービルのホテル・ノルマンディーと王者も及ばぬ豪華な生活をしたが、それをそしる者はそしれである。仏蘭西で俗に云う noblesse oblige で、その間に自分の得た国際的知己交友の尊さを思い併せて、私には悔ゆるところは少しもなかったのである。

 だがその頃から私の脳裡には、あらゆる物質的虚栄の世界から逃れ出そうとする願望が高まって来たが、そのような心境は、私の矛盾する性格の均衡が破れるところによるものらしく、その結果、私はこのような生活雰囲気から逃れようとして、モンマルトルの丘上サックレクールの辺りに隠れ家を求めたり、下町ドービニー衡のギャルソエールに cinga asept のランデブーを求めたりした。妻は妻で絵を描く楽しみを覚え、ピエール・ラプラードの教えを受けた。藤田やヴァン・ドングンと云ったような芸術家とも友人となりモンパルナス街のアトリエに立籠もって、夜はミュージック・ホールの舞台裏の生活をスケッチしたりしていた。私はラヴェルやその他の友だちとグランドエカールの一隅で夜を明したりして、詩人レオン・ポールとかファルグ等と知り合ったのもこの頃であった。我々の結婚生活は所R Mariage parisien で非常に自由に、そして趣味を尊重し合った。妻はその好む友人の群を持ち、私は私で音楽家、外交官、政治家、詩人等の友人の群の中で暮らすといった按配であった。このような結婚生活だったからこそ、我々夫婦は各自の個性を伸張し得られたので、妻はサロン・デ・チュイレリーに作品を出品し、高野二三男夫妻や藤田や、又当時巴里一の美人女優として麗名を謳われていたエドモンド・ギー等と交際していた。

1928年にはスペイン国境のビアリッツに行って、その昔ナポレオン3世皇后ニーチェニーのために造った離宮、ホテル・ド・バレーで暮した。ビアリッツの季節の終り頃、伊太利(イタリ)のメヂチ侯爵がエドモンド・ギー同伴で訪ねてくれたことがある。メヂチ家は人も知る伊太利の名家で、現侯爵は女優ギー嬢のパトロンであった。そして当時流行の「バラス」と云うミュージック・ホールで、彼女のために「巴里美女=ボーテドパリ」という豪華なレビューを上演させていた通人だ。

 ところで、エドモンドのことだが、彼女は巴里一の美人の噂をもった女だった。第一次欧州大戦の際、★マタ・ハリ事件で騒がれた仏政府の怪星マルビー夫人となり、自分とは30年未だに交際を続けている。今次大戦では、独軍占頷下の巴里で、有名なフォリ・ベルジェールに出演し、その比類無き美貌をもって独人の眼光を征服していた。ある舞台が第2帝政時代の1場面になると、彼女はマビル舞踊場の有名な舞姫リゴルボッシュに扮装して、とろけるばかりの微笑を投げ乍ら云うのであった。★「リゴルボッシュ、リゴルボッシュ、お前はいつまでもふざけていられまい」と。ボッシュとは仏蘭西で独逸人をさげすんで呼ぶ呼称であり、「リゴル」とは仏蘭西語で「ふざける」の意味なので、その台詞はとりようによっては、「ふざける独逸の方々、ふざける独逸の方々、でも、いつまでもふざけてばかりはいられまい」と聞える実にきわどいレジスタンスのあてつけなのである。これを毎晩、何千人かの独軍将兵の鼻先でさりげなく唄い続けた彼女の度胸は全く英雄的で、柔よく豪を征するどころの騒ぎではなかったのである。

 だが、威る夜1人の将校がこの唄を聞くや、憤然として席を蹴って退場してしまった。果してこの反抗的な唄の文句が解って、憤慨したものかどうかは解らないが、私が楽屋に彼女を訪ねた時、彼女はその夜の無気味さを真剣に語った。当時彼女は全く命がけだったのだ。私は彼女に、
 「なあに、そんな洒落が解るくらいだったら今頃巴里くんだりでボヤボヤしちゃあいないよ、貴女の微笑はフランスの庭園でなくては咲かない花だ、フランスが貴女のような美人を生か限りは最後の勝利は疑い無しさ。」

 そう言って私たちは戦争下で貴重品中の貴重品であったシャンパンをぬいて、彼女の英雄的行為を祝福したのだった。

  さて話はエドモンドのことから、うっかり20年飛んで了ったが、1928年のビアリッツ時代に戻って、確かにその年のことだった。白耳義(ベルギー)のルーヴァン大学の五百年祭を記念に、同大に日本文化講座を設立したいという安達峰太郎大使の切望があった。安達大使は第一次欧州大戦中、白耳義皇帝に従って運命を共にされた名外交官で、ブリュッセルの名誉市民であり、その名声は同国内を風靡していたものである。講座設立の白羽の矢は私に立って、微力乍ら小財団を設立することに決心して、5百年祭に参列した。日本からは大学代表として、土方寧博士が参列することになり、安達大使一行と共にルーヴァンに乗込んだ。各国大学代表者達は教授ガウンや燕尾服に勲章をキラキラ輝かせていたが、土方老教授は紅1点とでも申してよかろう、羊羹色の服は燕尾服といわんよりカナリヤの尾位のおそろしく尾の短い御盛装で、真黒な顔に例の白髪、日本代表というよりはハイチ島大統領とでも申し上げた方が応しい恰好で代表者席に納まられた。一方安達大使は壇上白耳義両陛下の側近にあって、大礼服の重々しい金ピカの胸にズラリと勲章をつけている。その数は大したもので、あの小さな体にこの重さ、よくまああの壇上まで這い上がったものと私は後方の招待席から感心していた。そういう私も燕尾服で、前日ブリュッセルの夜宴で、皇帝から拝受した王冠勲章をブラ下げ、形勢如何と見ていた。祝辞呈上式は歴史の古い大学代表順に、壇上に呼び上げられることになっていて、順序からいえば先ず伊太利のボローニア大学、英国のオックスフォード大学、巴里大学というわけであった。ところが、これは如何に、土方博士は、耳が悪いせいもあってか、それとも5大強国の代表の1人とでも考えたのか、ノソリノソリと壇上に向って歩き出した。安達大使の目くばせをしり目にかけて、祝辞の巻物をルーヴァン大学総長、カトリック教大司教に手渡し、指輪に接吻どころか握手で指輪を握りつぶさんばかりの挨拶である。大僧正の大まごつきも何のその、安達大使は苦り切っている。この光景を微笑を浮べて眺めておられた両陛下に老博士は最敬礼をした。そこまではよかったが、さて日本式作法にしたがってモソモソと後ずさりして、陛下の前を退ったトタン、おっと云う開も無く壇上からスッテンコロリン、壇下最前列に頑張っていた白耳義の総理大臣の頭上めがけて墜落皇后はキャッとびっくり思わず立ち上がられるといった騒動である。土方博士は如何と見れば、にっこりとして起き上り、再び壇上に向って最敬礼の後悠然と自席に引上げてしまった。だが納まらないのは安達大使である。その夜大使邸の晩餐会の後で、

 「上方さん、今朝の始末は何事ですか。小生半世の外交官生活中こんな恥ずかしい思いをした例はありませんぞ。」
 とネジこんだが、土方老人は愛好の葉巻をくゆらせ乍ら

「安達君、だが僕は日本の礼法を尽して不幸墜落しだのだから、心中何一つ恥ずる点は無いよ。君など僕の弟子ではなかったかね-」
 との挨拶。それから私の方に向いて、
 「ネー、薩摩君、僕はこの年になっても、ちゃんと昔鍛えた角力の腰だ。角力の方ならまだ君と四つに組んで土俵から落ちても勝味はあるよ。」と大気焔であった。

 この白耳義(ベルギー)天覧角力は先生も終生忘れられなかったと見え、後年国技館でお目にかかる毎に、「どうだね、薩摩君。僕の腰のネバリは確かなものだったろう。」
と、自慢だか申し訳だかハッキリせぬことを仰有っていた。その博士が後年満洲国視察上院議員団に加入され、その時私の義父・山田英夫伯と船室を同じくされたが、腹のネバリが切れたのやら、急死されてしまった。

 珍談といえば後年李王殿下御夫妻が巴里御来遊の折、時恰かも天長の祝日にあたり、大使官邸で大夜会を催したことがある。安達大使の時代のことで、その晩の話だが、藤田嗣治が、折角招待を受け乍ら、夜会に着て行く燕尾服の持ち合わせが無く、私のところに泣きついて来た。

 「藤田君、だが、今晩は勲章も付けるんだよ。」と云うと

「僕だって仏蘭西の勲章と白耳義勲章ぐらい持ってるからね。」との話。
 
「だがね、そいつを腹の上に付けるんだよ、解ったかね。」

 と冗談を云って、燕尾服を貸したまではよかったが、さてその夜藤田画伯の服装を見ると、彼は本当に堂々と腹の上に2つ勲章をブラ下げているのである。流石の私も冷水3斗の思いをしたが押すな押すなの人ごみで、その勲章の1つが仏国大使ジュブネル夫人のきらびやかな夜会服のこれまたお腹の上に乗り替えたという騒ぎが持ちあがったのは文字通り珍談であった。まことに大平無事な世の申であったものである。

 杵屋佐吉夫妻が巴里に来たのもその頃である。私に是非仏蘭西楽壇の巨匠達に1曲聞かせる機会をつくってくれとの話であるので早速ラヴェル、ドラーヂュ等と相談して、洋琴家ジルマルシェックスの家で佐吉夫妻歓迎宴を開くことにした。そして友人達を動員、クロニッカーのミッシェル、ジョルジュ・ミッシェルを幇間(たいこもち)役に引っぱり出した。金屏風を立て廻し、赤毛布を敷いた上で、佐吉君がペンペンやった。ラヴェルとドラージュも大喜びだった。まあ、それはそれでよかったのだが、佐吉君御信心のコンコン様を日本から御同伴して、ホテルのマントルピースの上に恭々しく祀り、朝夕拍手を打ち両手を合わせて御礼拝を欠かさないのだった。ところが和服旅行の佐吉夫人の腰巻をどうとりちがえたか、ホテルの使用人がその祭壇に飾りつけてしまった。外出から帰って来てこれを見て腰をぬかしたというのであるが、そのケリを佐吉夫妻がどうつけたかは知らないが、珍談として当時の在巴里人の話題を賑わしたことであった。

 珍談奇談を他人にだけ求めることが卑怯なら、私は自分のことを語らなければなるまい。其頃の数ある私の女友達の1人で「トウトウクス」と仇名されていたM大将の令嬢が、こともあろうに女だてらに博徒で1季節に9百万法(フラン)の遺産をすってしまい、ジョルジュ・ミッシェルの「豪華狂女」の材料になったばかりでなく、終にはカジノ大食堂で裸踊りをやって、生活の資を稼ぐと云う運命におちてしまった。彼女は熱狂的な拳闘のファンで、よく巴里のセントラルに現われたのだが、これは巴里の下町のサンドニー街にある、三流どころのボクサーがひしめきあっているポピュラーな拳闘場で、ここのリングでたたかれてはじめて1人前の拳闘家が生れるといった稽古場で、プロフェッショナルな八百長の大試合とは、また異なった物凄い真の乱闘が見られるところであった。私はトウトウクス嬢と一緒に度々ここに見物に行って、未来のデンプシーやカルパンチェを夢見るフンドシかつぎ達の大奮戦に力瘤を入れたものだ。負けても勝っても賞金は分割という仕組で、当時の金で百法・5百法(フラン)というところであったが、ここを応援する意味で巴里女素人の拳闘が生れると、その開会式には是非にとの挨拶よろしく、招待された。私は燕尾服で出席したが、お祝いのシャンパン酒の廻りが早過ぎて、誰が提議したのか「では男女対抗試合を余興に1勝負」ということになって、引っぱり出されてしまった。私は角力で鍛えた自信があるので、腐っても鯛だ、衰えたりと雖も、3枚目幡瀬川関ぐらいの神技はまだあるものとスッパリ飛び出したのが運のつきであった。相手をするトウトウクス女選手はこの時ぞとばかり、海水着1枚で登場し、ゴーンとゴングが鴫るや否や、海水着の曲線美にふと見惚れていた私の鼻先にアッパーカットを喰わした。「1.2.3.4.5.・・・」はっと気付いてあたりを見ると、猿また1枚でリングの真中に伸びているのは私である。「9」の1声に「何クソ」と満場の歓声を浴びて立ちあがったがブーンと再び1撃を喰わされて、私はヨツン這いになってしまった。こんな筈ではなかったがと思ったが、今更どうにもならない。しかも相手は女である。「1、2、3、4、・・9、10」私はわざとゴングの鳴るのを待ち受けて飛び上がりさま相手の両頬に降参のキッス。この珍試合は大喝采裡にケリがついた。翌日の巴里新聞の漫画は 「ムッシュ・サツマは飽く迄も武士道精神を発揮して、勝を女選手にゆずり満場大満足。盛会裡に閉会せり云々。」

さてトウトウクス嬢(本名ミッシェル嬢)はその後マルセーユのギャングに加わったとかの噂を立てられていたが、真偽のほどは兎も角として今次大戦では女将校として勇ましく出征したということを耳にした。後日友人の1英人が、シャンゼリゼを潤歩している女将校姿の彼女と邂逅したとの快報をもたらしたところから察すると、満更墟ではなかったことがわかったが、それにしても拳闘修練の技が役立ったであろうことは想像に難くない。

 倫敦(ロンドン)で藤原義江に邂逅した話は、私のまだ少年時代のことで、当時を語ることは、この稿においては、既に遥か後戻りをすることになるが、思いついたままに書き誌しておこう。その頃の藤原は貧乏のどん底で、伊太利人の給仕の家に間借りしていて部屋代も払えず、ネクタイまでも質に入れてドナッテいた。日英協会のデーオージー副総裁はその声と人物に惚れて、確かサベージ・クラブで唄わせ倫敦芸能界に紹介したが、私も彼の精進一途の姿には頭の下がるものがあり、感激して、財布の底をはたいて、ウイグモア・ホールに於ける同君の第2回音楽会の費用に宛ててもらった。これが藤原君の欧州楽壇へのデビューとなった。1921年10月30日の日曜の夜8時15分開演でアイヴィ・ジェルミン嬢のヴァイオリンを添え、伴奏はマンリオ・デ・ヴェロリであった。曲目はスカラッチ、モザート、ドニゼチの古典に始まり、ストラヴィンスキーの「ツラユキ」、デヴェロリの変曲した「箱根八里」「沖の暗いのに」「桜」それから浮世絵蒐集で有名な当時日英協会名誉書記長であったセックストン中佐が訳した「梅に鶯」、更にドビュッシー、シューマン、グリーグ・デ・ヴェロリ、マスネー、ドヴォルシャーク、クライスラーとすこぶる盛り沢山で、大日本の藤原義江のデビューにはまことに適わしい曲目であった。

 今日の盛名をかち得た藤原を語るのにあたって、彼の欧州楽壇デビューを、財布の底をハタイて後援したなどの話は、或いは遠慮すべきことであるかも知れないし、且つ藤原君にとっては迷感千万だろうが、然し、私は同君の天才と大成とを堅く信じていたことを、むしろこれによって語りたかった以外他意ないのである。なおこの音楽会では波斯(ペルシャ)の王姫に恋された話があるが、これこそ同君の許可があって初めて公表さるべきであろう。

 2度ある事は3度あるのたとえで、藤原義江の次に原千恵子さんがある。これは私としては全く幸運な奇遇ともいうべきで、前記ジルマルシェックス来朝の折、東京での演奏後神戸に行ったところ、当時まだ幼かった千恵子さんがその教師であるスペイン人の洋琴家に手を引かれて訪ねて来た。そして私の前でデビュッシーを弾奏して聴かしてくれたが、私はその天才的タッチに驚嘆してしまったものである。その後有島生馬氏の後援で巴里につれて来られたが、私は仏国大使ピラ君と共に彼女を仏国政府に推薦した。勿論幸運であったとすれば、それは1にも2にも千恵子さんの天才によるものだが、それにしても今日、押しも押されもせぬ国際的芸術家になったことに、私は自分ことのような誇りを感じる。

 巴里大学都市日本会館の建築はオノラ総裁やブラネ書記長をはじめ帝国大使館員諸兄の絶大な後援により着々進行し、終に1929年5月10日、仏蘭西大統領ガストン・ドメルグ閣下の台臨を迎えて開館式を挙行する運びに至った。が、この目出度い日を待つ間に、私は2月上旬、日頃憧れの希臘へと旅立った。それに就ては後日改めて述べることにして、・・・

 さて、巴里大学都市日本会館の内部装飾のことだが、階下サロンと玄関正面の壁画は藤田嗣治に委嘱し、同君畢生の大作を得た。サロンの照明はアンリー・ナヴァールのガラス彫刻で、日本の学芸文化のシンボルを表現したものである。ナヴァールは仏豪華船イル・ド・フランスを装飾したその方の権威である。前庭は篠原と呼ぶ在留邦人庭師の設計で、家具一切はシュミツト商会を煩わして特別設計したものだ。建築費総計現在邦貨にして2億円で、キューバ会館と並んで大学都市の栄華を誇る館の1つになった。1929年5月10日、巴里南部のモンスリー公園に面した大学都市の一隅には白手袋白ゲートルと盛装した大統領ガストン・ドメルグ氏一行の車の列が日本会館の大玄関に到着すると、君が代の吹奏が始まり、つづいてマルセイエーズが奏された。安達大使と私は大統領とその一行を迎えて大サロンの貴賓室に案内した。仏政界の巨頭ポアンカレ首相、マロー文相、ドウメール上院議長、オノラ総裁、日仏協会員スワール公使、シャルレチー巴里大学総長等が一行の顔ぶれで、その他関係者一同並に各国大公使と合計約1千名の来賓があった。

 創立者の私は日本の文明の根源が、希朧文明のように神話から発生し、東西文化交換が人類の前途のため如何に有意義であるかを述べ、大学都市事業の目的は、国際的良心を涵養して、世界平和の為よりよき雰囲気を生まんとするにあると陳べた。次いでオノラ総裁、シャルレチー総長、マロー文相、スワール公使、山田三良博士の演説があった。次に安達大使が日本政府を代表して鄭重な祝辞を述べ、式後大統領とシャンパンの祝杯を挙げて、ここに私の微力によって生れた日本会館開館式を終了した。

 その夜ホテル・リツツの大食堂に於て大統領代理ヂュール・ミッシェル官房長官、文部大臣、安達大使その他内外の名士3百名を招待して大晩餐会を開いた。その席上私はオノラ総裁よりオフィシェ・ド・レヂオン・ド・ヌール勲章を仏政府から授与された。晩餐会後親友モーリス・ラヴェル、ジルマルシェックス、ピエール・サルドウ、藤田嗣治、本野子爵等をグランド・エカールに招待して小宴を開き、この記念すべき1日を終った。尚英国のダービー卿その他各国元首、名士多数から祝電を寄せられた。夜会に出席した夫人達の服装は、皆輝くばかりの流行品であった。妻はポールポアレの白黒の夜会服を新調し、それに装身具はダイヤ、エメラルドの1式を用いた。私には特にランバン男子服部の名カッターである瑞典生れのエリクソンが紺地の燕尾服を調製してくれたが、これが殆ど巴里流行界最初の紺地燕尾服であった。

 当時倫敦で代理大使をしていた佐分利公使はわざわざ開館式の翌日かけつけて来てくれた。そして明るい大サロンの照明の下で事業の完成を喜んでくれたが、私が仏国政府から貰ったレヂオン・ド・ヌール勲章の略章を見て、

 「薩摩君フランスの諺に『何人と云えども其故国に於ては予言者とは成り得ず』と言うのがあるが君の如き事業、思想が日本の社会に於て認めらるると云う日・・・いや認めねばならぬと云う日が来るのはまだまだ遠い遠い将来であると云うことを残念乍ら覚悟せねばなりませんよ。日本政府及び社会にいったい幾人君の様な高遠な理想を理解する人がいるだろう。君の偉業をねたむ人は有るだろうが、文化事業、世界平和、人類の融和幸福等の理想に関心を持ち、フランス政府の如く君の功績を世界平和の名を以て顕彰するような考えを持った人間は先ず皆無であると思わねばならぬ、君の事業は全く東洋の俗言の如く『知己を後世に埃つ』覚悟でなくては出来ない」と言った。佐分利氏とはモンマルトルのキャバレー・パレルモで深更まで語り合った。 

巴里在留の日本美術家を紹介する目的で、巴里日本芸術家協会というものを援助して成立させた。しかるに藤田嗣治を会長にしたとかなんとかから島国根性的の焼もち争いが起り、折角の私の奉仕的目的とは思いも及ばぬゴタゴタ話を耳にするようになりウンザリしてしまった。安達大使と相談して兎に角ルネッサンス画廊で展覧会を開催し、世間的には成功を収めたが、この前後の邦人美術家のあいだのゴクゴタには愛想が尽きて、私はサッパリと手を引いて、美術家団体の後援は一切断念してしまった。巴里日本芸術家協会が自然消滅になったことは云うまでもない。

 この事件から私は日本人一般が如何に国際的関心に欠け、共同的に日本の文化を海外に紹介しようとする精神に遠く、唯自己の小さな名誉とか利益とかのみに汲々としている人種であることかを沁み沁み感じた。大学都市日本会館経営でも人事関係では、この小さい島国の山猿の如き根性を持って育った連中に如何して国際的良心を涵養せしめようかと考えさせられた。このことについて、後日、西園寺老公に話したところ、

 「君の会館でも余程気をつけんとサロンに浴衣がけでスリッパーなんかつっかけて出てくる博士達で一杯になるぞ。」
 と快笑され、「礼は教えの基となる」の額を書かれ、
「この額を看板にかけて置き給え、そして無礼不心得者が出て来た場合は、口で叱言を言わず、昔巴里で育った西園寺公がこう云うことを言ったと見せてやり給え。」
との如何にも老公らしい親切な言葉をいただいた。その時から今日に至るまで、ずっと巴里大学都市日本会館の玄関に看板として懸けてある西園寺公の額は、もとをたずねると実に日本美術家の国辱的ゴタゴタから出来たもので、会館入館者の諸氏には出過ぎた老婆心かも知れぬが、これも往年巴里ヘハクを付けに出て来た将来1号1万円志願者連を記念するものである。

 さて、巴里と離別して★一時帰国する日が迫った。今日の円貨で腐っても2億円のサービスをしたとあって、大学都市本部からの口添えもあり、仏船アンドレ・ルボンの特別船室を提供し、いわば国賓待遇で日本に帰らせようと計らってくれたのは流石に文化文明国フランスである。

 印度支那西貢(サイゴン)に寄港の際は、交趾支那(コーチシナ)総督が船室まで出迎えてくれた。西貢の新聞にのった「東洋のロックフェラー云々」は2億倍程の誇張だが、まあそれ程までにフランスとフランス国民は私の貧者の1燈である国際文化事業を買ってくれたわけで、人生到る所に青山ありと大いに感激した次第だ。日本に戻ったら、口では世界平和貢献者のなんのと一時は両国の花火式に歓迎されたが、さて当時の外務、文部内省で出す筈になっていた維持費の話などは立消えになってしまい、20代の若憎のくせして国際サービスなんかは生意気だなどという手合さえ出て来るし、野郎は勲章でも欲しいんでやりやあがっただの、1種の個人宣伝だのと、評判が頗る悪いのには恐れ入って、苦笑して了った。秩父宮に拝謁した時その話を言上したら、

 「なんだ、例によって省と省の役人共が喧嘩して居るのか。」
 と、やっぱり苦笑して居られた。それが吉田茂氏、広田弘毅氏、栗山茂氏等の斡旋で漸く1930幾年かになって金1万円也の補助金が、既に10幾年前になる1921年の日付と外務大臣の名で、素町人の自分如き微々たる小僧の財布をはたいてでっち上げた日本会館に下付されたといった按配だ。

 ★翌年1930年の春再び、私は仏蘭西船にてマルセーユさして第2の故郷フランス、自分を理解してくれるフランスヘ旅立った。マルセーユに上陸すると直ちに巴里に行き、130キロのスピードで飛ぶ自動車「ブカチ」(ブカッティ)を買い求め、それに乗って再びマルセーユに戻り、1930年4月23日午後4時出帆のアマゾーン号でナポリ経由、希脛のビレーに向った。ビレー着は4月28日、翌29日は天長節だというので、雅典(アテネ)の公使館の祝賀会に列席した。

 其時の希臘旅行の目的は、デルフに於て挙行されるデルフ祭典に日希協会設立者として、日本を代表して出席したのである。フランスからはポール・ヴァレリー等が駈けつけた。

 旅行から戻って巴里に落ち付くか落ち付かぬ内に、妻が肺腺カタルで入院し、一時快方に向って、アルプス山中のメヂェーブに転地した。これが我々の結婚生活の終了の序幕で、ついに一昨年故国★富士見の別荘で最後の息を引取る迄再び健康を回復出来ずにしまった。

 ★満洲事変が起ると、私の望んでいた国際的良心などは吹飛んでしまい、日本の外交は松平恒雄等の考えとは全く異なった方向に転向して行った。親交ある某中国要人と私がジュネーブのホテル・ボーリバージュで昼餐を共にしたのを取上げて、怪しいの、けしからんのと、既に軍部に秋波を送り出したヘッポコ外交官の卵連が騒ぎ出すような世の中に急転してしまった。だが満洲事変も1片づきした頃、巴里大使館参事官をやっていた栗山茂氏が
 「どうだ君の方の総裁オノラ長老を日仏協会の総裁にしては。」
 との話である。オノラ氏は私の親分(唯一無二の親分)でもあり、その昔、日露戦争時代末松謙澄とは親交があり、日本の同情者であったことなどから考えて、満更この提案は唐突ではない。それで終に外務省の承諾を得ることが出来たが、すると今度は日本に招待して日仏親善を再検討してみたらどうかと云うことになった。丁度広田外相の時代でもあり、斎藤総理も私を良く理解同情してくれている関係上、1つ日本に急行して、この話をまとめて来てはどうだというのであった。そこで私は郵船の船で往復4ヶ月の当時としては飛脚旅行をやって、漸くこの話をまとめ、1933年の秋、オノラ氏に私が随行して巴里を出発した。但し私には私の考えがあるからオノラ氏が帰途朝鮮満洲を巡遊する、その随行だけは御免蒙ると駄々をこねた。広田氏は良く私のことを理解して居ったので、私の考えは認めてもらえた。が、私は世間の誤解をおそれたので私は広田氏と親交ある町田梓楼氏にも会って、新聞の方でも特殊な我々の国際的態度を説明して貰いたいと思ったが、行き違って面会する機会を逸してしまった。そこで私は言論界の知己を自ら訪ね廻り、オノラ氏来朝の目的が日仏文化交換にあって、政治的目的は全然無いことを説明し欧州政界の満州問題に対する見解がどうのこうのと痛くもない腹をさぐられたのでは、新任の大使ピラ君にもすまぬからとダメを押したものだ。

 オノラ氏歓迎は万点で、陛下の拝謁前、勲一等に叙せられ朝野をあげて歓迎された。東京の宿舎には私の旧駿河台の邸をあて、日本料理とフランス料理で歓待した。

 広田外相とオノラ氏の会見の際は、広田氏の希望があって私が通訳の役をつとめた。

 その夜の外務大臣官邸の晩餐の料理は、オノラ氏滞在中最も凝った献立で、ことに白酒シャトーイッケンの美味は、私の鑑定でも1871年製の名品で、オノラ氏が終始、日本滞在を回顧される毎に必ず話題に上ったものだ。

  世評はどうあれ、私は、広田首相は畏友であり、世界平和を念願した立派な良識の人だったと確信している。オノラ氏の言う
 「なかなか立派な人物だ。だが運命はしばしば人間の意志に反逆するものだ。」

 広田首相の悲惨な最後(*東京裁判で文官ただ1人の絞首刑)を思うごとにこのオノラ氏の言葉を想い出す。

 オノラ氏と共に★荒木陸相にも会見した。曽我子爵と3人で、陸相官邸の卑俗極まる大観の富士の大額の前に坐っていた当時の荒木は、気の毒ながら大した印象を残すような人物では無く、ヒステリカルな口調で取りとめのつかぬ極東平和論を1人でしゃべっていたのは滑稽で、むしろ同情すべき精神病者と云う感じだった。賢明なオノラ氏は、彼に1言の批判も与えなかった。本気に相手にしていなかったからであろう。概してオノラ氏の、当時の日本の政治家に対する印象は、【牧野伯は尊敬に値する大人物、斎藤首相は人格温厚、紳士的政治家、鳩山文相は怜悧なリベラルな好意の持てる政治家】、そして日本の話の出る度に鳩山氏のことに話が及んだところを見ると、余程好印象を受けたものらしい。外交方面では★佐藤尚武氏がオノラ氏の最良の友人で、佐藤だけは自分に腹を打開けた唯一の日本外交官だ、と口ぐせのように言っていた。芳沢謙吉氏もオノラ氏は好きだった。東洋風なところが気に入っていて芳沢は面白い人だとよく話に出た。栗山茂氏はその才を買い、栗山は仕事が出来る、どうして政治家にならぬのかと言って居られ、現神奈川県知事の内山岩太郎、日高信一郎氏等も良い印象を与えた人だった。最もなつかしがっていた人の1人は鈴木九万氏で去年他界される寸前、氏がユネスコ会議の序に巴里に出てくるというのでその喜びかたといったらなく、私が案内して病床を見舞った時は、涙をうかべて喜んだ。オノラ氏はそれから数日後亡くなったので、鈴木氏はオノラ氏の最後の訪問者となったわけである。

 オノラ氏の日本滞在中最も印象に残ったのは、伊勢神宮参拝であった。
 「私が伊勢神宮に参拝したいと思う意味は、そこが日本のアクロポリスで、日本帝国の象徴であると解釈しているからだ」
 と来朝途上の船中で述懐していたが、いざ参拝の数日前のこと、京都の私の別荘の低目に造ってあった廊下の長廂に頭をぶっつけて引っくり返ってしまった。京都の大学から来てもらったレントゲン科の教授が診察した結果腰の骨がどうかしたと云うので、ギブスをはめられてしまった。参拝当日になると、その鎧付けの上からフロックを着用した。そしてあの参道を歩きながら

 「これが日本精神だ、この神杉の古木が太理石柱だ、だがこれはなんという謙虚な大自然の前に己を知った賢明なる文明であろう。」
 などと、一寸芸術家のお株を取られた形であった。参拝後は御神楽まであげさせて、その間中ギブスをはめたままの体で畳に坐り、ビクとも動かなかった立派な態度には、流石の私も兜をぬいでしまった。

 オノラ氏は日本を引揚げて朝鮮満洲を視察し、予め打合わせた通り、私は上海で氏と落合い、途中香港で船を乗換えて、ハノイに向った。仏印総督ピエール・パスキエ氏の招待に応じての行動である。この仏印旅行が、私の生涯にとって転機を画するもとになったのだが、それはこの旅行が原始林人(ジャングルマン)になって、理想冒険から現実冒険家に転向する因をなしたからである。

 親分の荷物持で香港から乗り換えたのが、驚くべし、僅か1千トンの「トンキャン」という荷物船であった。時は1933年の冬のことで、海南海峡をガタガタゆられて着いたのが広州であった。そこからパコイに行き、ハイフォンでポール・レイノー前首相の従兄モールス・ギャンエ土木総官夫妻に出迎えられて河内(ハノイ)に乗込んだ。河内ではパスキエ総督の厄介になり、バスツール研究所のモーラン博士にも挨拶し、オノラ総裁に随行してユーエ、トウラン、ニャトランなど、南海風情たっぷりの名も床しき大官道路(ルートマンダリン)を南下した。ニャトランではペスト菌発見者のイエルサン博士と会い、西貢(サイゴン)では旧知コーテーメール交趾支那総督に招待された。私たちはそれからカンボジアに入国し、王都プノンペンにてモニボン王の大歓迎を受け、お菓子代りというわけでもなかろうが、カンボジア王冠勲章を首からつり下げられた。アンコール廃跡を象の背にゆられ乍ら見物した後で、ポイペット国境線を越え、シャム国のアランヤ駅から急行で盤谷(バンコク)に向ったところ、計らずも旧友トントウル殿下に邂逅し、前王寵宮ラクシャミ・ラバン女王殿下邸の夜宴に招ばれた。内務大臣の顕職を得た往年の革命児ルアング・ブランヂットは、フランス公使招宴の会場で同席した。

 この旅行中に、頭のいい人情も解する軍部の男にあった時、私はこれまでの旅の感想を語って日本のことに及ぶと、遠慮することはないと考え、
 「日本民衆の生活程度の低さは実に情ない。町村の主婦たちが赤ん坊を背負い子供を2人も3人もつれて生活に喘ぎ、栄養不良な顔でウロウロしている有様や、惨めな勤労者が街に溢れている日本の社会状態を見て来ると、貴君方の心持ちも解る。どうかしてバイタル・スペースを得て助けてやりたい。それは人情だ。だが、貴君方は隣国に国際法を破って侵入し、良民を苦しめ無辜の婦女子を殺し、軽薄極まる大東亜宣伝をしてみたところが結局何が得られるというのだろうか、私には分らぬ。」
 と出たところ、彼は悲痛な表情を浮べていたが、やがて

 「薩摩さん、それがオノラさんの今度の訪日の感想ですか。」
 と云う。

 「否やそうではない。私の言いたいことは、そんな乱暴をしないで、平和的に国際商業バランスを取り、真面目な邦人の南方への平和的殖民なり発展を考えたらどうでしょう。文化的宣伝の1例をあげても、このことは云えないでしょうか、シンガポールに鳥居を建ててみたところで始まらないし、いかにもすべてがチャチで上ッ調子だ。今日の日本人は軍部の宣伝に来ているとしか思えない。オノラさんの感想は知らぬが、私の感想はそうです。もう少し真面目に考えていただきたい。」

 少佐氏は黙ってしまった。

 事実私はこんなことをしていたら、日本は飛んでもない事態になってしまうと思っていた。私のみでは無い、松平恒雄も既に満洲事変の際、狂人松岡がジュネーブに出て来て独善的な演説をブッた日から、考えを同じくしていたので大変なことになったぞと、或る時、湖上で魚釣りをしながら話し合ったことがあった。私は満鮮を廻遊するオノラ氏と上海で落合うまでの日の余暇を見て、牧野伯の所に参上して感想を述べた。牧野伯は葉巻を吹き上げながら静かに

 「だが君、気を付け給え、平和主義者と云われるよ。」
 と微笑して部屋の隅の仏像に眼を投げた。その時の伯の様子が忘れられない。

 盤谷(バンコク)からピナン急行に乗り、馬来(マレー)半島のイポーにある仏蘭西テッカ会社の鉱区によった。ここで、先日別れたばかりのパスキエ総督の飛行機エメラルド号がリオンの近くで墜ちて総督が墜死したことを知った。西貢で最後に別れた時

 「薩摩どうだ、一緒に乗って帰巴しないか。」と誘われたが、私はオノラ氏の荷物持ち役であることを告げて断ったので助かったようなものである。シンガポールを経て、ジャバに渡り、バタビアバンドン、スラバヤ等を回遊し、その間には、ビュイテンゾルグ総督の招待を受けたり、ブルバドウルの廃跡を見物したりして、オノラ氏と共に巴里に戻ったのは、1934年の暮春であった。 



 以降、回を改めて続けます。
  





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