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●『画商の眼力』を読む(4)。
●『画商の眼力』の帯には下の写真のとおり、大きく「私に藤田嗣治の鑑定ができる理由!」とある。

 その第二章は、〔藤田嗣治の鑑定〕とある通り、一章すべてを使って藤田について記述されている。

 佐伯祐三よりも大きな扱いである。

 しかし、当然といえば当然のことだが、ここでもあれこれの小話-「乳白色にまつわる謎」、「画家・藤田にとっての戦争という現実」など-は語られるが、それらも★ウイキペディアの域を出ない。

 そして「肝腎の件」については無視されている。

 不思議なことづくめの著作であった。


 左下のリンク先から【吉薗手記の語る大正~昭和史】をクリックしていただくと、藤田嗣治のいまひとつの顔=真実を読むことができる。 ★7.藤田嗣治 エコール・ド・パリの寵児の真実

 
 ★ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB

 詳細はこの労作のお世話になることにする。
   
 
 ●『画商の眼力』を読む。  <了>。
  


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●『画商の眼力』を読む(3)。
 大島一洋『芸術とスキャンダルの間』の最後はこう締めくくられていた。

 「・・・落合莞爾とは何者か。
 著者紹介(落合著『天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実』=1997年、時事通信社刊=の著者紹介)を見ると、昭和16年和歌山市生まれ、東京大学法学部卒、住友金属、経済企画庁調査局、野村證券を経て、昭和53年落合莞爾事務所設立、株式会社新事業開発本部社長とある。著書は6冊あり、半分は経済モノで、経済評論家のようだ。が、やがてわかるように調査のプロであり、筆もたつ。『天才画家佐伯祐三・・・』は推理小説を読むような面白さで、最後まで読者を引っ張る。彼は真作派の旗手であり、武生市の贋作疑惑をことごとく粉砕していくのである。・・・

 筆者(大島氏)に(佐伯の作品の)真贋を判定する力は無い。ただ、もし絵は贋作としても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。
 資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。・・・」 **********
 
 以下、<補足>しておく。

 上記の著作『天才画家「佐伯祐三」・・・』とほぼ同時期に刊行された藤原肇との対談本『教科書では学べない超経済学―メタエコノミクス』(副題―波動理論で新世紀の扉を開く)の<著者略歴>をチェックしてみると。

 「経済企画庁調査局」は、「経済企画庁内国調査課(出向)」とより詳しく記されている。
 <東興書院> 設立は昭和62年12月で、<設立にあたって>という宣言の一文「百年の良書を望む」も東興書院・各刊行本の巻末にある。

 私の知る同社の刊行本としては『間脳幻想』(銀座内科医師・藤井尚冶と藤原肇氏との対談。1988.11月刊)と『世界革命とイルミナテイ』(ネスタ・H・ウエブスター著、馬野周二訳1990.6月刊)があるが、どちらも「良書を!宣言」を汚すことの無い一冊だった。
 
 特に、『間脳幻想』は、対談集が売れないこの国にあって、稀有の結実だと思う一冊。
 私は何度読み返したかわからないほどだ。

 とにかく「叡智」・「智慧」が随所にさりげなく、叩き込まれている! 

 ***************

 
 ●次に紹介するのは、出久根達郎・『書棚の隅っこ』である。

 先ず、落合氏の【佐伯祐三:調査報告】からの引用を。

 第三章 第三節 〔落合報告なるもの〕 より。

 **************

 ・・私は、小林報告書起草者に対する憤激の存念から、随所で美術評論家なるものを貶めてきたが、それはあくまでも一般論であり、中にはこのように見識と勇気ある人士も少なくないことを認識した。文壇の大型新星といわれる★出久根達郎も、その著「書棚の隅っこ」のなかで、取り上げて下さっている。

 草: 「佐伯祐三が、激しく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位地の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」「大阪の持つ庶民的な反逆精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワへの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」(安西冬衛「佐伯祐三の位地とその意義」)

 佐伯祐三真贋騒動をご存じだろうか・・・・

 出久根さんによる拙著の紹介は、上の文章で始まる。安西という人の難解な文章をまず掲げたのは、拙著と対比なさるためであろうか。ともあれ、出久根さんは、私個人の略歴と拙著の大筋を紹介した上で、次の文章で締めくくっている。

 「佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。ニセとわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数億の佐伯作品となれば,画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。

 なお「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。」

 このように、好意的な書評は幾つか頂いたが、その逆の拙著に対する反論は、真摯なものはもとより、嘲弄的な批判ないし噂すら、これまで私の耳には入ってきていない。一つだけ例外は、流行語“老人力”で売りだした★赤瀬川原平が、「日経アート」平成十年十二月号の紙上の対談で曰く、「4年くらい前に真贋騒動があったんですよ。(中略)絵と一緒に資料があって、この資料がすごいんです。よくもまあ、これだけ、という感じで。(中略)いまだに真作だといって本を書いている人もいて、相当複雑なんです。センスがなくて筆が立つ松本清張みたいな人が生きていたら大長編小説を書いてますね」と。

 後半部分の趣旨はよく分からないが、とにかく拙著と私をからかい気味で語っていることは疑いない。これが、私の知り得た唯一の表だった拙著批判である。この外に「闇の贋作派」がいて、たとえば安井収蔵氏のごとく「小林報告で真贋はすでに決着した」と唱えるが、堂々の論争をしようとはしない。この一派は、商業的・経済的動機がすべてのようだ。

 赤瀬川は同誌上で「絵の真贋なんか元来どうでもいい」と言い、吉薗佐伯については、「でも、ぼくは写真でしか見てませんが、この絵がどうしようもなくつまらなくて何だか嫌な気分になる」と、自ら『芸術新潮』の掲載写真の影響下に在ることを自認している。その未額装品の写真によって、間違った先入観が形成されてしまった人が多いが、赤瀬川もその一人らしい。先入観が強すぎて、拙著や月刊「ニューリーダー」で紹介してきた資料の内容が理解できず、「よくもまあ」とただ呆れるのであろうが、嫌な絵だから偽物というのは早計ではないか。それに、夫子自身が「日経アート」の対談のなかで、佐伯の公開作品を評して「この絵のここは、佐伯がああした、こうした」と評するが、作者の個性・心情と具体的作品を結びつけて論じる立場にあるなら、真贋=つまり当該作品の作者と特定個人の同一性の有無=を無視することができぬというのが、物の道理ではないのか。

 そこで一つ、赤瀬川君に問う。これは君自身で双方の報告を熟読したうえでの責任ある見解なのか?

 そして告げる。ここは一番、★千葉成夫の言に従い、真面目に争おうではないか。「どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ」。
 ・・・(続く) 

  <註>
 上の★「千葉成夫の言に従い」とは、以下の文章(落合報告)を
 踏まえたもので、以下引用する。 
 
 *********

 拙著に対しては、幾つかの好意ある書評をば頂いた。その代表は、美術評論家の★千葉成夫東京近代美術館主任研究官のもので、★「中央公論」平成9年10月号に、次のように評して頂いた。

 「実に面白い本だ。まるで推理小説か犯罪ミステリーを読んでいるようで、読者に息をつかせない。しかも、ただの面白い読み物というのではなく、これはきわめて真面目な考証物であり、研究書とすら言っていいだろう。(中略・事件の経緯)

 一般の人々は、その間の事情と経緯を知る由もないから、よく調査した結果、贋作と判明したので白紙に戻すとは、役所にしては偉いと思った人もいたはずだ。たとえば「贋作説」の新聞しかとっていなかったら、そう思って当然である。ところが、本書の著者の調査と推理によると、そうではない。ここから驚くべき真実があかされることになる。こういう本は、種明かしをしてしまったのでは、これから読もうと思っている人々に失礼に当たるわけだから、それはせず、結論だけを記しておこう。『刑事コロンボ』同様、本書の面白さは結論にではなく、結論に導いていく課程(*過程)にあるからである。

 吉薗資料の全面的提供をうけて詳細な解読と調査を行った著者の結論は、「吉薗佐伯」こそは、真作であり、これまで「佐伯作品」とされてきたもののほとんど、ないし多くは、画家の未亡人・佐伯米子が夫の作品(真作)に加筆して完成させたもの、他者が描いた作品に米子が加筆したもの、であるというのだ。この驚天動地の結論が、著者の綿密な解明をへて導きだされている。

 これだけでも大変なことだが、著者はさらにこの調査から、吉薗周蔵という、これまで未知の人物を歴史の闇の中から浮かびあがらせる。なんと、それは上原勇作元帥の「草」(陸軍特務=スパイ)として、幅広く複雑な人脈を持ちながら、市井に暮らした人物だった、というのである。吉薗周蔵の人物像がはっきりしてきたことは、美術に関してもこれからいろいろな情報をもたらしそうで、興味がつきない。

 さて、この著者の「吉薗佐伯真作説」に対して、「贋作説」を唱えてきた美術史家、美術研究者、美術館学芸員、画商たちは、いったいどのような反応を示し、対応するのだろうか? この著者の調査・研究・推理は、本書でみる限り、かなり綿密で本格的だから、客観的に言って、反論は簡単ではないにちがいない。部外者の僕は、無責任に、どっちも頑張れ、と言っておこうか。どっちも頑張れ、ただし真面目に、だ。
・・・略。

 【2007/12/07 15:31】 | 読書日記

 *****************

 ●『書棚の隅っこ』  出久根達郎 リブリオ出版1999.1.20 1500円
 (*初出は、『週刊新刊全点案内』 1997.10.7号~1998.9.29号)
 後、★『人は地上にあり』と改題されて文春文庫として、刊行される。(2002年9月)

 以下、全文を紹介する。

 **************

 ● 草

 「佐伯祐三が、はげしく私を奪って止まない所以は、モラリスト(風俗批評家)としての彼の独自な姿勢が位置の確かさの上にあって、比類ない美をわれわれに提起していることに、職として由る。」
 「佐伯は明治三十年大阪に生れ、大正五年北野中学校を出ている。(略)大阪のもつ庶民的な反逆の精神。そして文明への高貴な憧憬の感情。彼の体液(ユムール)を流れるこの二つの要素の上に彼のプチ・ブルジョワヘの深い愛情がその独自の芸術となって燦然と輝いているのである」 (安西冬衛「佐伯祐三の位置とその意義」)。

 佐伯祐三真贋騒動を、ご存じだろうか。
 福井県武生市に、吉薗さんという女性から、佐伯の絵が寄贈された。一点ではない。油絵やデッサン、書簡など百八十点もの大コレクションである。しかも、どれも今まで世に知られなかった作品だから、大騒ぎになった。

 武生市は約四億円をかけて、佐伯祐三美術館をこしらえ、これらを受け入れることにした。
 そこに横槍が入った。★東京美術倶楽部が、コレクションの中の一点は、以前、美術倶楽部で鑑定ずみで、真物ではない。他の作品もきわめてうさんくさい、と武生市に申し入れたのである。東美と略称で呼ばれる美術倶楽部は、★有力美術商の団体で、定期的に鑑定委員会を関いている。美術業界では東美の鑑定証がないと、取引対象にならない。つまり、それほど権威がある。
 ところが武生市が委嘱した、美術評論家の河北倫明氏ら、いわゆる専門家側の鑑定は、贋にあらず真である、だった。
 
 真っぷたつに、評価が割れたのである。これは、きわめて珍しいことで、そもそも美術界においては、両者は持ちつ持たれつの関係で、対立するはずがない。一体、何があったのか?
 
 というわけで調査に動いたのが、★落合莞爾氏。その報告書ともいうべき本が、『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』(時事通信社・本体価格二五〇〇円)。
 奥付の著者紹介によれば、落合氏は昭和十六年生まれ、東京大学法学部卒。経済企画庁調査局部員を経て、野村証券入社。昭和五十三年に落合莞爾事務所を設立。株式会社新事業開発本部社長とある。著書に『ドキュメント真贋』他。
 
 まず佐伯祐三とは、どういう画家なのか。『新潮日本人名辞典』によると、明治三十一年生まれの洋画家である。大阪の寺のむすこで中学時代から油絵を始めた。東京美術学校を卒業し、フランスに渡る。ユトリロに感動、帰国し、二科展に出品、二科賞を受賞。昭和二年再渡仏、「郵便配達夫」「ロシアの少女」等を制作。昭和三年六月、神経を病んで、パリ郊外の入院先で客死した。三十歳であった。
 教科書などで一度は目にしたことがあるはずである。黒い制服を着たヒゲの老人が座っている図の「郵便配達夫」、あるいは、落書のように、いろいろな文字が書きちらされたドアを描いた「レストランの入り口」。 
 若くして亡くなったために、残された作品の教は少ない。そのため佐伯の絵は、岡鹿之助や岸田劉生につぐトップクラスの評価で、十号のもので二億教千万円といわれる。
 
 武生市は困惑した。いろいろなことが、わかってきた。吉薗さんは先に岩手県の遠野市に寄贈を申しこんだのだが、断わられていたのである。遠野市は吉薗さんの現住地である。遠野市に佐伯祐三の作品がある、ということがまず疑われたのだ。しかも今まで全く知られていない作品が、百数十点もあるとは。
 何より怪しまれたのは、吉薗さんの父周蔵のコレクションというが、周蔵の★経歴がさっぱり不明だということであった。
 調査によると、吉薗氏の伝記なるものはあるが、記述に信頼性がない。フランスに行ったというが、渡航記録がない。海外で活動したというが、客観的な資料は皆無である。要するに正体不明の人物である。
 
 武生市は結局、絵を持ちぬしに返し、寄贈話はなかったことにした。善意で話を持ちこんだ吉薗さんには、面白くない結果になった。さまざまな事も言われた。そこで吉薗さんは、落合莞爾氏に真贋事件の真相調査を依頼した、というわけである。
 
 落合氏は早速動きだす。まず吉薗周蔵という謎の人物を探る。佐伯祐三の絵が本物か否か、より、佐伯と吉薗がどのような関係を持っていたのか判然すれば、何もかも解決する。
 そして明らかになった事実は、まことに驚くべき一人の人生であった。
 吉薗周蔵は歴史の表に現れなかったが、裏では、さまざまの階層の人物と交流が深かった。陸軍参謀総長の上原勇作、西本願寺門主の大谷光端、首相の山本権兵衛、満映理事長というより大杉栄、伊藤野枝らを殺害した甘粕正彦、陸相の荒木貞夫、陸軍大佐でのちに行方不明となった辻政信。画家の藤田嗣治、ジャン・コクトー、熊谷守一。また共産党の徳田球一。医学者の呉秀三。日本医師会会長の武見太郎。元日銀総裁の渋沢敬三。
 
 こういう幅広い交遊を持つ人の仕事とは、一体何であるか、見当がつくだろうか?
 吉薗周蔵は大正六年八月、上原勇作から妙なことを頼まれた。佐伯祐三という少年が、美術学校に入学するため上京するが、面倒をみてくれ、というのである。佐伯は北野中学出身の秀才で、大谷光端が目をかけていた。佐伯の生家は本願寺派の寺である。大谷は佐伯を★「草」(スパイ)として育成したい、と吉薗に言った。ついてはバックグラウンド作りに協力してほしい。「草」として活動するには、世間に通用する表看板が必要で、佐伯の場合は一流画家でなくてはならぬ。彼が一流に育つよう、何かと配慮を願いたい、と頼んだ。

 吉薗は自分が佐伯とは旧知の間柄に「作らねばならなかった」。まず出会いだが、武者小路実篤を利用することにした。吉薗は若いころ武者小路の「新しき村」で、手伝いをしていたことがある。佐伯は武者小路のファンであったので、武者小路の『その妹』を読んで感動し、画家になれなかった主人公の代わりに自分が絵の道に進んでみようと思う、というファンレターを書いたことにした。その返事を吉薗が武者小路の代筆で認め、そこで二人の文通が始まったという筋書をこしらえた。実際に吉薗は「新しき村」で、読者からの手紙の返事書きをしていたのである。
 佐伯の絵は、妻の米子が加筆している事実が判明した。佐伯作品の再検討が始まる。そうなると美術商たちは恐慌をきたす。贋物(ニセ)とわかれば元値で買い戻す、という一札を業者は入れているからだ。十号数値の佐伯作品となれば、画商の経済的破綻は必至。「吉薗資料」の抹殺をはかるわけである。
 なお、「草」とは、スパイの意味である。佐伯を「草」に仕立てた吉薗周蔵も、もちろん当時の陸軍の「草」だったのである。

 <完>。 

 【2007/12/07 15:36】 | 読書日記 | 再録。

 ****************

 (『「佐伯祐三」真贋事件の真実』 p 380~)に河北倫明に関して次のような記述もある。

 4 河北は知っていた

 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

 「・・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。

 昭和61年頃、佐藤雅彦から、元首相も臨席するというパーティーに招待された池田チヤは、和服を新調して出掛けてゆき、席上で河北倫明と画家の稲垣伯堂に会った。チヤは旧知の河北からかねがね、稲垣はやがて文化功労者になる手腕と聞かされ、作品の購入を勧められていた。河北が佐藤と稲垣を従え、元首相のいる前でチヤに、「佐藤君の所の図譜は中途半端だから、真贋を区別するのに、役にたたない。佐藤君から聞いたがおたくには吉薗周蔵が奉天で写した本があるそうだが、それを持ち出せば本物の説明ははっきりとつくから是非稲垣君に見せてやっていただきたい」と頼んできた。その後、稲垣の絵を送ってきたがチヤはそのまま返却し、結局『奉天図経』を見せなかった、ということである。

 昭和62、3年頃、北海道立近代美術館が多数の中国陶磁器を購入したという噂を最近耳にした私は、そういえば稲垣画伯が「古陶磁を北海道美術館が数多く買いにきた」と語っていたことを、やっと思い出した。明細はさっぱり判らないが、その中には奉天伝来の秘宝もあるのだろうか、見てみたいものだと思う。

 佐那具や大連の陶雅堂窯、さらに大連市の夏案子で造られた倣古品や贋造品は、旧特務機関員らが、にわか茶人となって、茶室を舞台にして世間に売り込んだ。陶磁学者として1派をなした小山富士夫もそれに加わっていた。関東では、日本橋にあった某美術店と湘南の某料亭が、関西では有名な超一流料亭がその舞台である。湘南某駅の近くで、旧軍の特務機関員につながる女性が料亭を経営していたが、茶会にことよせて大量の佐那具物・満洲物を売っていた。日本橋某美術店も、その店頭に佐那具・満洲物の実物やポスターを飾り、古陶磁マニアに売りつけていた。佐那具物を目利きしていたのは、そつ当時東京国立博物館に勤めていた某専門家で今や世界的な陶磁学者になったが、若年の頃、某美術店のパンフレットに執筆していた。

 それを聞いた私は、にわかに覚るところがあった。平成3年、私は紀州文化振興会の『陶磁図鑑』に手紙を添えてその学者に贈呈した。通常なら、贈呈品が気に入らねば、受け取りを拒絶するか返送すればいいし、まあ受け取って置こうという気持なら葉書1枚の礼状を出すのが学者の慣例なのに、まるで反応がないので、何となく不審に思っていた。また、平成4年に岸和田市の展覧会のとき、たしかにその1派が贋作攻撃の背後にいることを実感した。人から「落合センセは何かで恨まれてるんと、ちゃいますか?」と言われたが、心当たりがなく首をひねっていたものだが、その謎がこれで解けた。私は自分でも気付かずに、倣造陶磁シンジケートの営業妨害をしていたのである。

 *************                      
 


●『画商の眼力』を読む(2)。
●『芸術とスキャンダルの間』(大島一洋 講談社現代新書 2006・8・20)
  
 この本の第3章で、【佐伯祐三真贋事件】が採り上げられている。

 事件の経緯が要領よく、簡明に記されているので、以前にも紹介したが<略>部分が多かったので、これを少なくして、以下に再紹介する。

 「(長谷川によって)無意味にイニシャルのみで済ませられている人名」も実名での登場となる。

 *************  


 ●第3章 謎の佐伯祐三現わる―なぜ突然、大量に出てきたのか

 ★佐伯祐三とは 


 佐伯祐三はパリの下町風景を描いた天才画家として有名だが、昭和3年(1928)、肺結核のため、わずか30歳で客死した。美術学校時代を含めても、作画年数は10年間であり、実質的には5、6年と考えられる。彼の総制作数は5百点前後と見込まれているが、戦災で焼失したものもあり、正確にはわからない。贋作も多いといわれる。

 佐伯ブームが起こるのは昭和40年頃からで、10号大で2億円余と人気が高くなった。しかし、この事件が起きた平成6年頃には、佐伯作品は山本發次郎が蒐集した「山發コレクション」など、所有先はほぼ確定しており、新しく見つかっても、年に数点という程度だった。

 そこへ180点もの未公開作品が登場したのだから、美術界は大騒動になった。

 真作と判定したのが、当時美術界のドンといわれた河北倫明であり、贋作と判定したのが、画商の鑑定機関・東京美術倶楽部だったため、寄贈を受けた福井県武生市(現・越前市)を巻き込んで、マスコミの報道合戦が繰りひろげられていったのである。


 ★事件の発端 


 平成6年(1994)12月19日、「朝日新聞」は以下のように報じた。

 【佐伯祐三の大量未公開作品? 数10点中5点に「本物」判定】

 内容は、岩手県遠野市に住む女性から、佐伯祐三(1898~1928)の未公開作品38点の寄贈を受ける予定の福井県武生市が、専門家を集めた選定委員会を作って調べたというもの。選定委員は、美術評論家の河北倫明(座長)、京都国立近代美術館長・富山秀男、横浜美術館長・陰里鉄郎、東京国立文化財研究所美術部第2研究室長・三輪英夫、慶応大学名誉教授・西川新次の5人で、38点のうち5点を調べ、「佐伯の真作」と判定した。記者会見した河北は〈粗削りな面も見えるが、作品の質は今までの佐伯の作品に匹敵する〉と述べ、他の4人の委員も〈本物に間違いない〉と語った。

 ところが、この報道があった1週間後の12月25日、「毎日新聞」が社会面で大きく次のように放った。

 【えっ贋作? 「佐伯祐三」 関係者寄贈の未発表作 「新しすぎる」】

 【専門家鑑定で波紋 福井・武生】 

 「毎日新聞」は翌26日も社会面トップで追い打ちをかけた。

 【鑑定46点「すべて偽物」 佐伯祐三作品で確認 東京美術倶楽部】
 【真贋問題 全コレクションに波及か】

 東京美術倶楽部社長の三谷敬三と同倶楽部鑑定委員で日動画廊社長の長谷川徳七が、25日に記者会見をおこなったため、26日の各紙はみな一斉に報じている。以下、報道をわかりやすくまとめてみる。

 佐伯祐三の未公開作品を所有しているのは、岩手県遠野市の主婦・吉薗明子で、父親の周蔵の遺品のなかから見つかったものである。吉薗周蔵は東京で精神カウンセラーをしていたが、生前の佐伯を経済的に援助していた関係で、油絵、デッサン、書画など約2百点(以下、これを吉薗油彩と呼ぶ)と多量の手紙や日記など(以下これを吉薗資料と呼ぶ)を保管してきた。

前年(平成5年)の2月に美術商を介して、油絵16点、水彩画30点が鑑定のため東京美術倶楽部(以下、東美と略す)にもちこまれた。東美では、10人による鑑定委員会を開いて調査した。2カ月間科学的にも慎重に検査した結果、すべてを数年以内に描かれた贋作と鑑定した。そのうちの1点「モランの風景」(仮称)が武生市の公開したものと一致した。

贋作とした理由は次の3つ。

①キャンヴァスが最近の画布にしか使われないテトロンを含んでいる。
②絵具が酸化していない。
③画布を打ち付けた釘が錆びていない。

【東美社長・三谷敬三の話】
 われわれの見識として偽作と判断した。武生市が独自の判断で購入することは自由だが、われわれの業界では一連の作品はいっさい取り扱いません。
【美術評論家・朝日晃の話】
 20数年間、佐伯の研究を続けているが、佐伯の周辺で吉薗という名を聞いたことはない。
【河北倫明の話】
 鑑定委員会は、佐伯作品がたくさん出まわると絵画市場が混乱するから、そんなことを言っているのではないか。
【武生市・小泉剛康市長の話】
 (作品に対して)いろんな声が出るのは当然。ただ、私としては選定委員の意見に重きを置き尊重する。

 ★他市へも話をもちかけていた
 <略>。 吉薗明子が平成6(1994)年宮崎県都城市や遠野市にも寄贈の話を持ちかけていたという。   


 ★キャンヴァスの鑑定と資料鑑定 


 東美が贋作の理由として挙げた3つのうち、②と③は修復家たちのコメントで否定された。つまり、絵具の酸化から年代はわからない。
 また、作品完成後にすぐ木枠からはずしてしまえば釘の錆は残らないので、錆がないからといって、最近の作とは断定できない、というものであった。

 残ったのは①のキャンヴァスにテトロンが含まれているかどうかだった。
 そこで武生市は、寄贈品の画布の一部を切り取り、某鑑定機関に鑑定を依頼した。その結果、キャンヴァスからテトロンは検出されなかった。
武生市は広報でこの結果を大きく報じたが、これで吉薗資料がホンモノと決まったわけではない。
 だいたい贋作を作るのに、すぐばれるような新しいキャンヴァスを使う者がいるだろうか。
 次に吉薗資料の公開を求める美術関係者の声が上がったが、武生市は個人的な情報が多くて混乱をきたすとして、公開を先延ばしにする。
 4月14日、武生市は第2回の選定委員会を開いた。河北座長は病気のため欠席したが、新たに市の嘱託となった
小林頼子特別学芸員が参加した。彼女は西川新次選定委員の推薦で加わることになった。以後彼女の調査が武生市を最後まで引っ張っていくことになる。
 (この第2回委員会では、①今後も調査研究を続ける。②吉薗資料の筆跡鑑定を早急におこなう、の2点だった。なお選定委員会は名称を調査審議委員会にあらためる。)
 
 ところがその後、急に武生市の態度が変わっていく。
 8月と9月初めの武生市の定例記者会見で以下の3点が発表された。

①「佐伯美術館」の名称を「市公会堂記念館(仮称)」に変更する。
②吉薗コレクションを11月に公開できるかどうかは、美術館準備室に判断をゆだねる。
③吉薗資料は、8月13日に吉薗明子に返却した。

 この発表を見ると、明らかに武生市は後退姿勢である。「吉薗油彩」の38点まだ預かっているものの、それを公開できるかどうかわからないと言っている。「吉薗資料」も明子からの要求で返却したようだが、それでは筆跡鑑定ができない。つまり、鑑定する必要がないと言っているも同じである。

 じつは、9月12日、密かに東京で第3回調査審議委員会が開かれていた。
 その席で小林頼子特別学芸員が「吉薗資料の信憑性は疑わしい」と報告したのである。これを受けて武生市は、資料が疑わしいなら、作品も疑わしいと判断したのだろう。
 吉薗油彩38点の返却を決定し。同月26日の市議会で承認を得ている。 


 ★河北倫明の死 


 平成7年10月30日、河北倫明が入院先の順天堂医大病院で亡くなった。80歳だった。
 「週刊新潮」平成7年12月14日号は、以下のような特集を5ページに組んだ。

 【美術評論家 河北倫明氏死去で遺った佐伯祐三「贋作」騒動】
 この記事で注目されるのは、吉薗明子の過去の事件である。それは、彼女が鎌倉に住んでいたころ、知人の指圧治療院の経営者から詐欺まがいの方法で2億5千万円の借金をして逃げ、最終的に2億3千万円の返済で示談になったというもの。吉薗明子は返済金の2億3千万円をどう工面したかというと、武生市に買い上げられる予定の吉薗油彩11点を武生市の実業家に4億で買ってもらったという。また、明子所蔵の青木繁が河北の解説付きで売られたという話もあるとして、河北倫明は「佐伯祐三贋作騒動」でその晩節を汚した、という内容である(落合はこの記事に細かく反論しているが、煩雑になるので省く)。 


 ★米子(よねこ)夫人が加筆


 11月12日、地方新聞に、えっと驚く記事が載った。たとえば、「福井新聞」。
 
【佐伯祐三の絵に加筆 故夫人、書簡で告白?」
「中日新聞」「東京新聞」「産経新聞」も同じようなタイトルで、以下のような故・米子夫人の手紙を掲載した。

秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵ではだれも買って下さらないのです 私が手を入れておりますのよ 秀丸もそれをのぞんでおりましたし・・・
画つらの絵のぐや 下じの厚いものには ガッシュというものをつかい 画づらをととのえ また秀丸の絵の具でかきくわえますでしょう すこしもかわりなくよくなりますのよ・・・
秀丸はほとんど仕上げまで出来なかったのです・・・あなたのお手先にあるもの
私が仕上げれば すぐに売れる絵になりますのよ

これは、落合が共同通信の記者を通して筆跡鑑定に出したものが真筆という結果が出たため、共同が配信したのである。この手紙は、佐伯米子が周蔵に「佐伯作品をゆずってくれ」というもので、吉薗資料のなかには同様のものがいくつもあった。ただし、これらの手紙は武生市には渡していなかった。

 落合は、周蔵あての佐伯と米子の手紙を分析し、次のように推測する。

 佐伯の作品に対する米子の加筆は、第一次バリ留学時代の途中から始まったようである。(略)幼少から北画を習っていた米子は、大胆な構想力に富み、荒々しいタッチの佐伯の原画をグアッシュで修正した。細い面相筆を用いた米子の修正で、佐伯の原画はずっとアカデミック寄りになった。すなわち大衆分かりする、こぎれいな雰囲気になった。周囲でむしろその方を誉める声が高まると、今度は祐三は複雑な心境に陥ったらしい。


★武生市の結論


 11月13日、最後の調査審議委員会が開かれた。故・河北倫明をのぞく4人が出席し、小林頼子特別学芸員の報告がなされた。結論から言えば「吉薗資料の信憑性に否定しがたい疑義が生じた」というものである。

 最初から贋作報道の気流だった「毎日新聞」は11月14日付で以下のように報じた。

 【佐伯祐三真がん論争 福井・武生市へ寄贈の38点 市調査委も「偽作」判断】
 内容は、これまでの経過を説明したあと、陰里鉄郎委員の次のようなコメントを紹介している。
「当初は信ぴょう性について肯定的な意見を述べたが、逆の結果になった。100%がん作とは言わないが、それに近い」

 この結論を受けて、12月22日、吉薗油彩38点は明子に返却された。調査審議委員会が示した疑義の項目はたくさんあるが、とても全部は紹介できないので、重要な以下の2点について、落合の調査結果を要約したい。

①吉薗周蔵は佐伯を援助するほどの資産家ではない。
②吉薗周蔵の渡航記録が見つからない。

 落合の調査は徹底している。吉薗家の戸籍、家系図を調べ、親戚関係の書簡やメモを探り出して、周蔵の経歴を洗う。やがて周蔵手記を発見し、驚くべき事実を確認するにいたる。


 ★スパイだった


 まず①について。
 吉薗周蔵は、明治27年(1894)宮崎県小林村生まれ。実家は資産数十万円の豪農だった。
 周蔵の祖母・ギンヅルは、海軍の総帥・山本権兵衛と強いコネがあった。また、彼女は陸軍大臣・上原勇作中将(映画俳優上原謙=加山祐三の父=は孫にあたる)の叔母であり、大スポンサーだった。その関係で、大正元年(1912)8月、周蔵を上原勇作に会わせた。周蔵は上原に「草ヲ命ズル」と言われる。つまり、陸軍のスバイになれということである。周蔵は熟考のすえ、これを引き受ける。熊本医専の麻薬研究員の助手となり、上原の命令でケシの栽培を始める。ケシ栽培は順調に進み、急速に上原の信用を得ていく。

 ケシから採取した純質アヘンはすべて上原勇作に届けたが、その見返りとして、政商・久原房之助が経営する久原鉱業関係の売店にタバコを納入する利権をもらい、帳簿操作だけで毎月5百円(現在の4百万円相当)を超える利益があった。佐伯祐三は始終、周蔵から金を借りた。周蔵は金に頓着せず、毎回貸し与えた。その代わりに絵をもらった。

 後年もずっと佐伯の絵を買いつづけるというかたちで援助した。つまり、周蔵は表向きにできない仕事で巨額の収入を得ていたのである。ただし、それを誤魔化すために、表面上は食料品を扱うよろず屋を装っていた。


 ★他人になりすまして渡航 


 次に?について。
 周蔵が最初に渡欧したのは大正5年である。そのころ、陸軍参謀総長に就任していた上原勇作大将は、陸軍の特務活動に従事していた石光真清少佐に、周蔵の欧州までの送迎を命じた。2人とも久原鉱業の技師になりすまし、周蔵は武田内蔵丞、石光は遠藤と偽称して渡航手続きをした。実在する社員の名前を拝借したものである。

 ウィーンに着いた周蔵は、ウィーン大学のラントシュタイナー血液学教室の助手を買収し、血清学理論の個人講義を受けた。そのあと、ドイツ、フランス、イギリスを経て、大正6年6月に帰国した。周蔵は現在の中野区中央あたりに「救命院」の看板を掲げて精神カウンセラーを開業する。これは全国でケシ栽培を展開するためのアリバイ作りが主な目的だったが、この救命院の患者に佐伯祐三がいた。ちなみに、佐伯祐三が美術学校に入れたのは、周蔵が山本権兵衛に頼んだおかけで、いわゆる「裏口入学」だった。

 昭和2年9月、周蔵は元帥になっていた上原からふたたび欧州出張を命じられる。今回は煙草小売商・小山健一の名前で渡航手続きをした。シベリア鉄道経由でパリに着き、佐伯祐三と会う。このとき、周蔵は佐伯に3千円渡し、その対価として日本へ絵を送るよう約束をした。それが、周蔵が佐伯と会った最後である。

 周蔵は翌3年4月シベリア鉄道で帰国した。その2ヵ月後に佐伯は客死する。周蔵がパリで佐伯に会ったときは元気そうだったので、落合は佐伯の死についても疑問を呈している。

 周蔵の渡欧はスパイ活動であったから、渡航申請は他人名義でおこなったのである。


 ★武生市との対決 


 調査を終えた落合莞爾は、武生市との全面対決を公開する。武生市が出した「美術館準備室報告書」の疑義項目は24にのぼる。落合はそれらすべてに反駁した。
 平成8(1996)年6月28日、武生市役所の市長会議室で、まず市側が「準備報告書」を発表し、そのあと、隣にある生涯学習センターで、落合が「反駁報告書」を発表した。
その模様は福井テレビで放映された、
 しかし、翌日の新聞各紙はつれなかった。落合の反駁を取り入れたのは、「朝日新聞」と「読売新聞」のみで、他紙は武生市の報告だけを載せ、〈贋作の可能性高い〉〈真作でない〉と書いた。武生市との共同発表ではなく、時間と場所を変えた単独発表だったために、落合反駁会見の印象が薄くなってしまった面があった。


 ★告訴と裁判結果   

 
 テレビ東京系の番組「開運! なんでも鑑定団」でおなじみの中島誠之助は平成8年5月に出版した『骨董の真贋』(ニ見書房)のなかで、吉薗佐伯について次のように書いた。

 冷静に考えれば、そんな場所に佐伯祐三の絵が大量にあるわけがないのです。そんなことは、ごく初歩的な約束事であって、それがわからないようではどうしようもありません。嘘の話は大きいほどひっかかりやすいものなのです。

 この記述にたいして吉薗明子は、名誉毀損で6百万円の損害賠償を請求する訴訟を起こした。

 この裁判結果は、平成14年(2002)7月30日に出た。東京地方裁判所は、吉薗佐伯絵画コレクションのすべてを贋作と判定したのである。

 「朝日新聞」の平成14年11月1日付夕刊は「美の魔宮」と題する連載の中篇で、以下のように書いている。

 裁判では、6点の鑑定が行われた。結果、「これまでの佐伯作品と、顔料やメディウム(媒材)が異なる」「当時、大量生産されていなかった白色顔料が含まれていた」などが明らかになった。

 このように裁判で贋作と判定されたのに、ネット上ではいまだに真贋論争がたえず、判決そのものを否定する見解もある。

 筆者(大島)に真贋を判定する力はない。ただ、もし絵は贋作だとしても、あの大量の「吉薗資料」はいったい誰が書いたのだろうか。資料は本物で絵は贋作なのか。謎の多い事件である。


 ●『芸術とスキャンダルの間』  <了>
 

 

●『画商の眼力』を読む(1)。
                  画商の眼力_1

                  天才画家佐伯祐三真贋事件の真実_1


 ●「次回は、『日本を動かした大霊脈』 中矢伸一(2002年徳間書店)を読んでいく。」・・・

 予定だったが、その前に『画商の眼力』 長谷川徳七(講談社 2009年1月刊)の紹介をしておく。

 書店で偶然に手にしたものだが、その第四章は、

 ★<私が見抜いた贋作> とあり、「佐伯祐三真贋事件」について語られていた。
  (*長谷川徳七は「世にいう『吉薗コレクション事件』です。・・・」という。)

 先ず、その部分の引用から。

 ***************  


 『画商の眼力』 長谷川徳七 講談社 2009年1月7日


 ●私が見抜いた贋作(p162~)

 ★佐伯祐三の贋作を目にして


 あれは確か1993年初頭、私がまだ東京美術倶楽部の鑑定委員に入っていた頃の話です。
 東京美術倶楽部とは、1907(明治40)年4月、美術商が集まり設立された株式会社です。
 設立当初は、お茶の道具や古美術を扱う骨董商で主に組織され、その後、日本画も取り扱うようになり、作品交換の場、売り立ての場として活用されました。
 近年になって洋画も扱い始めましたが、洋画については歴史が浅く、また組織の中に洋画がわかる人間がほとんどいなかったため父(*日動画廊の創業者・長谷川仁)が呼ばれ洋画を扱う会を始め、さらに後年、洋画の鑑定会も行うことになり、私も鑑定委員として加わっていました。

 ある日、鑑定会に行くと部屋に変な絵がずらっと並んでいました。
「ちょっと、これ何です?」と、そばにいた鑑定会委員長に尋ねたところ、興奮した面持ちでこう言いました。

 「見ればわかるでしょう。佐伯祐三だ」
 「バカを言っちゃいけません,こんなの佐伯祐三が泣きます。話になりませんよ」

 油絵が30点近くと、水彩も20点ほどありましたが、水彩など、たった今描いたように丸まっていたからです。それよりも何よりも、絵がまるで佐伯祐三とは違いました。

 委員長はさらに続けました。
 「いや、そうはいっても、
Y先生☆がいいと言ったんだ」
 「冗談じゃありませんよ。誰が言おうと、こんなのはダメです。断じて佐伯じゃありません」


 ★一歩も引けない「思い」 


 Yさんは二科の作家であり、佐伯祐三のコレクターで知られた実業家・山本發次郎さんの所蔵する佐伯祐三の55点の絵を管理していました。業界では、Yさんといえば、「佐伯祐三がわかる」ということで通っていました。
 ですが、今回のことについて一歩も引くつもりはありませんでした。
 日動画廊では没後10年ごとに佐伯祐三の回顧展を開催していましたし、佐伯その人に父は会ってはいないものの、奥様の米子さんとはその後、付き合いがありました。
 それに米子さんから佐伯のライフマスクを戴くなど、佐伯に関わってきた経緯がありました。
 私自身も佐伯祐三の回顧展を行い、特に没後40年の大回顧展は大成功をおさめたことで、山本發次郎さんの子息の靖雄さんも大変喜んでくれ、靖雄さんとは、それを機に密なお付き合いが始まりました。
 また、彼の亡くなる前に「コレクションを寄贈しようと思います」と相談をいただきました。そこで、55点のうち5点はご家族に、48点は大阪市の美術館、1点は三重の美術館、あと1点は国立近代美術館に寄贈といった具合に差配しました。

 こういった経緯がありましたので、佐伯祐三については妥協できない間柄であると自負するところがあったのです。

 私はYさんに電話をしました。

 「先生、絵を見たんですか?」
 「いや、長谷川君、あれはなかなかのものだよ」
 「何がなかなかなんですか?」と聞きましたところ、資料がどうこうと説明を始めるのです。どうやら、きちんとは見ていない様子でした。
 「先生、資料に騙されたらダメです。とにかく、ご自分の目でもう一回見てください。あんな変な佐伯祐三なんてないですから」

 数日してYさんから電話がありました。
 「悪かった。確かにあれは間違いだ」 と、Yさんは誤りを認めました。 


 ★大量の「ニセモノ物証」 


 Yさんが現物をしっかり確認せずに、そう判断したのも理由がありました。ここでは
Kさん☆としておきますが、評論家であり、美術館の館長を歴任し、全国の美術館人事に多大な影響力を持っていたキングメーカーが「本物」と言ったからでした。それに異を唱えることなど、とうていできはしない空気が形成されたのでしょう。

 ですが、よく考えれば、Kさんは日本画の評論家ではあっても、佐伯祐三に精通した第一人者ではありません。洋画でいえば、青木繁の画集を出しており、青木繁については権威ということになっていましたが、偽物2点にまでサインした過去があります。洋画に関する鑑定には残念ながら疑問符のつく人であったと、私は思っています。

 そのKさんも、ある意味犠牲者でした。大量の佐伯祐三の未発表作品を秘蔵していると名乗り出た、吉薗明子という人物が言葉巧みにKさんに取り入り、その言質をとったのです。

 世にいう「吉薗コレクション」事件です。☆「芸術新潮」1996年4月号などで、大きく報道されました。

 Kさんをはじめ、巻き添えとなった何人もの評論家たちが騙されてしまったのは、絵だけではなく、日記、書簡といった大量の「ニセモノ物証」です。

 これらの、絵をはじめとした作品を長らく秘匿していたのは吉薗周蔵。吉薗明子の父親でした。

 美術史家をはじめ、佐伯祐三の専門家たちは、初めて耳にするその名に戸惑いを隠せなかったといいます。

 佐伯の人生の横合いから不意に現れたこの男は、精神科医であり、佐伯の主治医であり、はたまたパリでの生活資金を出資したというほど、佐伯の人生に深く関わっていたといいます。

 そうでありながら、佐伯家の人間は吉薗の名を聞いたことがなかったのです。


 ★科学鑑定の結果は・・・


 当初、私はそうした手紙や日記といった資料にあまり興味を持ちませんでした。佐伯の全貌を知るうえでの驚愕の新事実として持ち上げ、興奮した口ぶりで語る人もいましたが、あいにく私には、ミステリーもどきのストーリー展開に関心はなかったのです。
というのも、この目で見た未発表の佐伯祐三の絵とやらが、あまりにも稚拙だったからです。
 贋作であることは一目瞭然。これを本物だと言っては画商の名折れであり、何より佐伯の画業を冒瀆することにほかならないとしか思えませんでした。

 当時、東京美術倶楽部の鑑定委員会では、私を含めた大半の委員が「吉薗コレクション」について否定的な意見を持っていました。
 しかし、書簡をはじめとした資料の存在から見極めに迷う人もいたため、絵画専門の修復家・
K・Mさんに科学鑑定を依頼することにしました。
 K・Mさんによれば、研究所に絵が運び込まれたとき、すでに独特の異様なにおいを嗅ぎとったといいます。それは以前、台湾で作られた梅原龍三郎の贋作を鑑定したときと同じ“異臭”がしたそうです。
 科学鑑定は全作品について丹念に行われ、2ヵ月を費やしました。結果は思った通り、「すべて偽物」でした。
 K・Mさんの「絵画調査報告書」によれば、油彩については「キャンバスが酸化していない」「下地が油性で佐伯のものとは異なる」「作品はまだ油のにおいがする」「絵の具は比較的に新しく、樹脂用溶剤に溶ける」とし、また水彩は70年も経てば水を弾くような変化を見せますが「いずれも水を吸収してしまう」とし、描かれてから数年しか経っていないこと
を立証しました。
 全面的に「クロ」の判定に一件落着と胸を撫で下ろしたのですが、そうはいきませんでした。

 この鑑定結果が、むしろ火に油を注いだかのように、吉薗コレクションをめぐる騒動はいっそう激しさを増していくことになったのです。


 ★おいしい話に感じた。“きな臭さ”


 吉薗コレクションをめぐる騒動で、皮肉なことに私は改めて自身が画商であることの強みを感じたものです。
 商売をしていると、あの手この手で人を騙そうとする魂胆の持ち主とときに渡り合うことになります。
 そういう人たちの言動には、多くの場合、特有のきな臭さを感じるものです。
 「吉薗コレクション」については、まさにそうだったと言えます。

 没後70年経って急に150点もの大量の作品が現れた。しかも、それは以前、吉薗が住んでいた千葉の寺の本堂に風呂敷で無造作に包まれていたといいます。
 「しかるべき時期に公開するように」という父親の遺書はあったものの、その風呂敷の中身が何であるかは知らなかったというのです。なんとも緩急のついたエピソードではないでしょうか。

 巧みなのは、「絵画を数点買ってもらったら、あとは寄贈する」と言って地方に働きかけ、美術館の設立計画を持ちかけたことでしょう。

 佐伯の真作は1点1億から2億円もします。数点といっても莫大な金額になるでしょう。

 「地方を活性化させる目玉になる」といったおいしい話やKさんのお墨付きを添えて、吉薗は宮崎県都城市や岩手県遠野市、福井県武生市(現越前市)に寄贈を申し出ました。
 3市はいずれも寄贈受け入れに動き始めたものの、詳しいいきさつは省略しますが、準備を進める過程で不審な点がいくつも浮き彫りとなって、計画はいずれも中止となりました。

 このうち、武生市が寄贈受け入れに進みつつあった
1994年12月、私は東京美術倶楽部の三谷敬三会長とともに開いた緊急の記者会見場でこう述べています。
 「油彩30点、水彩10点はすべて偽物と鑑定。そのうちの1点は、武生市が購入予定と公開したものと一致した」
 そして、東京美術倶楽部の会員には、「これらの作品を扱わないように」と注意を呼びかけました。

 これは一応、内輪に向けた警告の体裁でした。目先の欲得につられて右往左往している人たちに、今いちど冷静になってもらいたいという願いを込めたのです。
 この記者会見後、事態はいよいよ醜悪な展開を見せることになりました。武生市が5億円で購入予定にしていた作品11点を、こともあろうに吉薗は不動産管理会社に4億円で売ったのです。「作品の散逸を防ぐためにはお金が必要」との説明が行われたといいますが、贋作の疑いに加え、信頼を損ねる行為を問う声の高まりから、武生市もついに計画を断念しました。

 こうして、多数の人を巻き込んだ吉薗コレクション騒動もようやく幕引きを迎えたかに見えました。
 しかし、またしても安堵することはかないませんでした。

 最終的な局面にあたって、なんとこの真贋問題が法廷に持ち込まれ、東京美術倶楽部の鑑定が「虚偽」だと訴えられたのです。
 腕まくりして受けて立つのも、やふさがではありませんでした。しかし、そうはいっても裁判官に絵に対する造詣を期待するわけにもいきませんし、まして真贋を判断してもらうわけにもいきません。

 「見た感じが違う。だから佐伯祐三ではない」と言うのは簡単ですが、裁判では、それは通らないのです。
 ぐうの音も出ないほどの、はっきりした証拠を出さないかぎり、裁判で勝つには難しいのです。
 ただ、絵画の科学鑑定の結果は明らかでした。法廷で感性の話をしても仕方のない話ですが、データならば証拠として使えます。絶対に勝てるという自信は当初からありました。


 ★関西弁で書かれた「証拠の手紙」


 もうひとつの大きな争点は、古薗周蔵が佐伯祐三と交わしたとされる書簡、佐伯について詳しく綴っていると称する日記でした。

 被告として訴えられた私たちは、ひとつひとつそれら資料の依拠する証拠を根気よく潰していくために、吉薗周蔵の経歴と足跡について徹底的な調査を回始しました。

 まず吉薗周蔵がパリに滞在した際、泊まったというホテル・リッツを調べました。
 パリの老舗ホテルは戦前からの宿帳を保存してあり、日記に書かれた時期に宿泊したかどうかを調査したのです。
 ホテル側からは「そういう男は泊まっていない」との回答がありました。
 さらに、1924年から1928年にかけて、佐伯祐三がパリから日本へ送ったとされるハガキも偽造でした。パリの郵便美術館の担当者の証言によって、当時実施されていた郵便の規定の料金とも、消印ともまったく異なるものであることが明らかにされたのです。

 また佐伯祐三の出したというハガキの文面が大阪弁で書かれていました。
確かに佐伯は大阪出身です。ですが、大阪弁であろうと東京弁であろうと、東北弁であろうと九州弁であろうと、方言で手紙を書くなんていうことは、普通に考えれば違和感このうえありません。大阪出身だから大阪弁で書けば信憑性が高まると考えたのでしょうか。

 つまり日記も手紙も何者かによって、ことごとく偽造されたものでした。しかし、そんな調査も必要がなかったことが明らかになりました。

 
そもそも、吉薗周蔵はパリはおろか、日本国外に一歩たりとも出ていません。外務省が吉薗周蔵にパスポートを発行していないことがわかったからです。

 さらに、精神科医という職も経歴詐称でした。吉薗周蔵は九州の炭坑で働いており、東京に出てきてからは市電の運転士をしていました。戦争が激しくなると千葉に疎開、寺に寄宿しつつ、按摩と豆腐店で生計を立てていました。

 ここまで明らかになっては、
相手もさすがに、どう弁明したらよいかわからなくなったのでしょう。「吉薗周蔵は日本陸軍の特務機関で働いていました。そのため名前も変わっているし、パスポートも必要なかった」こんな苦しまぎれの抗弁をしてきたのです。

 2002年7月、東京地方裁判所は、吉薗コレクションのすべてを贋作と判定しました。吉薗明子が別件の詐欺事件で逮捕されてから、およそ3年後のことでした。

 ここまで大掛かりな贋作事件はそうそう見当たりません。そういう意味では、忘れがたい記憶になっています。 (p174) ***************

 
 以上でひとまず『画商の眼力』の引用・紹介は終わり、次に【眼力のレベル】をチェックしていく。
 
 文中、無意味にイニシャルのみで済ませられている人名を先ず特定しておきたいが、

 「事件」の経過を整理した格好の著作があるので、それを紹介するなかで、人名の特定も

 なされると考え、ここでは略す。  


 長くなりすぎたので、稿をあらためて、<続く>。 
  
 正直なところ、一読後私はこの著者に「哀れみ」を感じたし、編集者(著者と永年の付き合いがあるという)の編集能力のなさに同情も感じていたのだが、どうやら勘違いだったらしい。
 己の致命的な瑕疵については、巧みに隠蔽していることに気づいたからである。
 確信犯なのである。

 特に顕著な一例を挙げれば、「1994年12月、私は東京美術倶楽部の三谷敬三会長とともに開いた緊急の記者会見」の描写で、この「真贋事件」の最重要の争点=テトロン混入問題を無視していることである。これについては、後ほど詳しく述べる。

 最後にいま1点、<相手>の実名も挙げて批判する著者・長谷川特七は奇妙なことに、最大の<相手>の実名はおろか、イニシャルさえも挙げようとはしない。

 落合莞爾氏そのひとの。

 

●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』
 ●第2部 第3章 3 陶磁学者・佐藤雅彦  

 昭和30年、貴志彌次郎の養子・重光が、千葉市横戸の明星寺に隠棲していた周蔵を尋ねてきた。和歌山に在った古陶磁を神戸の金持ちに売り込んだのはいいが、先方にも眼力のある者がいて、それを真贋混淆だと指摘してきた。そこで、「これらの焼き物は本物だとの一筆を書いてくれ」と依頼してきたのである。

周蔵は現物を見もしないで貴志重光の頼みを断った。和歌山には奉天以来の古陶磁が真贋1式併存するとはいっても、3箇所に分別保管されており、混淆するはずはない。混淆しているなら、それは徳川家の内部で意図的にしたものと察し、自分が関与することではないと判断したからである。

 昭和34~5年頃、佐藤進三の子息で大阪市立美術館の学芸員の職にあった佐藤雅彦が周蔵を訪ねてきた。佐藤進三は、チヤの当時の夫・中沢明四の叔父にあたる下北沢の杉本という骨董屋と業者仲間だったから、中沢とも親しかった。中沢らは佐藤雅彦を大阪市立美術館の学芸員にしようとし、慶応時代には学費を援助した。佐藤らが大阪市立美術館を目標としたのは、そこがフランス文学者小林太市郎の根拠だったことと関係あるように思われる。小林博士は昭和18年、軍部に繋がる東方文化学院京都研究所の委嘱により、ダントルコールの『中国陶姿見聞録』を翻訳した。ダントルコールは18世紀のジェスイット会の僧侶として、布教の名目で景徳鎮に潜入し、窯業技術を仔細に観察して長文の手紙でフランスに送った1種の技術スパイである。その手紙を小林博士に翻訳させた黒幕は甘粕であるが、その目的は少しでも佐那具窯の役に立つようにと考えたものだという。因みに、内藤匡博士の名著『古陶磁の科学』も、同様に軍部(おそらく甘粕)の支援によって、成立したものである。

 昭和26年、慶応大学文学部を卒業した佐藤雅彦は大阪の市立高校で数ヶ月空席待ちをした後、目的の大阪市立美術館に就職することができた。佐藤雅彦は中沢明四を通じ、周蔵に「小森先生から『三井良太郎図譜』のことを聞いていたので、自分のこれからの研究のために、是非預からして頂きたい」と言ってきた。周蔵は中沢の口利きもあって、快くそれに応じ、『北宋紅定盤ロ瓶』図1枚だけを手元に置いたまま、残りの4百数十枚を佐藤雅彦に貸し与えた。ついでに『奉天図経』のうち1、2冊を貸し与えた。

 周蔵は昭和39年10月に他界した。周蔵の死は昭和37年に始まった「佐野乾山事件」が遠因をなすのであるが、そのことは別稿に譲らざるを得ない。

その頃、裏千家の丸山野宗匠について茶道を習っていた明子は、ときどき宗匠から茶道具の購入を勧められた。最初は5、6万円の茶碗だったが、周蔵死去の直後、鶴首の1輪挿しを70万円で勧められた。母に相談したところ、金は出してくれたが、しげしげとその花瓶を眺めていた巻は、翌日関西に旅立った。巻は佐藤雅彦に会い「このような贋作を売るとは何事か」と糾問したところ、佐藤は「自分はやっていない。それはHという骨董屋が、扱っているのだ」と弁解した。茶道具は必ずしも真贋を問わない世界だから、それでいいという説明であった。

 明けて昭和40年、佐藤雅彦が中沢の家に来て、吉薗巻と明子の母子も、呼び出されて中沢家へ向かった。巻が「焼物の勉強はその後、捗っていますか?」と問うと「あの『三井良太郎図譜』は、例の古陶磁が1括して売れるので、それに使います」と言っていた。

 佐藤はその後『三井良太郎図譜』と『周蔵三井合作図譜』のほか『宣統帝愛蔵品図録』と書いた紙と『由来書』なる紙を持参し、「これが上田恭輔が書いた本物であり、吉薗家に在ったという証明が欲しい。それも印鑑証明付で頬みます」と頼んできた。巻とチヤが見ると、原物とは違う字体である。『合作図譜』の絵も別人が描いたものとすり変わっていた。

 「これは貸したものの状態と違う。また文字も違う」と指摘した巻との間で、激しい口論になったが、佐藤は「これは、必要があって原本を書き直したもので、字はHという骨董屋が書いたもの」と説明した。

 「そんなことは周蔵の遺志に反し、書ける道埋がありません」といい、さらに「それじゃ、上田恭輔さんが偽物を造っているのを憂慮した周蔵が、この図譜を造ったとでも書けばいいんですか?」と皮肉をいうと、佐藤は「そんなことを書いてもらっては困る。お父さんはもう亡くなられたんだから、いいじゃないですか」となだめようとした。

 要するに、一緒にやって利益を分配しようというのが、佐藤の申し出であった。佐藤と古陶磁商が組んだ善からぬ策謀に気がついた巻は、中沢に預けてあった『奉天図経』の1冊をちらりと見せた。「うちにはその図譜の他に、こんな本があって、ホンモノの存在数も明記してあるし、寸法や特徴、原寸大の模様までハッキリ判るから、これに当てると真贋はすぐに判る。貴方が骨董屋と組んで変なことをするなら、私はこれを本にして、世の中にバラシますよ」といって、佐藤を一蹴した。

 翌日、佐藤はHを連れてきた。「自分たちは、この図譜を裏付けにして、もうモノを動かしてしまったのに、今更そんな本を出されては、迷惑します」というのは、要するに『三井良太郎図譜』を使って、倣造品を売ったということらしい。図譜の絵に似せてそれらしく造った倣作を、図譜と照らして見せると、買手は納得したものらしい。吉薗ツヨミが佐藤とHに対して協力を断ると、神戸のヤクザと称する者から脅迫電話が入ったが、効果がないと知ると、今度は『奉天図経』を売って欲しい、と申し込んできたがむろん断った。

 吉薗巻はこの1件を告発しようとした。ところが巻が相談した弁護士が、双方の知人に洩らしたため、茶道界が混乱することを憂慮したその人は、この件を思いとどまるように勧告してきた。混乱を意に介しない豪気な巻も、すでに死期が迫っていたので、この件を解決しないまま、昭和45年に他界した。存命ならば必ず告発したであろう、ということである。

 昭和47年、佐藤雅彦は突然京都芸術大学教授となって周囲を驚かせた。佐藤は学内で順調に出世して、49年には学部長となった。53年に『中国陶磁史』(平凡社)を著した佐藤は1部を池田チヤに献呈した。佐藤は、54年には小林太市郎訳注のダントルコール『中国陶姿見聞録』(平凡社東洋文庫)の補注をしている。

 一般に古陶磁書は、美術館の関係者同士がお互いの蔵品を盥回しにして、学芸員が若干の解説をしたものばかりだが、佐藤雅彦の著書『中国の陶磁』はその点ユニークで、ここにしか出てこない珍しい中国古陶磁の写真が多い。実は、その大半は『奉天図経』と『三井良太郎図譜』に描かれていたものである。また『中国の陶磁』の品名や解説文は『奉天図経』の第1冊を見て書いたとしか考えられない記載で満ちている。

 昭和53年、佐藤はついに京都芸大の学長となり、3年間その座を占めた後、58年には教授に戻り、62年には大学院の研究科長となった。このとき脳溢血で倒れた。昭和62年7月、佐藤教授は左手の麻痺を抱えたまま、古陶磁専門家としては異例なことに、北海道立近代美術館の非常勤館長に就任した。全国の美術館の館長人事を壟断していた河北倫明の工作によるものであった。

 翌年3月23日他界した佐藤は、結局、吉薗から借りた『三井良太郎図譜』『周蔵三井合作図譜』および『奉天陶磁図経』の一部をついに返却しないままであった。


 4 河北は知っていた 


 匠秀夫の「未完 佐伯祐三の『巴里日記』」に河北倫明の序文がある。その末尾を掲げる。

「・・・すでに門地を壊してしまったほどの周蔵には、片々たる名利などまったく眼中になかった。どこまでも社会の黒子に徹して自己流の人生を行った吉薗周蔵が、城山で自尽した郷里の大偉人西郷隆盛の熱烈な崇拝者であったことを、私は特に意味深いものと受け取っている。匠さんのこの本が、この異風の人物にも一定の照明をあてる機会を作って下さったことを、喜ばずにはいられない」

 吉薗明子は河北と知り合って以来、次のような話を何度も聞かされたが、ついにその意味が分からなかった。「まあ、焼物なんかは、ぼくは芸術と認めていないから、あれでも良かったんだが・・・絵画は芸術だからねえ・・・とにかく佐伯なんかどうでもいい。ぼくは佐伯なんて大嫌いだよ。・・・それより周蔵だ、吉薗周蔵のことが分かれば、すべてはっきりするんだ。とにかく周蔵を調べろ」

 明子はそれを、河北が「嫌いな佐伯だが、無理に応援してやっているんだ」という恩着せと理解し、そのたびに何かと御機嫌をとった。それにしても、河北がいつも焼物のことだけを持ち出すのが、不可解だった。

 実は、河北は最初から吉薗周蔵について知っていた。

 それは佐藤雅彦を通じたものだった。佐藤雅彦は父の進三が京都の出身で、自身も京都住まいが長かった。河北が京都国立博物館長を勤めていた永い間を通じ官舎には入らず、高級和風旅館の柊屋を常宿にしていた。佐藤は美術館行政のボス河北の知遇を得、京都でさらに昵懇の間柄となり、その政治力を活用しながら、茶道関係とも深い関係を持ち、真倣ともどもに陶磁を動かしていた。その中には奉天古陶磁(ホンモノ)も、かなり多かったのではないか。

 古美術の談義は、来歴から始まる。佐藤は紀州古陶磁を河北に説明するに際し、関係者として吉薗周蔵の実名をあげ、小森忍から聞いた話を詳しく伝えた。河北が吉薗明子が周蔵の遺児と知ったとき、何とも不思議な態度を見せた鍵は、ここにあった。

 昭和61年頃、佐藤雅彦から、元首相も臨席するというパーティーに招待された池田チヤは、和服を新調して出掛けてゆき、席上で河北倫明と画家の稲垣伯堂に会った。チヤは旧知の河北からかねがね、稲垣はやがて文化功労者になる手腕と聞かされ、作品の購入を勧められていた。河北が佐藤と稲垣を従え、元首相のいる前でチヤに、「佐藤君の所の図譜は中途半端だから、真贋を区別するのに、役にたたない。佐藤君から聞いたがおたくには吉薗周蔵が奉天で写した本があるそうだが、それを持ち出せば本物の説明ははっきりとつくから是非稲垣君に見せてやっていただきたい」と頼んできた。その後、稲垣の絵を送ってきたがチヤはそのまま返却し、結局『奉天図経』を見せなかった、ということである。

 昭和62、3年頃、北海道立近代美術館が多数の中国陶磁器を購入したという噂を最近耳にした私は、そういえば稲垣画伯が「古陶磁を北海道美術館が数多く買いにきた」と語っていたことを、やっと思い出した。明細はさっぱり判らないが、その中には奉天伝来の秘宝もあるのだろうか、見てみたいものだと思う。

 佐那具や大連の陶雅堂窯、さらに大連市の夏案子で造られた倣古品や贋造品は、旧特務機関員らが、にわか茶人となって、茶室を舞台にして世間に売り込んだ。陶磁学者として1派をなした小山富士夫もそれに加わっていた。関東では、日本橋にあった某美術店と湘南の某料亭が、関西では有名な超一流料亭がその舞台である。湘南某駅の近くで、旧軍の特務機関員につながる女性が料亭を経営していたが、茶会にことよせて大量の佐那具物・満洲物を売っていた。日本橋某美術店も、その店頭に佐那具・満洲物の実物やポスターを飾り、古陶磁マニアに売りつけていた。佐那具物を目利きしていたのは、そつ当時東京国立博物館に勤めていた某専門家で今や世界的な陶磁学者になったが、若年の頃、某美術店のパンフレットに執筆していた。

 それを聞いた私は、にわかに覚るところがあった。平成3年、私は紀州文化振興会の『陶磁図鑑』に手紙を添えてその学者に贈呈した。通常なら、贈呈品が気に入らねば、受け取りを拒絶するか返送すればいいし、まあ受け取って置こうという気持なら葉書1枚の礼状を出すのが学者の慣例なのに、まるで反応がないので、何となく不審に思っていた。また、平成4年に岸和田市の展覧会のとき、たしかにその1派が贋作攻撃の背後にいることを実感した。人から「落合センセは何かで恨まれてるんと、ちゃいますか?」と言われたが、心当たりがなく首をひねっていたものだが、その謎がこれで解けた。私は自分でも気付かずに、倣造陶磁シンジケートの営業妨害をしていたのである。

 佐那具物・満洲物の倣造陶磁シンジケートは関西にも売店を持ち、佐藤雅彦の目利きで商売していたという。やはり特務機関員だった人物が経営する画廊喫茶では、今も佐那具・満洲物とみられる陶磁器を展観している。そこに出入りしている美街商の伝聞では、「幕末に五代才助が上海に渡り大金で買ってきた陶磁器で、入手した紀州の医師が持ち山の蜜柑山に横穴を掘って隠匿していたもの」だという。そのような史実はありえないが、和歌山=医師=蜜柑山という3題噺にその出自をしのばせるものがある。満洲物や佐那具物を保管したと伝えられる徳川家の菩提寺はたしかに蜜柑の名産地にあるからである。

 佐藤雅彦はじめ居あわせた学者連が見守る眼前で敲き割り、一同に配ったという 釉裏紅の一片をもらった私が検査してみたら、周蔵手記に明記された倣造品の証拠が歴然としていた。真品と信じて購入したのなら被害者ということになるが、真相はそう単純ではないと思われる。

 佐那具・満洲倣造品の販売シンジケートは旧特務機関員を中心としたものである。シンジケートは、流派茶道の関係者を加えて、茶会を利用したパーティー・セールスをしていたが、販売拠点としては東京日本橋の某美術店や関西の某高級料亭が選ばれた。いずれの場合にも、目利き(販売促進のための鑑定)をしたのは佐藤雅彦などの陶磁学者だそうである。なかでも特別によくできた品は、仲間の東洋陶磁商が、公立私立の美術館に売り込んでいたものらしい。

 伝えるところによれば、松永安左エ門や畠山一清も晩年佐那具窯の贋作を買い、それは、小山富士夫によって重要文化財に指定されたという。また、風聞では、以前に静岡県所在のM美術館が、購入した李朝物を展観したところ、数人の古陶磁専門家が押し掛け、当分展観を見合わすように館側に対して懇請したといわれている。他の美術館でも、古陶磁を買うだけ買ったが、いまだに展観をしていないところが多いという。事情ははっきりしないが、展覧できない理由があるというのだ。

 佐那具物・満洲物は、今日の日本の古陶磁界において、妖怪のような存在である。それが誅戮されないのは、その道の権威が深く関わり過ぎたからである。

 昭和37年の★佐野乾山事件も、各地の美術館や収集家に売り込まれた大量の佐那具乾山の存在が原因であろう。佐野乾山の出現によって、それがあぶり出されることに対する怖れから行われた贋作攻撃と私は確信する。

 ★【佐野乾山事件】についても、前記、大島一洋・『芸術とスキャンダルの間』で1章が割かれている。
 第五章 佐野乾山騒動 まっぷたつに分かれた真贋の行方

 ●『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』  <了>

 





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