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●『聞書・庶民烈伝』 竹中労  太田昭宏「青年部長」との対話 
 ●『聞書・庶民烈伝』 竹中労 復刻版 三一書房

 三一版では、(上)p304~311
 旧・潮版では、第2巻、p187~197 

 ●〔太田昭宏青年部長との対話〕 1984・6月―東京都信濃町、喜久屋

太田: ぼくは学生時代に、竹中さんの本を読んでいます。マスコミ論・芸能論・・・

竹中: この職業をはじめて、そろそろ30年ですな。いろいろ書きましたが、満足できる本は何冊もない。ルポルタージュの方法論だけは、だいたいあらゆる分野の試行を終りました。
 いまは、単に古いと言われるだけ。『潮』のこの連載は、編集部にワガママを言わせてもらって、その古い方法でやっています。

太田: 去年(1983年)の暮の選挙で、全国の知り合いに電話しました。高校時代の友人に思い出してフッとかけたら、竹中さんの話なんですよ。手紙にまで書いてくる、本を買ってみたって。創価学会について知識もないし、好きでも嫌いでも何でもなかった。だがこの本を読んで、考えが変ってきたと言うんです。

竹中: どう、変ったんですか?

太田: 普通にみることにした、と。

竹中: やっぱり、偏見があったんだなそれは(笑)。

太田: そうですね、「普通にみる」と言う言葉は、グサッときましな。考えがちょっと及ばぬぼくらの活動の盲点を、指摘された思いでした。

竹中: かなり、優秀な青年ですね。

太田: いや、女性ですよ(笑)。

竹中: 参ったねえ、これは私も盲点を衝かれた。

太田: オバサンにもてるそうですね。

竹中 からかわんで下さい。外山クン何か言ったな?

外山 さあ、関知しません(笑)。

太田: 古くなんかないと、そう思っていただきたい。

竹中: あなたに会いたいと編集部に申し入れたのは、これが本題だけれど、若い子たちに会うとかならず太田昭宏の話題が出るんです。やがて、庶民烈伝の東京・下町編に登場する中野輝子さん、彼女の息子さん、それに、“新右翼”の野村秋介に可愛い娘がいるんだが、この娘さんなんかも、青年部に打ち込んでいますな。
この連載では、もっぱら大昔の青年を対象にしているわけで(笑)、そろそろ現在の若者と接点を持かなくちゃ、と考えているのです。

太田: わかりました、御批判もあるかと思いますが。

竹中: 大いに、語りましょう。 


 <第六章 行け小さき者よ!> の終わり近くから <第七章 涯なき荒野の上、吹きすさぶ氷雪の中を>にかけて↑のような対談がある。

 24年前の公明党委員長(当時青年部長)との対談、興味尽きないものなので、紹介しておこう。
 竹中労の予言=「・・・やがては学会の主戦投手となるであろう」は今のところ的中したようだが、只今の評価は如何なものだっただろう。

 紹介を続けます。

 *************** 


 ●第七章 涯なき荒野の上、 吹きすさぶ氷雪の中を

 ★創価学会・三つの“青春” 


竹中: 率直に言いますが、創価学会はラジカルな過激な宗教団体であるという印象を、私たちの世代は持っています。とりわけて昭和30・31年、〈小樽問答〉〈夕張事件〉のころ、私は地方で中小零細企業の労働運動にたずさわっておりました。
 ついでに文化活動も。ご存知のことと思いますが、当時は。六全協、日共が方針を全面転換・歌って踊って恋をして純潔だけは守りましょう(笑)、「うたごえ運動」民青ですな。争議などあまり烈しくやると、経営者と労働者とは手を組むべきだと党が介入してくる。火焔瓶闘争の敗残兵としては、欲求不満にあけくれていたのですよ。

太田: 竹中さんは20代ですね、そのころ。

竹中: 後半にさしかかって、家もなく金もなく恋もない・苛立ちは相乗する。10よりもある意味では、不穏な青春と言えます。そうした心象風景に、「暴力宗教」と世にはばかる創価学会はいっそ羨しい存在で・・・

太田: なるほど、わかりました・何を言おうとしておられるのか(笑)。

竹中: 選挙違反で仲間が逮捕されると交番や警察署にウワーッ、「南無・妙法蓮華経」。ああ、俺たちの代りにやってくれているわ(爆笑)。実際北海道をまわって、身延のニセ坊主どもを破折し、炭労と対決した戦後草創期の会員の話を聞くと、ひしひしとせまってきますね、当時の学会は過激に炎えていた。

太田: しかるに、今はと?

竹中: いや、組織が大きくなり時代も移りかわっていく。とうぜん、水割りになる、ストレートではなくなるのです。だがもとは同じ酒、信仰の原基に変りはありません。そのことは二百も合点で、“根問い”をしているのです。おそらく15年・いや10年の内に、日本の運命は大きく変るでしょう。
・・・核のカサの下にいて、「反核」を唱える矛盾。あるいは、経済を政治から切り離す虫のよい“二元論”つまり、世界大乱・民衆の悲苦を他所に、ひたすら富を蓄積してきたエゴイズムが、決着をせまられようとしている。

太田: それは、まったく同感です。

竹中: 私ばかりしゃべって。申しわけないけれど、もうすこし。

太田: 拝聴します、学会批判もどうぞご自由に(笑)。宗教者として、信仰と思想の根幹を問われる時がもう眼の前にきていると、ぼくも考えています。

竹中: またぞろ、「靖国神社法案」が鎌首をもたげた。戦死者の霊に手を合わせるか・否かではなく、誰が何のために世論を操作しているのか? 言うまでもありませんな、国家による宗教の統制が次のプログラムです。
 戦前とちがって強権ではなく、“国民感情”に合意を求める。かくてまつろうものは国民・あらがうものは非国民、と低められ差別される。デモクラチック・ファシズムの総路線は礎定され、信仰の自由は犯されなしくずしに奪われていく。そこへ「国難来る?」、この国の支配階層は彼らなりの対抗策・すなわち、挙国一致を準備している。

外山: “国家諌暁”の予防措置ですね。

竹中: そういうこと、度重なる反創キャンペーンも、おなじ根から出ている。我々も、スタンバイをしなくてはなりません。私は水割りを肯定します、1人でも多くの衆生と共に進み、地湧の菩薩あらわれるとき、広言流布の彼岸を見なくてはならないのですから。だが、“生一本”の強烈な戦闘精神を、原点に戻ってまなび・血肉とすることが一方に必要だと思うのですよ。
 とくに・若い学会員諸君、誤解を招く言いようですが、彼らを武装すること。むこうみずであってもよい、ゆきすぎてもかまわない。〈小樽問答〉 〈夕張事件〉強敵破折・猪突猛進の激情で、“信仰のいくさ”をたたかい、その闘争の中から沈着な戦士に育っていくこと。

太田: 竹中さんは、学会の若い人々はおとなしすぎると?

竹中: いや、手紙をもらったり訪ねてくる人もいますが、激しいですよ。まあそういうたぐいの人にしか、支持されておらんのだろうけど(笑)。
 岸本加世子クン、私は彼女が学会員と知らないころからのひいきで、たびたび文章にもしています。この子なんぞは、かなり積木くずし風でもあるし・複雑にストレートで、学会の若い世代を過激に象徴しているんじやないかな。

太田: そのへんを、もう少し・・・

竹中: いや、当方の問題提起はこれで終りです。あなた自身の若者論・そして青春体験を聞きたい、いわゆる全共闘世代でしょう?

太田: ええ、そうです。ぼくが大学に入ったのは39年(1964年)、ちょうど佐世保・日韓条約にぶつかったわけです。安保闘争が終焉をして、三派全学連に流れていく。「新学同」を学会系も結成して、“学園闘争”をやる。そういう政治的な風景の中に、ぼくの学生生活は置かれました。とうぜん強敵破折(笑)、炎えたことは事実です。
 しかし、29年の入信で言えば創価学会2世ですからね。宗教を、ずうっとやってきました。学生運動の中での意義づけを、白紙にいったん戻してやり直さなくちゃいけない、と。

竹中: 宗教と革命とを、ね?

太田: ええ、内的な要因と外的な要因とのからみ・接点を、現実の政治闘争の場にどう定立するかという次元の高いテーマで(笑)、大いに悩んだのです。自分のやっていることは凄いんだ、そう思っていました。

竹中: 凄いのよ、当時の状況の中でねそれは。

太田: ベトナム反戦の高揚期、オルグ闘争ばっかりやっていてどうなるんだ。根本は民衆の原理・宗教を見ること、政治革命か、人間革命か。

竹中: ゆきつくところは、『立正安国論』『守護国家論』?

太田: 最初は、マックス・ウェーバー。

竹中: なるほど、なるほど。

太田: “宗教革命論”ですね。正宗の精神とプロテスタンティズムの倫理とを結びつけて、これは独創である(笑)。けっきょく池田大作先生が会長になられて、『立正安国論講義』や『御義口伝講義』などを出され
ました。仏法思想への回帰、でも廻り道にそれなりの意味はあったと思います。

竹中: 他を知らねば、これをするなりというのではなく。

太田: ええ、『庶民烈伝』に登場する草創期の会員のみなさんも、さまざまな宗派に影響されたり、無神論者だったりしますね。真の信仰に至る道には、紆余曲折があって当然。だから、ハッとするような思想的な発言が出てくる、決して頭ではなく人生体験から。

竹中: ・・・そう、「魔競わずは正法と知るべからず」

太田: マックス・ウェーバーは、魔だと今でも思っていません(笑)。戦後の学会には、おおざっぱに3つの青春があるとぼくは考えます。つまり、昭和20・30年代を、戸田城聖先生と共に闘ってきた第1の世代。この人々は言えば、戦争によって青春を奪われたりさいなまれてきた。それが、あの爆発的エネルギーの源泉になっている。
 第2の世代がぼくたち、“全共闘”の激動に身を置き、学会的には1970年(S45)「言論問題」にかかわった。戦後2度目の政治の季節と、若者として出会ったジェネレーションです。第3の世代は現在10・20代、竹中さん流に言えばきたるべき日本の運命と、世界の大乱を体験するであろう青年たちです。率直なところ温室育ちで、純粋培養的な脆さがある。

竹中: だれしも、1度は挫折をする。

太田: 確かにそうですね。学生運動が連赤リンチに総括され、ぼくらの場合は「言論問題」。政治的アパシーの無秩序状態、みたいなものがあって・・・

竹中: そこから、甦るのです。

太田: だが、スタンバイをしなくてはなりません。

竹中: あなたのように秀れた指導者がいれば大丈夫、これは世辞で言うのじゃナイ。第3の世代を戦士に鍛えあげて、戸田城聖のいわゆる「梁山泊」、百八の星々とする責任がある。

太田: アジられている(爆笑)、いや頑張ります。彼らはバランスのとれた現代風の性格の反面、命をインスパイアしたいという願望を持っている。だから狂信的(ファナティック)にではなく、我々よりしたたかな戦さをしてくれるのではないかと、実は期待しているのです。
 

 ★日本の運命は、ゆれ動く 

太田: 話は飛びますが、「勝手連」の田村正敏さん、どうしていますか?

竹中: 羊を飼って、元気ですよ。だが今年はご存知のように大雪で、6月まで消えないだろう。ヘタをすると農作物は収穫皆無、きびしい状況です。この間、ハート陣営から打診がありまして、来てくれないかと言
うんです。

太田: へえ、アメリカの選挙に!

竹中: つまり「勝手連」、バークレー大学の生き残り、“亡命”した旧全共闘メンバーが運動をやっている。これぞ、「日本赤軍」に怒られるかも知れないが鞍馬天狗路線。
 アメリカも変る、ハートでと私は言わない・彼は次の世代を担うでしょう。怒れる、そして考える若者たちのムーヴメントによって、アメリカ社会はひび割れる。ハートの運動やってるのは、かつてのヒッピー、精神荒廃のサンプルとされた人々なのです。
 これが、真面目になっちゃった(笑)。もう30後半から40ですわ、馬鹿やっちゃおられんのはあたりまえですけれど。

太田: ぼくも、こんど池田名誉会長とアメリカヘ同行をして、それは実感してきました。1枚皮をベロッとむくと、キャーキャーワーワーのヤンキー気質の反面精神的充足という安堵がない。さまざま話しているうちに、会場一杯に若者たちでふくれ上がってしまいました。それが、いま言われたヒッピーの往時の年齢と同じなんですね。

竹中: そう、宗教によって救われ立ち直った若者に千万倍する、ハッキリ言って「精神病患者」がいる。アメリカにとってのアキレス腱、だが裏返せば放っておくにしくはないのです。
 真面目になるってことは、国家権力に帰順するんじゃなく、マジメに反体制をやるってことなんですからね(笑)。第一仕事がありますか、経済の問題ですよ。ちょっと差しさわりがあるけど、学会も信者を増やして非行青少年を更生させたと感謝されたが、これがひっくり返ると考え変わってくるんじゃないかな、ガバメントとしては?

太田: そうですね、と思います。

竹中: ともあれ近い将来、アメリカに怒れる若者の造反がおこるのは確実だと、予言しておきましょう。

太田: ちがう角度で言います。これは本当に大事なことですが、「いまの若いものは」という短絡したご意見御無用、青年を信じ導いていただきたい。そして日本だけではなく、世界普遍の問題だということを認識
してほしい。
 火種はどの国にもばらまかれ、グローバルな規模で世紀末の危機をはらんでいる。まぎれもない実感として・ぼくら第2の世代は、そのことを見すえている。もっともラジカルだった第1の世代の理解と協力を、心から求めているのです。我々はそれをブリッジする、と。

竹中: 老・壮・青、三結合ですね。

太田: 毛沢東風にいえば(笑)、創価学会はそれを実践しています。一般論として、老人パワーの奮起をうながしたいわけでして。

竹中: それ、私のことだな(爆笑)。


・・・さわやかな対話である。太田昭宏という人に、『聖教新聞』『第三文明』そのほかの文章と発言を通して、格別の関心を私は抱いてきた。前章で述べた、若者たちの彼によせる憧憬にも似た期待を・実像は裏切らず、やがては学会の主戦投手となるであろう器の大きさを納得させた。めったに人をホメない私が言うのであるから、学会員同志読者諸君・これは掛値なしの評価でありますぞ。

  <了>。

 



 

 

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●『聞書・庶民烈伝』 竹中労
 ●第六章 誰そ我に、ピストルにても撃てよかし

 ★血で購われた宝島

 ブルース・リー主演『精武門』(邦題・怒りの鉄拳)に、上海を牛耳る日本人の武芸者団が中国拳法の道場に乗りこみ、「東亜病夫」と大書した額を置いていくシーンがある。本邦上映のさい、<不穏当な>表現は処理されて、作品の正確な内容はつたわらなかった(TV放映も同様)。これは、反日映画である。そして、<病夫>には弱者の他にもう一つの意味がある。阿片吸引者を指している。

 大日本帝国植民地経営は、どのようなものであったか? くわしく述べれば、枚数が足りなくなる。そこで巷談、バッタバッタ張扇の読み切り1席〈台湾統治史・略〉・・・

 これもシネマ、『西太后』。いったい何が目的でこういうゲテモノ、失礼! <超大作?>をば製作したかてえと、外貨稼ぎにきまっておる。日清戦争処理に当って、西太后は和平論者であった。徹底抗戦をとなえたのは光緒帝、映画はそういう政治的な史実を便宜に省略している。とまれ、台湾でもくれてやれということで1件落着、とは参らなかった。

 明治28年5月25日、巡撫代理(総督に準ずる)、唐景鬆を推して「台湾民主国」、独立を宣言する。同月29日、北白川宮能久親王の指揮下、日本軍大挙上陸、6月4日基隆港を占拠して、台北に進撃する。唐は大陸へ逃れ、7日無血入城。伊藤博文、台湾事務局総裁に就任。
17日、治政式挙行(この日を現在は国恥記念日と称する)、抵抗終らず、「大平天国」の残党黒旗将軍・劉永福指揮下の独立軍、各地に死闘を展開。北白川宮戦没、5ヶ月近くにわたってドンパチ。
乃木希典の率いる第2師団、11月11日来援。初代総督・樺山資紀が全島平定を大本営に報告したのは、同月18日であった。この間、台湾独立軍の戦死者は約1万4千・・・

 台湾統治の歴史は<匪乱>の歴史であった。総督府法務部編集による『台湾匪乱小史』を見ると、「全島ノ匪徒ソノ影ヲ没シタルハ明治35年」とある。実際はその後も、大正・昭和と反乱はくりかえし、「霧社事件」(S5)、134名の内地官民惨殺でようやく幕を閉じる。本島人、(中国系)・原住民(いわゆる高砂族)と分けなければ、反乱の態様と意味は明らかにならないのだが省略。総督は5代まで武官、中将以上をもって任用した。

 初代樺山資紀(海軍大将)/M28・5・10~
 2代桂太郎(陸軍中将、のちに総理大臣)/M29・6・2~
 3代乃木希典(同じく)/M29・10・14~
 4代児玉源太郎(同じく)/M31・2・26~
 5代佐久間左馬(同じく)/M39・4・1~T5・5・1

 おなじみ乃木希典、3代までは内政の実なく、もっぱら討伐鎮圧・また弾圧。によって単ゲバ、乃木さんの献策は「台湾全島民を大陸に放逐して日本移民と入れ替へるべし」(!) 
伊藤博文、そんなことはでき兼ねるとご高説をしりぞける。困りものだ、首を切る理由はないものかと思案のさなかに「非職事件」。

 高野孟矩・台湾高等法院長は硬骨正義の人、これも本篇第3章ご存じ<ケンセイ阿呆の鳴門>、当時の法務大臣・芳川顕正から娘との結婚を持ちかけられ一言の下に拒絶。「小生、閨閥を好まず。妻ならば自分で探しますゆえ、不悪(あしからず)」。何かにつけ角の立つお人柄、容赦なく官吏の汚職を摘発して、情状酌量ナシ。ゆうずうのきかぬ馬鹿であると、総督にザン言、中央に手をまわして追放運動。乃木さんてえものが素直なお方で、「左様か非職を命ずる」

 ・・・つまり、出仕に及ばず。ところが「非職に応ゼズ」、ガゼン開き直っちゃった。堂々と裁判所に出てくる、法廷で判決を下しちまう。乃木さん怒ったね、警吏に命じて法院長を手とり足とり担ぎ出すという前代未聞、喧嘩両成敗・総督更迭チョーン!

 4代・児玉源太郎、この人の統治下に台湾は面目一新、<近代化>を遂げたと言われるが、内実そんなものじゃない。児玉は日露戦争をはさんで、中央要職を兼務、総督の不在の間をとり仕切ったのは民政長官の後藤新平。道路を拓き・橋梁を架け・定期航路を設け・鉄道を敷き、なるほど経営の手腕をふるった。殖産局長に登用された新渡戸稲造、農林業を大いに振興する。樟脳の生産は世界1となり、砂糖は統治初年3万トンから160万トンに飛躍、台湾はまさに宝島の巨富を大日本帝国にもたらした。

 明治39年の経常歳入、25、656、672円(げんざいの貨幣惑覚でおよそ130兆円也)。うち樟脳をはじめ煙草・食塩等の専売収入、8、621、307円、全体の実に33.6パーセント。砂糖消費税は、2、399、987円で9・4パーセント。こうした数字をかいなでて見れば、「日帝」植民統治下、台湾はまさに楽土と富み栄えた。

 だが、誰のための楽土か? 砂糖全台湾生産高の98パーセントは、親方日の丸。「大日本製糖」によって独占され、現地人酷役の<膏血制度>、財閥&官僚利権の温床となる。農業発展の反面、地租収入2、893、551円(11.6パーセント)、隠田摘発によって農民は従来の3倍の重税にあえぐ。そして「東亜病夫」、漸禁政策を称しながら、阿片製造&専売による官営収益4、433、862円、歳入の第2位17.38パーセント。清国の統治下、阿片輸入税約80万円の5倍増。莫大な利潤と同時に<毒物投与>、台湾人士を骨抜きにする一石二鳥。阿片専売制度の廃止は、下って昭和20年6月17日。「大東亜戦争」敗北直前、台湾支配50周年のその日である。

児玉源太郎・後藤新平、<近代化>の実態はこのようなものであった。
 さらに加えて「匪徒刑罰令」、反乱未遂といえども死刑、会合の場所を提供したる者無期、住民連座制を施行して家族・郷党ことごとく投獄。かくて明治31~35年、1万1千95名の<叛徒>殺りく処刑された。5代総督・佐久間左馬太、その血史にさらなる地獄絵を重ね、明治39年の着任から42年の間に<生蛮征伐>18回(小掃討をふくまず)。

 佐久間は明治7年、台湾征伐のさいに陸軍中尉、「抜刀隊」を率いて生蛮百人斬りと錦絵に謳われた凶猛の士である。人間生涯のテーマ、青春の体験によって決定する。この鬼将軍にとって、台湾の統治は狩猟に他ならず、ひたすら原住民殺しに熱中した。とりわけ大正3年、太魯閤タイヤル族鎮圧、みずから1万1千余の将兵軍夫の先頭に立って、59門の砲を撃ちこみ205剃の機関銃を乱射、女子供を含む原住民3千人余を屠っている。日本人の大半、おそらくこの事実を知らない。現在の「中華民国」、台湾の人々もあえて過去を問わず、むしろ山地原住民=高砂族は、ニッポン統治時代に郷愁をすら抱いている。伝説の50年、彼らは言う。「悪いのもいたさ、だけどやさしい人も多勢いた。日本人は賢くて気前がよかった、兄貴みたいなものだった」

 この大河連載を、庶民衆生を軸に展開していると私が言う真意に、ご理会いただきたい。再び隔意の対岸に、日本と旧植民地の民衆を、分けてはならない。「日帝36年間」の夢魔は、在日韓国人指紋押捺拒否の叫びに黄泉がえる。それは、汎アジア&第三世界に、不気味な共鳴を拡げていくだろう。とりわけ若い世代の民族意識に、語りつがれる血の怨みは、彼らが体験しなかった残酷を、限りなく増幅していく。

 ★日本人、何をなすべきか? 

 ひしひしと迫り来る危機、タイ全学連の日貨排斥運動は、「少数急進分子のハネあがり」と称する日本外務省筋の観測を裏切り、世論となり政府を動かして、経済侵掠をむかえ撃とうとしている。急速に力を伸ばして国軍と桔抗するフィリッピンのNPA(ニュー・ピープルズ・アーミー)、民衆に檄して言う。マルコス反動売国政権を援助し、やくざ尖兵に同胞を堕落させ、生血を吸うイエロー・マフィア、アメリカ極東支配の共犯者、<醜い日本人>を祖国から追放せよ!
 マレーシアは親日の政策を改め、1973・反日暴動はインドネシアにもまた胎動する。

 四面楚歌の声、日清・日露戦争の時代よりも、「大東亜戦争」にもまして現在の状況はきびしい。亀裂を縫合する手だて、庶民衆生の連帯のほかになく、日本人はそれを覚らない。芋の煮えたもご存じない<買春観光ツアー>、「東亜病夫(弱者)」への凌辱。忘れねばこそ思い出さず候、植民地統治の血史を絡印のように胸に置いて、アジアの兄弟よ、恨みを棄てよと言うのである。ことばは苦くむなしい、このような異見は孤立する。

 だが、あえて問いかけよう。君たちも国家に (幻視の共和国をもふくめて)、一閻浮提=全人類を分割統治する、偏狭なる民族国家主義に、からめとられてはいないか、と。大東亜共栄圈のゆめを、逆しまに私は夢みる。庶民衆生の奈落から、<差別・搾取>が終わるときを、なべての国家が廃絶され・国境がなくなる世界を・・・

 ★『あこがれ』、5銭ナリ

 誰そ我に
 ピストルにても撃てよかし
 伊藤のごとく死にて見せなむ  (石川啄木)

▽明治42年(1909)*牧口常三郎・38歳
2   弁護士・平出修、『スバル』に資金を提供する。木下杢太郎、
同誌に『南竜寺門前』を発表。
15   北原白秋、処女詩集『邪宗門』刊行さる。
 3・30 東京府知事、浮草に流れぬよう近時の世相に警告を発する、
他府県もこれにならう。
 4・11 日糖疑獄、代議士24人連累検挙される。

〔註〕
 明治29年、駄菓子屋の鈴木藤三郎が製糖の業をおこす(日本製糖)。当時、日本には奄美と沖縄の他に砂糖生産の適地はなく、輸入に頼っていた。市井の発明家である鈴木は、日清戦争によって新領土となった台湾に着目して、植民地会社の設立を企てる。33年、新渡戸稲造の協力によって台湾製糖が発足した。株主は三井物産・宮内庁、井上馨が財政顧問に任じていた毛利家等々。わずかに4年後、日露戦争の37年には国内需要を充たすのみではなく、海外輸出の大成功。

 だが戦後不況、39年の夏に鈴木は社長の椅子を追われる。日本製糖・台湾製糖は合同、農商務省・農商務局長の酒匂(さかい)常明を迎え、渋沢栄一を相談役にすえて大日本製糖が誕生する。さらに、北九州の大里精糖を合併。現地中小零細業者を吸収、市場を独占する。配当6割4分という大盤ぶるまい、実は毎期粉飾決算、司直の知るところとなり重役全員が検挙され、賄賂を取っていた代議士も芋づる。

 同年7月、酒匂常明はピストル自殺をとげた。新社長に、三井財閥から送りこまれた藤山雷太が就任、経営全権を奪取する。かくて、財閥王国は着々と植民地に版図を拡げていくのだが、くわしくは第7・8章で。

 5 警視庁、「パンの会」を無政府主義者の集会と誤認(クロポトキン・『パンの略取』からの連想)、両国の西洋料理屋を包囲する。『江戸っ子新聞』いわく、「天下のお笑い草なり」 
 5・31 両国・国技館落成。
 6・10 幸徳秋水&菅野スガら、『自由思想』創刊・直ちに発禁。
 6・27 夏目漱石、『それから』を朝日新聞に連載。ひきつづき『門』『彼岸過ぎまで』『行人』 ※『明暗』は大正5年。
 7   森鴎外『ヰタ・セクスアリス』(スバル)発禁。


《活動写真・愚連隊・貧乏文士》 ―巷談・明治風俗史⑫

 この年、活動写真常設館は東京市内に70余を算える。〔興行資本数10万円を運転し、第1の流行地はむろん浅草公園第六区である。本所9ヶ所・深川6ヵ所これについで盛況。この春以来、芝居や寄席等に非常な影響を与へ、活動写真は満員でも、他は5分・4分の入り。甚だしきは百人足らずの不景気、一時は頭を擡げた浪花節も、ついに東京を逃げ出すありさま〕(萬朝報、7・31)

 こちらミナト横浜、〔不良少年・堕落学生等々、不生産的人物の結合せる団体組織、通称愚連隊は本拠を戸部・本牧・中村町方面に置き、婦女子を虐り(いたぶり)喧嘩を吹っかけ、刃物を以て威嚇し尻を捲って強請(ゆすり)を為すなど、あらゆる暴悪を敢てして世人を苦しめ居りしが、各署厳重に取締に当り、用捨なく拘引検束し懲戒を加へ、昨今ようやく平和〕〔ようやく安堵の色見えたる折、今度は堕落娘・お侠娘・淫売上り、女愚連隊があらはれて、盛んに蛮勢を張らんとする兆あり、その筋にて目下厳戒中と聞く〕(萬朝報、9・6)

 流行語「ハイカラ」、たとえばこんなふうに・・・
 ♪金縁眼鏡のハイカラは
  都の西の目白台 女子大学の女学生
  片手、ハイロン ゲーテの詩
  口に唱える自然主義   (神長瞭月『ハイカラ・ソング』)
 
 7月1日より読売新聞連載、『現代に名をなし或いは将になさんとする、文士222名』。
 50代 坪内逍遥・森鷗外ほか、40代 幸田露伴・夏目漱石・徳富蘆花ほか、30代 田山花袋・泉鏡花・島崎藤村・高浜虚子ほか、20代 与謝野晶子・木下杢太郎・北原白秋・三木露風・石川啄木ほか

 〔・・・貸本屋来たけれど、6銭の金がなかった〕(啄木日記、4・13)〔北原白秋から贈られた『邪宗門』も売ってしまった〕(5・8)
 〔とうとう、『あこがれ』(自分の処女詩集)と他の2、3冊を持って郁文堂に行った。15銭に売れた。 「これは幾らなんだ?」。予は、『あこがれ』を指した。本屋の主人が言った。「5銭、―ですね」、ハ、ハ、ハ〕(5・16)
 7・6 閣議、韓国併合断行を決定。
     憲兵、警察官を増派。
 7・24 総監府告示、司法及び監獄事務委譲に関する覚書調印。
 8・13 閣議、清国間島地方の韓国人を保護下に置くことを決定。
 9・4 南満州に権益拡大(くわしくは後章で)。
 10・18 韓国における犯罪即決令・公布。
 10・26 伊藤博文、暗殺さる! 
 



 ●『聞書・庶民烈伝』 竹中労
 ●『聞書・庶民烈伝』が三一書房から復刻されたのを機に読み直してみた。

「今この人あれば」という思いを強くするのは私だけだろうか。
 以下に紹介する章は、三一書房版では未刊(下巻に収録予定)だが、潮書房版・第3巻から紹介します。(雑誌『潮』1984年2月号~1985年3月号) 

 ●第六章 誰そ我に、ピストルにても撃てよかし


 断片的な回想(石井八重子さん・聞書)―房総・大東海岸のお宅にて―

 新聞5つもとってるの、テレビもよく見るんですよ。せんだっても石川啄木、なつかしくて泣いたわ。小奴さん富山の養老院で亡くなったんでしょ。あの方は釧路で、大きな大きな旅館のおかみさんやってたのよ。北海道にゆくと、かならず小奴さんのとこに泊って、オノロケを聞きました。昔は芸者さんだから、長いおべべを着て色っぽい人。弟が株で失敗をして旅館をとられちゃって、晩年は惨めだったの。6畳1間に寝たっきり、五千円札が丁度出たとき、お見舞いにいって1枚だけ、お布団の下に置いてきたんです。私ってケチ、2枚も3枚も持っていたのに全部上げなかった。

 ええ、丈夫なときには啄木とのことをそれは事こまかに、女同士でしょ遠慮がないのよ。旦那に京都見物をねだって、本心は彼に会いたくって、東京に着くとその足で、三越で買いものするからって下宿へまっすぐ・・・

 竹中・註:明治41年5月、函館から上京した啄木は、与謝野鉄幹・晶子夫婦を頼る。『明星』は凋落し、詩壇は新たな星座を軸に回転する。森鴎外の知己を得、北原白秋・木下杢太郎・吉井勇・平野万里とまじわり、『スバル』を創刊したが収入皆無。
 旧友・金田一京助の止宿先、本郷「赤心館」に同居、間代不払い追われて9月、「蓋平舘」に移った。『日記』によれば小奴がたずねてきたのは、12月1日のことである。つかのまの逢瀬、旦那である逸見豊之輔の妾になれとすすめて同月7日夜、啄木は小奴と別れた。〔イキな染分けのお召、悲しき身の上の相談、言いがたき哀愁を抱いて、1人電車で帰る〕

 本郷の下宿で、2人で抱きあっているところへ、金田一さんが障子をガラアとあけちゃったんですって。間が悪いってなかったわ、そんな内証の話をするの。みんな死んじゃったわね、生きてらっしゃるのは佐々木孝丸さんぐらい。小生(こいけ)夢坊先生はお元気? たしか、私とおない齢、かぞえで90だもの。そう、明治30年うまれ。いいあんばいに頭はボケてないの、記憶がしっかりしている間に、話を聞きにいらしてね。

 浅草は、もうお見限りかしら? まあしょっちゅういらっしゃる、感心だこと。毎月8日に出かけていくのよ、仲見世の「今半」。昔のファンの方だちとシャブシャブをいただいてから、漠★の記念碑にお参りをするの。
 ★ 石井漠=八重子さんの夫君、日本現代舞踊の創始者・浅草寺の境内に碑が建っている。

 谷崎潤一郎さんが、「山に登る」って題字を書いてくださったでしょ。谷崎さんは私のごひいきで、たしか大正9年に芥川龍之介さんとご一緒に中国へ旅行して、おみやげに毛皮をいただいたの、それは豪奢な栗色のリス。オーバーに仕立てて、滅多に着ないで頬ずりしてたのよ。それがあなた、漠が洋行するときにお金が足りなくなって、質屋に入れちゃったの(笑)、大震災で店もろとも灰サヨナラ。

 漠って人はお金のこと全然ダメ、私もそう。無一文で、ヨーロッパヘゆこうと思い立ったらもう、矢も楯もないのね。費用を出してくださったのは、「日本館オペラ」の根岸寛一さんです。日活多摩川の撮影所長になって、満映で甘粕大尉の片腕だった人。そうそう「木馬館」、いまの方は甥に当るんでしょ。亡くなったの、まあ! まだお若いのに可哀そう、あなたも気をつけなくちゃダメ、働きすぎがいちばんいけないのよ。

 ごめんなさい、とりとめなくて。頭の中にわっと、いろんな人が出てくるの。明治38年から話さなくっちゃ、私が9つのときね、日比谷で焼打ちがあって大騒ぎ。そのとき、私の家も火をもらっちゃったの。日本堤の警察署が焼かれて、その隣がうちでしょ。忘れもしない9月の6日、<戒厳令>の夜。6つの弟の手をひいて、吉原土手をいったりきたり。ええ、この弟が大場勇。「聞け万国の労働者」ってメーデー歌をつくったの、ご存じなのねうれしい。

 社会主義なんです、下町は。うまれは根岸、父親が神田の郵便局長から仙台に転勤して、みじかいあいだ東京を離れていましたけど、生粋の江戸っ子。その父親が病気で倒れて貧乏のどん底、小学校には4年まで。根岸にいたころは乳母日傘(おんばひがさ)、孫文・タゴール・金玉均、亡命してきた革命家をかくまったりしたんです。国士というのね、祖父はそういう人でした。ものごころついたときは、没落して塾を開いてました。小学校は東盛、貧民街の子供たちを集めて特殊教育。大正になって牧口常三郎という校長先生、『潮』を読んでびっくりしたの、創価学会を始めた人なのね。有名だったんですよ、下町の聖者みたいな人格者で。
 
吉原の手前でしょ、きれいな芸者衆やお女郎が人力車で通るのよね、お女郎になりたくって(笑)。男の子は鼻タレ小僧、貧乏な家が多いから夜間もあって、欠食児童っていうのね、お弁当持ってこられない子たちもずいぶんいたのよ。

 お女郎にはなれなくて印刷局、いまの造幣局ですね。お札をつくる女工さんになったの、神田堤の郵便局の前を通って三菱ヶ原と言いましたけど、てくてくと歩いてくんです。1時間もかかる道を。工場に入るときは真っ裸になって、中で作業服に着かえるの。帰るときにもまたはだか、1尺ぐらいの棒をまたぐのよ。お札を股にはさんでたら落っこちるからなのね。恥ずかしいより口借しくて、火をつけてやりたいくらい。外に出ると、神田堤の下の大根河岸は浮浪者がいっぱい。日露戦争のあとで、世の中はもうひどい不景気、札束を1つ投げてあげたらなあと、こんどは女賊にあこがれたり(爆笑)。

 ほんと、夢多き少女時代。三菱ヶ原で四つ葉のクローバーを摘んだり、日比谷公園を散歩したり。美人だったのよ私、ジョーゼットの白い肩掛けを、春の風になびかせて。そしたら声をかけられて、「貸してくれませんか?」って、それが石井漠だったの。帝劇の洋舞第1期生、古典バレエに疑問をいだいて、山田耕筰さんのところで、創作舞踊詩に熱中していたんです。それで発表会、ええ『牧羊神(パン)と水の精(ニンフ)』。あなたはツーと言えばカーだわね、よくご存じ。北原白秋さんや木下杢大郎さんが、「パンの会」をつくったころです。そう明治42年(41年結成)、ニンフのかぶる被衣(かつぎ)にちようどいいからって。ぶきっちょな感じの人なの、ところが舞台を見て2度びっくり、ああこの人は天才なんだって。運命の糸、がそれでつながったの、50年も一緒に暮すことになろうとは思わなかったけど。

 ・・・ああ、忘れていたわ。『明暗』が朝日新聞に連載されて、私が挿絵のモデルに頼まれたの。画家は橋口五葉さん、そのころ夏目漱石ってそんな偉い人と知らなかったのね。五葉さんのアトリエにいらして、お茶を飲んだあとご自分で茶碗を洗うんです、私のもついでに。へえ! この人が帝大の先生、なんて思っていたらまあ、どんどん文豪になっちゃった。私って幸せ、みんなに可愛がってもらったの。

 ついでにモデルまで有名になって、時事新報の記者が取材にきました。邦枝完二、あなたのお父様(竹中英太郎)が挿絵を描いていらっしゃるでしょ(註・竹中英太郎、昭和初年の流行画家)。そう、『女学生殺し』。まだ小説家になる前のことで月給25円、それで結婚を申しこまれたの。押しの一手、毎日くるんです。漠とは初恋プラトニック・ラブ。邦枝とついに結婚しちゃった。かぞえで17、大正と年号があらたまる直前ね、文金高島田でポー(笑)。

 邦枝のうちは、宮中のお籠やら馬車を造ってるの。朝から晩までお掃除、私はだらしがなくて、ちらかっていないと落ちつかない。社会主義の気もあるし、家事労働を軽蔑してる。最低のお嫁さんね、むこうは出てゆけよがし、こちらも毎日ツマンナイ。とどのつまりは『人形の家』、新聞で漠が帝劇をとび出して、山田耕筰さんと鶴見の花月園で野外舞踊をやっているという記事を見ました。今はこんなおばァちゃんだけど、若いころはむこうみずのお八重ってくらいのものよ(笑)、すぐ見に行っちゃって、あす京都へ発つんだと言われて、私もついていくわ。冗談だと思ったんでしょうね、「ああ構わないよ」。

 で、翌日の列車に小さい風呂敷包みを1つかかえて、乗りこんでしまったの。


 ★甘粕大尉と辻潤のこと


 京都駅に着いたら、竹久夢二さんが迎えに来ていたわ。籍は入ってなかったけど、私は夫を裏切って<不倫>をおかしているご身分(笑)。漠が夢二さんにたのんで、君の女友達ということにして楽屋に一緒に出入りしてくれ。邦枝のとこは、本人はともかく両親はせいせいしたんでしょ、それっきり何も言ってこない。漠と正式に結婚をして、「日本館オペラ」の旗上げ、これはもう大正6年ね。

 宮本三郎さんが看板を描いて、『女軍出征』『カフェーの夜』、大入り満員。島村抱月先生も、お須磨さん(松井須磨子)も来てくださって、ぺんぺん草ぬくのを手伝ったり、ほんと日本館にはぺんぺん草が生えていたのよ。漠の名前をもじって、獏与太平なんて人もいて。そう、古海卓二さん。『トスキアナ』というオペラをつくったの、ひっくりかえすとアナキスト(笑)。♪島へおいでよ、戦争なんかありませんから・・・

 楽屋に文士たちがいつも遊びにきてたわ、徳田秋声さん・有島武郎さん・大杉栄さん。大杉さんはその筋の要注意人物で尾行がついてくるのよ、3人も4人もでしょ。「タバコ買ってきたまえ」なんて、全然へっちゃら。「舞台労働者だよ、つまり諸君は!」と言うのね。漠はとってもその言葉が気に入っちゃって、無政府主義にかぶれたの。そう、高田保っちゃん。今東光さんや東郷青児さんもアナキスト、ペラゴロの親分格で家に居候をしていました。みんな、太杉びいきでした。東海林太郎さんもそうよ、早稲田の学生だったんです。

 そのころうちは松葉町で、梁山泊みたいだったのね。だって月給が千円ですもの、いまだったら何百万円。居候がごろごろ、私はお料理も不得手だから、大きなお鍋持っておでん買いにいくんです。居候がアネサンって私を呼ぶの、もうまるでやくざの1家(笑)。20すぎたばかりでし。こっちも、アイョおでん食いな、片っ端から使っちゃう。それで、洋行のときに1文無し。

 大杉さんを殺したのは、甘柏大尉だと言うけれど、私は信じられない。だって根岸寛一さんは大杉さんのお友だちよ、それもただの関係じゃなくて、足を突っこんでいたの運動にも。その大杉さんを殺した甘粕大尉の満映で一緒にお仕事をするなんて、変だと思わない? 私、霊感があるんですよ。一眼みればこの人は無罪か、有罪かわかるんです。あなたも力を入れてらっしゃる平沢貞通さん、あの人は絶対に無実! 刑務所に何度も面会に行ったけど、ウナ丼を食べたいと言うの。それで蒲焼をビニール袋にかくして持ってっては、食べさせてあげたの。

 それが見つかったのよ、「あなた様が面会の折に、医療上禁じられている鰻の蒲焼を、職員の隙を見て本人に手渡した行為はまことに遣憾であります」。注意書きをいただいちゃって、もう会わせてくれないの(爆笑)。

 ええと何の話だったっけ、そうそう甘粕大尉のこと。震災のあとで私たちは目黒の郊外に引っこして、「自由ヶ丘」と名づけたんです。石川達三さん・小糸源太郎さん・石坂洋次郎さん、根岸寛一さんもいらしたし、漠が初代村長です。三島由紀夫さんもあとからいらしたんだけど、石川さんが仲間に絶対に入れないとおっしゃるの、右翼だから。右翼と言えば、児玉誉士夫さんだって住んでいたのよ自由ヶ丘に。石川さんは硬すぎるわね、ゆうずうのきかない人。

 あれは昭和7年だったかな、パリでルンペンやってた辻潤さん、伊藤野枝さんのもとのご主人が強制送還されて、自由ヶ丘を徘徊してたの(笑)、ボロを着て尺八1本持って、垢だらけで臭いのぷんぷんと。もう、神経が侵されちゃって。ぬっと上りこんで家中さがして、お酒をみんな呑んじゃうのよ。北原白秋さんが亡くなる少し前、もう何を食べても飲んでもよいとお医者さんがおっしゃったので、少し残っていたイチゴ酒をさしあげたんですけれど、これもほとんど辻さんの胃袋に消えちゃったの。小さな行李を一つ、後生大事にあずかってくれって。中身は野枝さんの形見の品々だって言うの、戦災で焼けちゃったけど何が入ってたのかしら。

 ・・・根岸さんの紹介で、甘粕大尉がうちに見えたんです。満映の大スター李香蘭(リシャンラン、りこうらん)、山口淑子さんねいまの、舞踊を教授してもらえないかって。そこへ辻さんが例によって、お酒をさがしに入ってきたの。バッタリ顔をあわせちゃって、冷やッとしたわ。だって、野枝さんを殺したのも甘粕大尉ということになってる、困ったどうしよう! さいわい気づかないで、「や」とか何とか言って、辻さんは出ていったの。そのとき甘粕大尉の方は、わかっていたんじゃないかしら、なんとも言えず淋しい眼をして見送ってたわ。

 あれは、大杉さんや野枝さんを殺した人の眼じゃない。あなた、どうお思いになる?
何もかもきのうのことのよう、うんとおしゃべりしたい、明治のことも大正のことも、昭和だって戦前は誤ってつたえられているでしょ。石井漠は戦争に協力したとか、戦犯の慰問に行って批判されたり。そうよ戦後だって、書かれたことは間ちがいだらけなんですよ。木村梢ちゃん、邦枝の私のあとの奥さんの娘ね、<伝記>を書いてくれるって。いいの遠慮しなくっても、あなたはあなたで、私のことよく知っているんだから。
 左翼なんでしょあなたまだ(笑)、アラブに行ってきたんですって? 重信房子さんと会ってきたのね。私、あの人好きよ。可愛いひと、そうお思いにならない? あらノー・コメント、女は苦手なの? ごめんなさい、話があっちこっちになって・・・

 漠さんが亡くなられて23年(昭和37年1月7日昇天)、週刊誌『女性自身』に追悼の小文を載せてからのおつきあい。童女のごときこの人に、私は憧憬に似た感情をいだく。さかのぼれば江戸川乱歩原作&石井漠主演『一寸法師』、直木三十五プロデュースによる連合映画芸術家協会制作の美術を、わが父・英太郎が手がけている。さて、明治も終りに近づいた。歴史を検証する旅の進路を変え、<植民地>について考えてみよう。

 たとえば、「日帝36年間」。朝鮮半島を侵掠し国家を奪い、暴政をほしいままにした。

 それが、原罪である。倭奴(ウエノム、日本人を蔑んでいう言葉)、反省せよ。あおいのご紋が眼に入らぬかー!ヘヘヘーッと、知識人はおそれいっちまう。水戸黄門の印籠じゃあるまいし、何で頭をさげにゃいかんの!? 一般大衆、すくなくとも戦後世代には理解のそとである。玄海灘には、どんな風が吹いているのか? 2つの民族を、加害と被害・隔意の対岸に立たせるバカヤロー(大島渚を私は断乎支持する)。差別再生産の構造は、両国人民のさらなる不幸を招き寄せる。

 外国人登録法指紋押捺の拒否を、<正当>であると私は思う。ただし、「日帝36年間」エキストラ・イニングスではなく、<管理されざる>個人の基本的な権利として。国家権力に収斂され外交手段にすりかえられる危惧を、指紋押捺拒否の民族的渦流に私はいだく。

 誤解のなきよう、戦前・戦中の<鮮人虐待>、現在も根深い差別を踏まえて、「日帝36年間」のこだわりを棄てようと言うのである。しばらく感情を排して、歴史を1局の棋のごとく見よう。

 台湾  35、904平方キロ/M28・日清戦争
 樺太  36、090平方キロ/M38・日露戦争
 朝鮮 220、788平方キロ/M43・日韓併合
  計  292、782平方キロ
 ・・・日清戦争時、大日本帝国の本土は約38万平方キロ。以降15年間に、その8割近い新領土を獲得した。さらに第一次世界大戦後(T9年)、南洋諸島をくわえる。満州&中国大陸と、版図を拡げていく布石は明治の中葉より置かれて半世紀、「大東亜共栄圈」=汎アジア制覇の最終局面で崩れ去った。

 日本及び日本人は、軍国主義・侵掠のけものみちを、単にゴリ押しに無反省に歩んできたのではない。だが1945・8・15、敗戦の時を境に歴史は書きかえられ、なべて戦前の体制は悪とされた。いわゆる「1億総ざんげ」、上つ方も下々も均しく共犯であるというロジック。裏がえせば、国民全体に失政のツケをまわすからくり。どこかで聞いたようなだって、寝ぼけちゃいけません。買弁(コンプラド-ル)・中曽根康弘、「経済摩擦の解消は国民のみなさん1人ひとりの責任で、百ドルずつのお恵みを」

  続く。
 





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